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10 思いがけない来訪者

 シンクロニシティ・レッスンは、鎔先生が連載休止にしている作品だ。今のところ、ストーリーよりもその絵柄で話題を呼んでいる。

 先生は、四十年のその画業の中で絵柄を変えてきた。最初期は書き込みが多かったが、途中からだんだんと線を少なくしてシンプルにしてきた。洗練されたと俺は思っていたし、若い世代のファンはそんな先生の絵柄に惹かれてついてきたが、初期からのファンは「手抜きだ」「年をとって衰えた」と言っていた。

 そんな中、今回のシンクロニシティ・レッスンは、アップデートされて今風になっている絵柄に最初期の書き込みが戻ってきて、鎔先生の画業の中でも最高峰と巷では評価されている。

 一方のストーリーの方だが、エンタテイメントという感じは薄く、どことなく文学的な匂いがするものになっている。主人公は二十代くらいのサラリーマン男性で、名前は明かされず顔の描写も避けられているが、その生活ぶりから独身で家族とは疎遠、友人も恋人もいない孤独な青年であることがわかる。

 彼は淡々と日々を暮らしていたが、ある日ふと奇妙な感覚に陥ることに気がつく。誰もいないのに、見られている気がしたり、雨が降る直前、胸があたたかくなったり。

 そして、主人公は時々、見知らぬ青年と同じ時間を共有している感覚を得る。場所は違うのに、同じ雨のにおいを感じる。同じ曲が頭に流れる。

 そして、主人公はそのうちに、その青年に出会う。圧倒的に美しい青年だが、周りの人は誰も彼を気にかけている様子はない。

 主人公は、彼を偶然何度も見かけたり、電車で向かいに座ったり、美術館で同じ絵を見ていたり、気が向いて出かけた海辺で立っているのを見たり、そんな偶然を重ねていく。二人の間に会話はなく、目が合うこともない。

 そんな日々の中、あるとき主人公はその青年と一瞬視線が合い、そこで読者は「何かが始まった」と感じる。

 そこまでが一巻だ。

 そしてそこから、その青年と感覚を共有することが増えていく中で主人公の日常に変化が少しづつ出てくる、というところで連載は止まっている。

「あの人は物語の先がどうなるか、私に何度も話そうとしたの。でも、私がそれをきくのを拒んで。それまであの人はストーリーの先を話そうとしたことなんかなかったのにそれを話そうとするなんて、もう自分には先がないのを悟ったんだって、私はそのことを直視したくなくて」

 先生は泣きじゃくりだした。

「私が困らないようにしてくれようとしていたのを、私は受け取らなかったの。そのことについての後悔であの作品の先を考えるのを避けてたの。どうやったって、私では彼が考えていたあの物語の先にたどり着けるとは思えなかったから」

「そんなことは」

「いいの。昔から、私、物語を考えるのが苦手で。デビューした頃、絵はいいのにストーリーがね、って編集者にはよく言われてたわ」

「でも、先生はずっと売れっ子ですよ」

「本当に私の漫画が売れ出したのは、私がストーリーを考えるのに苦労しているのを見かねた夫が案を出してくれて、そのとおりに漫画を描き始めてからなのよ」

 先生は、俺が拾ってきたシンクロニシティ・レッスンについてのメモを俺に返してきた。

「本当はね、シンクロニシティ・レッスンは未完のままでいいかなって思っていたの。でも、鹿鳴で司くんと巧くんに会って、ちょっと考えが変わったわ。司くんって、シンクロニシティ・レッスンのキーパーソンの青年に雰囲気が似てない?」

「わかります。中性的でさらっとしていて、なんか生身っぽくないというか。先生が描いた彼のキャラにもそういうところが出ていましたね」

「そうね。で、彼が巧くんと楽しそうに話をしているのを見て、あの作品をこのままで終わらせてはいけないと思ったの。あのままにしていたら、あの作品の中の彼がさまよったままになってしまう」

「主人公ではなくて、ですか」

「ええ。主人公はどういう人なのかわかっているでしょう。もしかしたらあのまま孤独で終わるかもしれないし、どこかで誰かと出会って人の輪の中に入っていくかもしれない。でも、キーパーソンの彼は違う。人間であるかどうかも明らかにされていない。もしかしたら人ですらなくて、世界の影とかそういう存在なのかもしれない。そこをはっきりさせないと、彼はあの作品の中ででも浮いたままになってしまう」

 それのどこが問題なのか俺にはよくわからなかった。それが表情に出ていたのだろう、先生は小さく笑った。

「昔好きで読んでいた小説があってね。続き物だったのだけど、そのときに好きだったキャラが、宙ぶらりんになった状態で肝心な設定が明かされないまま未完で終わってしまったの。あんなに魅力的なキャラがそんなことになるなら最初から書かないでくれって思ったわ」

