はりぼて令嬢の家族
————そして、ジュリエットの持つ弓が、弦の上を滑ってゆく。
音が広がる。
水面に広がる波紋のように、音が広がって旋律となる。
それは、ただ完璧な正解だけをなぞる、繊細で美しい響きだった。
————どこか。
どこか寂しさを感じる、悲しみすら混じった音。
その旋律を奏でるジュリエットの胸に広がるのは、世界で一番贅沢なはりぼてだった自分への悲しさと、寂しさだ。
悲しいという感情を形だけなぞって出力していた頃とは違う。
悲しいという気持ちがわかる。寂しいという感情が痛いほどに胸を刺す。
————なぜなら。
逆の感情と気持ちを、知ってしまったから。
旋律は曲になり、会場を満たした。
まだ、コレットのヴァイオリンからは音が放たれない。
会場全てに広がった旋律は、観客の心に染み入るように余韻を残す。
気づけばジュリエットが一曲目を弾き終わっていた。
そうして、また同じ曲がジュリエットの持つ『暁の聖母』から奏でられる。
同じ曲を続けて?
そんな疑問を観客が持ち始めたとき。
一曲目では沈黙していたコレットのヴァイオリンから、ジュリエットの演奏にまるで割り込むかのように、音が放たれた。
それは、繊細な天上の美を力尽くで引き裂くような、獰猛で濁った琥珀色の重低音だった。
最初は短く。しかし徐々に長く、大きく。ジュリエットの音にコレットの音が重なるように響く。
繊細で美しい波紋を乱しているかのようにも感じられた音と音のぶつかり合いが————変わる。
雨上がりの雲を強風が吹き飛ばし、太陽の光が差すように。
ジュリエットの音が、明確に、変わる。
二人の音が出会い、混ざり合い、影響しあって、変わる。ひとつの旋律になってゆく。
変わったことで、観客はようやく理解するのだった。
ジュリエットの最初の音は、旋律は。
孤独だったのだ、と。
寂しい、悲しい、空っぽだ。
そんな孤独の旋律を、コレットの音が力強く塗り替えてゆく。
悲しみと寂しさを、喜びと祝福に替えてゆく————。
ニコラは隣の母が自分の袖を強く握りしめていることに気づいた。
その手をそっと包むように自分の手を添える。
母の目からは大粒の涙が止まることなくあふれ出していた。
そして、ニコラ自身も知らぬ間に涙を流していることに気づく。
名人、名工、名匠、神の手の名を欲しいままにした父。その父の最高傑作と呼ばれていた『暁の聖母』。
これほどなのか。
これほどまでに素晴らしい旋律を奏でるのか。
繊細で、美しく。
世界の美しさをそのまま形にしたような旋律は、想像をはるかに絶するものだった。
わかっていたことだった。わかりきったことだった。
それでも、思い知らされる。
自分は、まだまだ父には遠く及ばない、と。
————けれど。
けれど見てくれ! 大天才が至上の音を奏でているあのヴァイオリンの傍で、生きる喜びを歌うような力強い旋律を奏でているのは、俺が作ったヴァイオリンなんだ!
