2 カフェ久山
久山、というのは司が勤める喫茶店のオーナーだという。巧がいう「久山のおばはん」というのはオーナーの妻のことで、司は少し言葉を選ぶようにして、
「店にはいつ来るんだって訊いてきた」
「やっぱり避けられなかったか」
「そうだね。空港に迎えに行ってしまえば、もう店に行かなくて済むと思ったんだけど。……すみません、鎔先生、うちの店に行ってもらっていいですか」
「構わないけど。何か問題があるの?」
「まあ……。オーナーの奥さんが鎔先生のファンなんですけど、知り合いでやっぱり鎔先生のファンの人たちを集めて店で待っているんです。長旅でお疲れのところ申し訳ありませんけど」
「謝ることないわ。ファンの方たちに会うのはいつでも嬉しいものよ」
「駐車場が店から少し離れていて、店まで歩くのに少し濡れるかもしれません。店の前につけられればいいんですけど、道がそんなに広くないので、なかなか難しいんです」
「大丈夫よ。私はそんなにひ弱じゃありません」
鎔先生が笑う。
司はなかなかの飛ばし屋だった。滑らかに運転するからわかりにくいが、かなりスピードを出す。結果、思ったよりもかなり早く鹿鳴の町に着いた。
司が勤める喫茶店は、町屋と呼ぶべきなのか、そういった古い建物が立ち並ぶ一角にあった。司の説明ではその地域は伝統的建造物群保存地区に指定されており、江戸時代から昭和初期に建てられた建物ばかりが並んでいるという。
店の前に着いたとき、ちょうど向かいから宅配のトラックを先頭に二台ほど車が向かって来ていた。こちら側も後続車があったので、司は俺たちに断りを入れながら店から数軒先の空き地に車を停めた。地域柄、駐車場が店のすぐ隣にあるというわけではなく、数軒先の空き地が店の駐車場として使われていたのだった。
外はものすごい土砂降りで、車に積まれていた大きな傘を司は俺に渡してきた。
「鎔先生に」
言われて、俺はありがたく受け取った。先生が濡れないように気を付けながら先生と店に向かう。店はこの地区の他の建物と同じく、長屋形式の古民家だった。店の中は大まかにガラス障子で大きく二つに仕切られ、入り口から入った側のスペースはコンクリートが張られた土間にいくつもの木製のテーブルセットが置かれて煌々と明かりが点っている。ガラス障子の向こう側のスペースは対照的に明かりがついておらず、薄暗かった。大きな木製のテーブルがどんと土間の真ん中に置かれ、そして部屋の奥側に小さな地蔵が祀られた祠があった。
鎔先生と俺が店に入ると、店の中にいた十数名の客が一斉にこちらを振り返った。全員が女性だった。年齢層は、下は三十代から上は六十代くらいまで。その食いつくような視線に俺が怯んでいると、店の奥から初老の女性がにこやかな笑顔とともに出てきた。
「鎔蘭先生でいらっしゃいますね。ようこそ、カフェ久山へ。この店のオーナーの妻で、久山と申します。先生がこちらに来られると店長からきいて、お待ちしていました。ここにいるお客さんたちも鎔先生のファンで、一目でいいからお会いしたい、と待っていたんです」
鎔先生はにこやかに礼を言い、オーナー夫人の案内で奥の席に着いた。司はオーナー夫妻に、鎔先生がスケッチ旅行をしに来るのだと話していたようだった。鎔先生の旧友が熱心なゲーマーで、その人と司たちはネットで知り合い、その人伝いに鎔先生が司たちの地元にスケッチ旅行に来る計画があるのだときいて案内を申し出たのだと。まあ、大まかには間違ってはいない。
俺が傘を畳んで傘立てに入れていると、オーナー夫人は入り口まで戻ってきて、俺に声を掛けてくる。
「編集者さんもどうぞ。店長もじきに来るでしょうし」
言葉に甘えて、店の隅の空いていた席に腰を掛ける。オーナー夫人は俺たちから飲み物のオーダーをとると、すぐにそれぞれの飲み物を出してくれた。
鎔先生が客たちと楽しそうに会話をしているのを横目に見ながら、俺はスマホをチェックした。マネジメントチームメンバーからの業務連絡の他、所属タレントからのメッセージが入っていた。タレントたちからのメッセージ内容に俺は思わず眉間に皺を寄せた。七周年記念ライブ前という忙しい時期に俺が遠方へ出張していることについてのクレームだった。
津和主任がいないと話が進まないのに、どこに行っているんですか!
困っていることがあります。主任と直接話したいです。
何で誰も津和主任の出張内容とか知らないんですか?これじゃ主任が出張先で相談対応できる状況かどうかわからないじゃないですか。
……等々。七周年ライブに参加予定の七人のタレントのうち三名が何度もメッセージを送ってきていたのだった。
一人目は、藍堂鈴華。第一期生で、事務所のエース。俺とは七年来のつき合いだ。
二人目は、柳沢梨雨。第五期生。気弱な子で、精神的に俺に依存しようという感じがある。
三人目は、鳳桐香。滝沢と同期で同じユニットに所属し、理知的で、ユニットの中でも仕切り役。
メッセージを送ってきていたのはこの三人で、俺はとりあえず鳳に、昼間は即時の対応が難しいこと、夜のある程度遅い時間帯なら返事を送れることを返信した。鳳からはすぐに「了解」との返信がついた。
あとの二人は今のところ放っておくしかない。藍堂はメッセージのやりとりが始まったら延々とラリーが続くだろうし、柳沢はオンラインででも会って話をきくしかないからだ。
藍堂はまあ、気の済むまで対応すれば収まるだろうが、柳沢はなあ……。マネージャーがいるんだから、悩み相談とかそういうのはそっちでやってくれという感じだ。というか、この二人のフォローも含めて前島主任がサポートに入っているのに、そこを飛び越えてこっちに言ってくるなという話だ。
厄介ごとの気配を感じて俺が軽く気鬱を感じていると、オーナー夫人が鎔先生に話しかけているのが聞こえた。
「すみませんねえ、鎔先生。店長がもたついていて。あの子ったら、本当に責任感がないというか」
司が店をあけたままにしていることについて詫びているらしい。オーナーと司は親戚ときいているので、「あの子」呼びもおかしくはないが、言葉に刺を感じるのは気のせいか。
鎔先生は笑顔のまま、
「いえいえ、忙しいのに空港まで迎えに来てもらって、本当に助かりました。鹿鳴に滞在している間は車を出すとも言ってもらえて、こちらとしては大助かりです」
「あら、そうなんですか?すみません、明日以降のことは聞いていなくて」
「まあ、すみません。お言葉に甘えてしまっては良くなかったですか。お店のご迷惑になるようでしたら、自分たちで何とかします。ねえ、津和くん」
「はい。明日は巧くんの家にお邪魔するだけなので」
いろんなところを回るのではないので、タクシーを一回頼めば済む話だ。そのことを伝えれば安心してもらえるかと思って言ったのだが、オーナー夫人の表情は明らかに曇った。
「巧くんの家、ですか。もしかして、空港からここまで、彼も一緒でした?」
「はい。あの、何か?」
俺が訊くと、オーナー夫人はにこやかな笑みを顔に戻し、
「いいええ、別に。ちょっと私、様子を見てきますね」
そう言って、店の奥に引っ込んでいった。