「じゃあ、そのときの先生と同じ気持ちをシンクロニシティ・レッスンの読者にさせてしまうのは嫌だから続きを描こうと思った、ということですか」

「そうね。でも、それはちょっと綺麗すぎるわ。私自身があの彼をそのままにしておきたくなかったの。彼が物語を通じてどこかに連れていってくれるかもしれないって思ったの。私が続きを描けば、死んだ夫が書こうとしていた物語とは違うものになるでしょうけど、それでも、きっとあの物語はどこかに連れていってくれるわ。でも、さっきも言ったでしょう、私は物語を考えるのは苦手だって。それで、誰かにストーリーを考えるのを手伝ってほしいって思っていたのよ」

 きらきらした目で先生は俺を見た。俺は渋面を作った。

「何でそれが俺なんですか」

「あなたは夫を知っているわ。私のことも知っている。そして、物語を作ることができる。あとは、司くんにも会ったし。ここまで条件が揃っている人は他にいないわ」

 にこにこしながら先生は言う。どう答えたものかと俺は言葉を頭の中で選んでいたが、そのとき、インターフォンが鳴った。

「俺が出ましょうか。社長でしょうから」

「祷子なら勝手に入ってくるわ。きっとお客様よ。誰かしら。……担当編集者だったら嫌ねえ。そうね、津和くん、ちょっと代わりに出てもらえないかしら」

 そんな理由で俺が出ていいのかと思いながら、俺はインターフォンに出て、相手の顔を見、そして驚きで息を呑んだ。

 ウミツグリの社長の名瀬兆だった。

 名瀬社長は、グレーのジャケットにブルーのボタンダウンシャツという、カジュアルオフィスといった感じの服装だった。肩から大きめのキャンバストートを下げている。

「あの、鎔先生。こんにちは」

 彼は話しかけてきたが、俺はどう答えればいいかわからなかった。黙ったままでいると、また向こうから呼びかけがあった。こちら側にカメラはなく、あちらからこちらの様子は見えないので、そうなるのはわかる。

 確か、名瀬社長はシンクロニシティ・レッスンの続きの原作を書きたい、と先生に申し出ていたんだったか。だとしたら、先生がやる気になっているところに会わせるのは良いことではないか。

 そんなことを考えていると、インターフォンのマイク越しにまた別の声がきこえた。

「名瀬社長?」

 うちの社長だった。カメラの画像だと、コンビニの袋を腕から下げている。買い物から戻ったところのようだ。

 名瀬社長はうちの社長に向き直ると、軽く頭を下げた。

「こんにちは。お久しぶりです」

「ああ、KALVKの本社前で会って以来か。で、社長はそちらのマンションに用事が?」

「ええ。一ノ瀬社長も?」

「まあ。友人が住んでいるんで」

「友人、というのは鎔蘭先生ですか。僕も先生に用があって」

「鎔の方には用はないと思うが」

「それは貴女には関係のないことですよ」

「言っておくが、私は鎔に全部きいている。その上で、友人として鎔を守るように動いている」

「友人として、ですか。先日、羽田で鎔先生とそちらの社員が一緒にいるところに出くわしましたが、あれもその一環ですか」

 俺が誰か、名瀬社長にはわかっていたらしい。うちの社長は鼻を鳴らした。

「それに答える義務があるか?とにかく、鎔には会えない。諦めて帰れ」

 そのとき、先生が俺の背後からやってきて、インターフォンのマイクのボタンを押した。

「祷子、待って。名瀬さんに伝えたいことがあるのだけど」

「一緒に部屋に連れてこい、と?」

「いいえ。もう今日この機会に伝えておこうと思って。名瀬さん、先日から申し出のあった、シンクロニシティ・レッスンの続きの原作を書かせてほしい、という申し出ですけど。改めてお断りします。私、自分で書くことにしましたから」

 名瀬社長は上擦った声で、

「そんなことがあなたにできるんですか。あなたは絵は素晴らしいが、ストーリーテリングはそこまでじゃない。それはデビュー当初、あなたの夫が原作につく前の作品からわかることだ」

 名瀬社長は本当に鎔先生のファンらしい。俺もそんな昔の作品は読んだことはないのに。

 そんなことに俺が内心で感心していると、先生は言った。

「私一人ではやるとは言っていないわ。津和くんに助けてもらって書くことにしたから。祷子、いいわよね。津和くんを借りるわよ」

「津和が承知したんなら私が口を出す筋合いじゃない。津和、いいんだな?」

 社長の切り込むような声がスピーカー越しに聞こえてくる。俺は唇を噛んだ。俺にそんなことができるとは思わなかった。が、すがるように見てくる鎔先生の視線を受けて、断ることはできないと俺は思った。

「大丈夫です、社長。先生を助けて頑張ります」

「ということだ、名瀬社長。お引き取り願おうか」

 うちの社長の声が聞こえ、そこでインターフォンは切れた。

 やっちまった、という思いを込めて俺はため息をついた。そこに鎔先生が歩いてやってきた。

「ありがとう、津和くん……!」

 目尻に涙を浮かべている鎔先生に、俺は頷いてみせるしかなかった。


本作の過去編も同時投稿しています。

読んでいただけたら、この作品をより楽しめるかなと思いますので、よろしければそちらもどうぞ。

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