混ざり合い、影響しあい、そして高めあった二人の旋律がゆっくりとしたものになる。
そして、美しい余韻を観客の心に残して消えてゆく。
曲が、終わったのだ。
演奏会の最初の一曲が終わっただけだ。
だが、ここは音楽の街グランヴェルの観客たちだ。まだ二曲目や三曲目が演奏されることは知っていた。
それでも。
多くの観客は涙を流し、胸を打つ素晴らしい演奏に誰からともなく拍手をしたのだという。
割れんばかりの喝采が降る中、コレットは満足そうな笑みを浮かべていた。
◇
そして、全ての曲が終わり。
劇場の天井を揺らすほどの喝采の中、特別桟敷席のニコラは、痺れたように自分の両手を見つめていた。
隣では、母親が涙で顔を濡らしながら、何度も何度もステージに向かって拍手を送っている。
「……親父」
ぽつりと、ニコラの口から漏れた。
親父の作った『暁の聖母』は、確かに完璧な天上の美だった。逆立ちしたって届かない、至高の名器だ。
けれど、あの元孤児の少女が奏でた、地を抉るような執念の重低音は、その完璧な美学を力尽くで引き裂き、本物の生命の熱量を吹き込んでみせた。
親父の最高傑作を、俺の作った無骨な『武器』が変えてみせたのだ。
「ニコラ……素晴らしい、本当に素晴らしいヴァイオリンだねぇ……」
「ああ。……ありがとな、お袋。俺、もっといい楽器を作るよ。あのお嬢さんが、世界中のどんな天才にも負けないような、とびきり頑強な奴をな」
ニコラは静かに、しかし職人としての熱い野心を滾らせながら、舞台袖へと消えていく琥珀色の相棒を見送るのだった。
ヴァロア伯爵夫妻もまた、頬に涙の跡を残しながら、ジュリエットの姿が見えなくなっても拍手を続けている。
音楽にはまったくの素人の自分たちにも、今日この日の演奏の素晴らしさはよく理解できた。
寂しく、孤独だったジュリエット。
そのジュリエットがコレットに出会い、乱され、影響され。
楽しさと喜びを知り、生命の輝きを増してゆく。
それが、音と旋律を通じて痛いほどに伝わって来た。
ジュリエットの孤独と悲しみを初めて知った。
ジュリエットの、娘のヴァイオリンはこんなにも表情豊かなものだったことも、夫妻は初めて知った。
いや、違う。
表情豊かになったのだ。
グランヴェル伯爵令嬢を連れてヴァロア伯爵邸に来た娘の行動には、毎日のように驚かされた。
しかしあれは。
コレットに出会い、影響され、変わったジュリエットの。
毎日が楽しい、生きることが楽しい、コレットと一緒にいられるのが嬉しい、という感情の発露だったのだろう。
それに、コレットの音と旋律。
生命の輝きをそのまま音にしたような、力強さを持っていた。
惹かれずにはいられないその輝き、あの熱さ。
寂しさで縮こまっていた少女に、私についておいで! と手を差し伸べる。
そんな場面が目の前に見えてくるかのような感覚だった。
ジュリエットが追いかけているように見えて、その実コレットが引っ張っている。きっと二人の関係はそうなのだろう。
————良かった、本当に良かった。
ジュリエットが、コレットに出会えて本当に良かった。
夫妻は、二人を引き合わせたすべてのものと運命に、心から感謝した。
そして、舞台裏。
楽屋へと戻る廊下を歩きながら、コレットは淑女の仮面の裏側で、深々と安堵のため息を漏らしていた。
(やったわ……! これだけ全力で、あの怪物を叩きのめすような演奏をしたのだから、あのとてつもなく変な天才も満足したはずよ。これで二度と、私に夜這い質問攻めをしに来ることはないわ。私の平穏な睡眠は守られたのよ……!)
平穏の確保を確信し、琥珀色のヴァイオリンを愛おしげに抱きしめるコレット。
そんな彼女たちの控室の扉が、静かに開かれた。
姿を現したのは、威厳に満ちた佇まいの義父グランヴェル伯爵と、その隣にぴったりと寄り添う義妹リュミエールだった。
伯爵は、いつもなら品評会の審査員のように冷徹なその瞳を、今はどこか見たこともないほどに揺らしながら、まっすぐにコレットの元へと歩み寄ってきた。
戦々恐々と身を硬くするコレットの前で、伯爵はあえて、ゴホンと不器用な咳払いをひとつする。
そして、リュミエールとの約束を果たすように、力強く、けれどどこか照れくさそうに口を開いた。
「コレット。今日の演奏は……実に見事だった。私の耳でも、何ひとつ傷を拾えぬほどの至高の響きだった」
