3 司たちの過去
オーナー夫人はあっという間に店の奥に姿を消した。あっけにとられる俺と鎔先生に、客の一人、オーナー夫人よりも少し年長に見える女性が言った。
「奥に勝手口があるんで、そちらから駐車場に行くんでしょう」
俺はおそるおそる訊いてみた。
「あの、俺、何かまずいこと言いましたか」
「あなたが悪いのではないの。久山さん、縁くんの母親代わりのつもりだから。悪い友だちとつきあうのはやめさせたいっていう一心なんですよ」
縁くん、というのが誰のことかわからず、俺と鎔先生は顔を見合わせた。俺たちの戸惑いは客たちには違って受け取られたらしい。口々に話し始めた。
「縁くんのお母さんは二年前に亡くなっていて」
「お母さんっていっても養母なんだけど」
「それはどうでもいいじゃないの。神村先生は実の親以上に愛情をかけて縁くんを育てたんだから」
「そうねえ。で、縁くんのお母さんが亡くなってから、久山さんが母親代わりになるっていって世話を焼きだしたの。仕事のこととか人付き合いのこととか。今になってそんなことするくらいなら、縁くんを引き取る話が出たときに自分が引き取っておけばよかったのに」
「あのころはあの人もまだ若くていろいろと忙しかったから、そういう気持ちになれなかったんじゃないの。それに、神村先生が育てて正解よ。最近の久山さんの口の出しようといったら。子育てには向いていなかったと思うわ」
「確かに。就職とか結婚のことまでどうにかしようって、本当に縁くんがかわいそう」
「そうね。本当ならもっといい大学に行けたのに、とか。いいじゃないのよねえ、神村先生の病気のこととかいろいろあってこの町から離れないって決めて選んだ道なんだから」
「そうなんだけど、縁くんが高校時代、成績が良かったのを知っているから、勿体ないって思っているのよ。それに就職だって。縁くんが就職活動しないってきいて、市役所に入れ、って。募集の資料を縁くんに渡しているのを見たわ」
「そんなことしなくたって、縁くんは神村先生から引き継いだ不動産があれば食べていけるんでしょ」
「らしいわね。その管理のために資格を取ったって前に縁くん、話してたわ。いろいろ考えてるわよ、あの子。この店の経理も見られるように簿記の資格も取ったって言ってたし」
話の様子からすると、縁くん、というのは司のことらしい。
「あの、久山さんがつき合いをやめさせたい友だち、というのは巧くんのことですか。彼はそんな悪い人間には見えませんが」
「そうねえ、悪人ではないけど、でもカタギじゃなさそうというか……何しているのかわからないというか」
「そうよねえ。あの子、お金に困ってなさそうだけど、高校も行かなかったのに何の仕事をしているんだか」
「そうそう。見た目はいいからこの辺りの女の子たちはみんなのぼせてるけど、困ったことだわ」
「巧くんは中卒ということですか」
グラハムの会社で役員をしているときいていたが。
お客さんたちは頷きながら、
「そうなの。そもそも、巧くんは中学校も途中から不登校で」
「でも、あれは学校が悪いわよ。巧くんの生まれつきの髪の色に文句を言って、学校で先生が数人がかりで無理矢理黒染めしようとして。巧くんは隙をついて逃げたのだけど、それ以降、あの子は学校に行かなくなったのよ」
「代わりにこの店に入り浸り始めたのだけど、そのせいで一時、このお店は不良が集まる店だって言われてたのよね」
「集まるって言っても、巧くん一人がいるだけだったけどね」
客たちは皆苦笑していた。俺は訊いた。
「巧くんは学校に戻らなかったんですか。今の話だと、彼に落ち度があったわけじゃない」
「そうね。周りも学校に戻そうと動いたのよ。巧くんも成績は良かったから、勿体ないって。でも、巧くんは戻らなかったわ。怒ってたのね」
「髪を無理矢理染められそうになったからですか」
「それよりも、縁くんが怪我をさせられたっていうことに怒っていたわね」
「怪我?」
「ええ。巧くんが先生たちから逃げるときに縁くんが巧くんをかばって、それで先生が縁くんに暴力を振るったの。それで大怪我をして」
「とんでもない教師ですね」
「ええ。それまでは、まさかそんな先生だとは誰も思わなかったのだけど。その後はすごかったわよ。神村先生が……縁くんのお母さんがものすごく怒って、市長とか教育委員会の委員長とか何人かの議員さんまで巻き込んで責任を追及して」
「市長と教育委員会の委員長に議員……?」
それはモンスターペアレントという奴なのでは。
しかし、話をしてくれる人たちはそんなことは思わないらしい。
