樹・・・拒めなかった。
由梨奈とのキスを忘れたくなくて、あれ以来誰とも、唇を重ねた事はなかった。
それほど恋焦がれていた人と、10年振りに唇を重ねながら、俺の体は熱くなるどころが、だんだんと頭がそして心が冷えていった。
俺は由梨奈の両肩をそっと押し、一歩後ろへと下がりながら、親指で自分の唇に触れた。赤いルージュがついた指が、まるで血のように見えて、顔を歪めながら、また一歩後ろへ下がり
「…理香さんの言う通りだ。」
「樹…?」
誰ともキスをしたくなかった。
17歳のあの時に、すべてを捨ててでもいいと思うほどの愛を知ったから、あの激情の日々を忘れたくなかったから、もう誰とも唇を重ねることはしたくなかった。
だがそれは…
それは…今の由梨奈にも…だったんだ。
俺は、今の由梨奈とも唇を重ねたくはなかったんだ。
唇は気づいたんだ。もう…恋は終わっている事を…だからこんなにも寂しく、悲しいのか。
黒髪が好きだった。
キスをすると、白い肌が薄っすらと赤くなってゆき『幸せ』と言って、綻んでゆくあの口元が好きだった。
「樹」
あぁ、その少しハスキーな声も…
感情をいつも抑えるこの人が、時折見せる本当の顔があどけなくて、愛おしくて…
俺はこの人が、堪らなく好きだった。
「樹」と言って由梨奈は俺に手を伸ばした、俺が頭を横に振ると、由梨奈は伸ばした手を見つめ、ゆっくりと自分の体を抱きしめると
「あの時、なにもかも捨てて、樹のところに行けばよかった。」
俺は頭を横に振りながら
「あれは……俺の身勝手な行動だ。いつも『樹の好きにしたらいい』と言って、自分の心の内を見せない由梨奈に、俺は愛されていないんじゃないかと不安だった。だから…久住の家から逃げても、愛だけでは生きて行けるわけはないとわかっていながら俺は…逃げようと由梨奈を誘ったんだ。久住の家より、俺を選んで欲しかった。逃げられるはずはないとわかっていても…来て欲しかった。」
「樹、私は…本当にあなたを愛していていたわ。今も、今も愛している。」
由梨奈のその言葉には、俺は眼を伏せた。
どうしても、そうは思えなかったから…
「…信じてくれないのね。でも、そう思われても仕方ないのかも。あの頃の私は本当の気持ちは、いつも心の奥底に隠していたから…。」
そう言って、由梨奈はポロポロと涙を零した。
感情をいつも抑えるこの人が、泣きながら訴える思いに、俺は何を言っていいのかわからなかった。
涙を拭いながら、由梨奈は、「あの日ね…」と口して、俺をじっと見つめ
「樹と一緒に、外の世界に行くつもりだった。」
「由梨奈?」
由梨奈は薄っすらと笑うと
「あの日、私は籠を飛び出したの。」
「…駅に…俺のところに来たのか?」
由梨奈は頷きながら
「でも、大きな壁があって越えられなかった。」
「何が…あったんだ。」
「私の両親が駅の前で待っていただけよ。ただ、待っていただけ…。それだけで、もう私は動けなかった。」
「桐谷さんが…?」
「駅前で父は私に言ったわ。銀行からの融資が止まるって、それだけ言って踵を返したの。それですべてが終わった。私が戻られなければ、融資が止まる。そんな力があるのは…あの人だけ。」
「金銭が…この婚約の話に…金銭が絡んでいたのか?」
「雁字搦めだったの。桐谷家は元華族という血筋を売りにし、久住家から、破産しかかっていた桐谷家を立て直す資金を、婚資と言う形で貰ったの。ううん、それだけじゃない、断られていた銀行からの融資も、華子様の一言で翻ったわ。もう、選択はなかった。鎖に繋がれたのよ、私は。」
そして由梨奈は…ぽつりと
「そして…鎖はどんどん重たくなっていった。…樹…私は…」
俺を見つめる由梨奈の瞳は、大きく揺れ
「…ガンなの。子宮ガン」
「えっ…?!」
「でも…桐谷の父は、華子様からそれを隠そうとしているの。手術をすれば、場合によっては子供は望めないからだわ。久住の後継者を産む可能性が低いなら、婚約は破棄だと思っているのよ。だから病名がわかった時、父に言ったら、なんて言ったと思う。『結婚まであと一ヶ月なんだ。秋継さんが大学院を出るまで待ってたんだ…15年だぞ。ここで終わりだなんて…。しばらく、黙ってろ。取り合えず結婚さえしてすれば、どうにかなる。』ですって、父はそれほどまでして、力やお金を手に入れたいのかと呆れてしまったわ。父に言う前に、秋継さんや華子様に言っていれば良かったかなぁ。でも、そうしたら…ガンで死ぬより、野垂れ死にしていたかも…」
「由梨奈!」
「もう!久住にも…桐谷にも…縛られる人生は嫌!!自分のやりたいように生きたいの。助けて、樹。」
由梨奈は俺に向かって、手を伸ばし
「ずっと好きだった樹と一緒に生きて行きたい。」
10年前とは違って、感情をあらわにする由梨奈と…
感情を押し殺していた、あの頃の由梨奈と重ならなかった。
27歳の今の俺が、あの頃の由梨奈に、出会ったとしたら、俺は惹かれるだろうか…。
いや、17歳の俺だったから、あの頃の由梨奈に惹かれたんだと思う。
久住の家に振り回される同じ10代だった由梨奈に、自分を見ていたんだ。
だから惹かれた。だから一緒に久住の家から逃げたかったんだ。
だがもう、あの頃とは違う。自分の取り巻く環境も、由梨奈も、そして俺も…違う。
だからもうあの頃の思いには……戻れない。
俺の恋は…確かに終わっていた。
だが…助けてと手を伸ばす由梨奈を、俺はどうしていいのかわからず、ただ呆然とその手を見ていた。由梨奈の心と体は、久住の家に潰されそうなんだ。助けてやりたい。俺と同じ呪縛に囚われ、翻弄される人生を歩む由梨奈を…助けてやりたい。このまま死を選ぶようなことをさせたくない。
だが…俺は…
俺の心は…
動けない俺に、由梨奈は近づくと俺の胸に縋り
「…樹」と呼ぶと、声を出して泣き出した。
そんな由梨奈を、もう俺は拒む事ができなかった。