あの、音楽に対して一切の妥協がないグランヴェル伯爵からの、手放しの称賛。
コレットは戸惑いながらも頭を下げる。
「あ、ありがとうございます。お父様に学院に通わせていただき、素晴らしいヴァイオリンを準備いただいたおかげです」
「い、いや。そうではない、そうではないのだコレット。確かに学院に通わせたし、ヴァイオリンも用意したが、お前の音楽の素晴らしさは決して私のおかげなどではないのだ。私が言いたいのもそういうことではなくてだな……つまり、その、なんだ」
「…………?」
なんだか伯爵の様子がいつもと違うような気がする。
いつも硬質で、平坦で、冷徹で。
コレットは義父にそんな印象を持っていた。
だが今目の前にいる男は、どこか不器用な、自分の焦りを隠しきれないような。
そんなどこにでもいるような、善良な父親というのはこういう人のことを言うのだろうな、と。
父の温もりを知らないコレットが納得してしまうような立ち振る舞いを見せていた。
伯爵はもう一度わざとらしい咳ばらいをし、コレットの目を真っ直ぐに見つめた。
「たとえお前に、音楽の才能がなかろうとも。この先、結果が出せなかろうとも、そんなことは関係ないのだ。私はもう、お前をこの家から捨てたりなど絶対にしない。……我々は、本物の家族なのだからな」
「え……?」
想定外の言葉に、コレットは完全に呆気にとられた。
言われた言葉の意味を理解するのに時間がかかってしまう。
しかしひとつひとつの意味をかみ砕いてゆくうちに、本当なのだろうか、騙そうとしているのではないだろうか、という疑問を。
それ以上の、納得感が上書きしていった。
だって、そんなことあるはずがない、と何度も思いながらも。
義理の父も、義理の妹も。
自分に優しかったではないか。
そんな風に考えた、瞬間。
『価値を示せ、さもなくば叩き出す』。その地獄のような言葉に怯え、生き残るために必死に血豆を潰し、胃を痛めながらはりぼて令嬢を演じ続けてきた二年間。
その首筋に突きつけられていた刃が、消え去ったように感じた。
利用するための命綱なんて、最初から必要なかった。自分はただ、ここにいて良かったのだと、元孤児の凍りついていた心が、本当の意味で優しく溶かされていく。
(ああ……私、もう弾けなくなっても、追い出されないんだ。私は、ここにいていいんだ……)
張り詰めていた防衛本能がフッと消え去り、コレットの身体から完全に力が抜けた。嬉しいと同時に、ヘナヘナと床にへたり込みたいほどの強烈な安堵が彼女を包み込む。
――しかし、本当の衝撃は、その直後に訪れた。
「――っ、……っう、」
小さな、けれど堪えきれない嗚咽の音が、静かな控室に響いた。
驚いて視線を向けると、伯爵の斜め後ろに立っていたリュミエールの瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちていた。
いつも完璧な太陽のような笑顔を絶やさない妹が、お上品な淑女の仮面を完全に崩し、子供のようにボロボロと涙を流している。
「リュミエール……? どうして貴女が泣いて……」
コレットは、優しい妹が自分の救済を我がことのように喜んで泣いてくれているのだと思った。
だが、リュミエールの胸の内を占めていたのは、もっと昏く、もっと切実な、幼い頃からの孤独の終わりだった。
音楽の街。音楽の絶対権威たる、グランヴェル家。
そんな家に生まれながら、自分には、誰もがひれ伏すような圧倒的な音楽の才能はなかった。
どれだけ必死に父親の顔色を窺い、小さな指を血に染めてヴァイオリンを弾いても、父はいつも『そこまでで合格だ』と、先へ進むための階段を冷酷に叩き壊した。
『お父様は私に期待していない。才能のない私は、愛されていないのだ』
そう思い知らされるのが怖くて、リュミエールは必死に完璧な大貴族の令嬢という最高級のはりぼてを身にまとった。
音楽が駄目なら、実務で、政治力で、完璧な立ち振る舞いで自分を証明しなければ、この家に居場所がなくなると思い詰めていたのだ。
だからこそ、先ほど客席で父に頼んだあの言葉。『音楽の才能の有無なんて関係ない。私たちは家族なのだから、と、お姉様に伝えてあげて』というあの一見姉想いの優しい願いは。