「神村先生は踊りを教えていたし、神村先生の叔母さんも昔お茶を教えていて、この町の名士の奥さんたちと繋がりがあったのよ。そういった関係で、神村先生からそういった人たちに話を持って行ったっていうだけよ」
その結果からか、巧にも縁にもお咎めはなく、寧ろ巧には校長からの謝罪があったが、結局巧は中学校に戻らず、高校にも行かなかった。……その経歴で、何でグラハムの会社で役員をやるなんていうことになっているのか。まあ、周りが知らないだけで高卒資格をとって大学に行った、とかなのかもしれない。それでもやっぱり今の地位に就けているのは謎だが。
そのとき、店の入り口から司が入ってきた。雨が少しやんできたのか、ほとんど濡れていない。
司を見て、客たちは口々に声を掛けた。
「縁くん、こんにちは。久山の奥さんと駐車場で会わなかった?さっきそっちに行ったんだけど」
「もしかして、奥から回っていったんですか。だったら行き違いですね」
「巧くんは?」
俺が訊くと、司は肩を竦めてみせた。
「車にいます。ちょうどグラハムから連絡が入ったから返事をするって。津和さん、飲み物のお代わりは?」
俺のカップが空になっているのを見て司が言うと、客たちからも注文が次々と上がった。
それから夕方まで俺たちは喫茶店にいた。鎔先生は途中から絵が描きたくなったと言って、一人だけでガラス障子で仕切られた大きなテーブルが置かれている方の部屋に移ると、スケッチブックに一心不乱に描き続けていた。
オーナー夫人は途中で夫とともに奥から出てきた。夫の方は作務衣の上下に頭に捻り鉢巻きをしている。他の客から陶芸家だときいていたが、納得の風貌をしている。
オーナーは鎔先生に挨拶をした後、店の片隅にいた俺のところまで一人で来て、丁寧に挨拶をしてきた。
「初めまして。久山といいます。この店のオーナーです。津和さん、でよろしいですか。いろいろと話は縁くんからきいています。二人のこと、よろしくお願いします」
二人、というのは司と巧のことだろう。夫人よりも余程保護者っぽい態度である。夫人の方はさっきまでの勢いの良さはなりを潜め、大人しく夫の傍にいた。
五時過ぎに俺と鎔先生はカフェを辞去した。小降りになってきていた雨の中、司とともに駐車場の車まで行くと、巧は車の後部座席で小さなラップトップパソコンをいじっていた。俺たちに気づくとラップトップを閉じ、ラゲッジルームに置かれていたトートバッグに無造作に入れた。俺たちと入れ替わりで車を降り、助手席に座る。
「もう店はいいのか」
巧が訊くと、司は小さく頷いた。
「うん、閉店までまだ一時間あるけど、そこはオーナーたちで対応するって。僕は鎔先生と津和さんを宿に送ったら、今日はもう上がっていいって言われた。明日も明後日も来なくていいって。鎔先生のお世話をしっかりしなさいって」
「それは良かった。じゃあ、行くか」
カフェから宿まではそう遠くはなかった。走り出してすぐ到着した、という感じだ。交通量が少なくてすんなり進めたというのもあるだろう。
宿は海の傍にあり、二階建ての和風建築と四階建ての四角いビルが組み合わさったようになっていた。全室オーシャンビューで、俺と鎔先生は和風建築の方の棟の二階にそれぞれ部屋をとっていた。
ファンの人たちからもらった手みやげがかなりの量だったので、司が宿まで運んでくれることになった。司の先導で鎔先生と俺はフロントへ行く。
こちらの名前を伝えると、フロントの男性は、申し訳ないのですが、と深々と頭を下げた。
「折角お越しいただいたのですが、ご予約いただいたお部屋のある建物がひどい雨漏りでお使いいただいたくことができません。お客様におかれましては、他の宿に移っていただきたく」
「他の宿って……空いている部屋はないんですか」
「はい。雨漏りの影響がひどくて、使えなくなった部屋が多いんです」
俺と鎔先生は顔を見合わせた。今から宿を探すしかないが、先生を矢鱈なところに泊まらせられない。そんなことをしたら社長にどやされる。
返金についての説明を受けた後、俺は司に訊いた。
「どこかいい宿を知りませんか」
「そうですね……。ひとまずは車に戻りましょうか」
確かに。フロント前で立ち話をしていても仕方がない。
俺たちが車に戻ると、巧が怪訝そうな顔をして訊いてきた。
「今日の宿はここじゃないのか」
「部屋が雨漏りで使えないんだって。他は満室らしい。今から宿を探さないといけない」
司が言うと、巧はあっさりと、
「じゃあ、うちに泊まればいいだろ」
と言った。