その実――リュミエール自身が、幼い頃からずっと、ずっと父から言ってほしかった、渇望していた言葉そのものだったのだ。
才能のなさを、はりぼてをまとうことでしか隠せなかった自分が、幼い頃ベッドの中で丸くなって声を押し殺して泣いていた自分が、今。
父の口から放たれた言葉によって、完全に報われた気がした。
私たちは家族だ。音楽の才能なんて、最初から関係なかったのだ、と。
「お父様……お父様……っ!」
リュミエールはついに我慢できず、大貴族の令嬢としてのマナーもすべて投げ捨てて、グランヴェル伯爵の胸へと飛び込んだ。
グランヴェル伯爵は驚きながらも、かつてないほどに愛おしげに、我が家の太陽をその太い腕でしっかりと抱きしめる。
その光景を見て、コレットは静かに、けれど心からの温かい微笑みを浮かべた。
言葉には出さずとも、今なら分かる。自分と同じように、この完璧に見えた義妹もまた、必死にはりぼてをまとって戦っていた同志だったのだ、と。
差し出されたハンカチを受け取ったリュミエールの手は、やはり驚くほど温かかった。けれど、今のコレットの手も、あの頃の死人のような冷たさではなかった。
家族の温かな絆に包まれ、コレットの胸はこれまでにない安堵で満たされていた。
よかった。私はもう、あの泥の底へ突き落とされる恐怖に怯えなくていいのだ。
じんわりと浮かんだ涙を優雅に指先で拭い、コレットは「完璧な令嬢」としての微笑みを取り戻す。
さあ、生き地獄のような合同合宿も終わった。演奏会も大成功だ。
ここからが、私の勝ち取った平穏な未来の始まりである。
珍しく空気を読んだのか、存在感を消して父娘の会話を黙って見ていたジュリエットに、コレットは余裕たっぷりに話しかける。
「ジュリエットさん。今日の演奏会、本当に素晴らしかったですわ。……これからはお互い、別々の場所で、それぞれの音楽を磨きながら頑張りましょうね」
(もう二度と、私の貴重な睡眠と、ジューシーなお肉を脅かさないでね!)
そんな切実な祈りをこれでもかと込めて、コレットは精いっぱいの社交辞令を告げた。
だが。目の前の大天才は――その言葉を聞いた瞬間、ひまわりが弾けたような、今日一番の恐ろしい笑顔を咲かせたのだ。
「何を仰っていますの、コレットさん! 一回一緒に演奏したら、二回でも、三回でも、百回でもやりたくなってしまいましたわ! そうだわ、コレットさん、一緒にこの国の全領地を巡って演奏会をやりましょう!」
「……は?」
コレットの思考が真っ白に染まる。
国内全領地巡り?
つまりそれは、これからも毎日あの怪物と寝食を共にし、お肉を拉致され、深夜の夜這い質問攻めを受け続けるということか。
「い、いや、さすがにそれは急すぎますし、お互い学院の予定もございますから、ね……?」
引き攣った笑みで、コレットは必死に隣の妹へと助けを求める視線を送った。
助けてリュミエール。私の天使。私の有能な妹。今すぐこの怪物の暴走を、お前の圧倒的な政治力で止めて頂戴。
しかし。
コレットの視線を受け止めたリュミエールは、コレットのこれまでの人生で最も輝かしい、完璧な聖母の微笑みを浮かべて見せた。
「素晴らしいアイデアですわ、ジュリエットさん! お姉様の輝かしい音楽活動のためですもの、全領地巡り演奏会の段取りや劇場の確保、チケットの手配に宣伝活動にいたるまで、――すべてこの私にお任せくださいませ!」
「まあ! ありがとう、リュミエールさん! さっそく明日から我が家の客馬車に荷物を積み込んで、お泊まりのスケジュールを組み直さなくてはね!」
がっちりと固い握手を交わす、とてつもなく変な大天才と、やっぱり大嫌いな義妹。
二人の完璧な善意の前に、元孤児の城壁は、今度こそ粉みじんに粉砕された。
これじゃあ、どこにも逃げ場がないわぁぁぁ――――!!!
掴み取ったはずの平穏な未来が、音を立てて空の彼方へと吹き飛んでいくのを感じながら。
はりぼて令嬢コレットの、周囲の重すぎる愛に振り回される受難の日々は――皮肉にも、本物の家族の絆と共に、これからもずっと続いていくのであった。
これにて、元孤児のはりぼて令嬢コレットをめぐる物語は完結となります。
お読み下さった読者のかた、本当にありがとうございます。
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