第6話 海底列車②
列車はほとんど揺れることなく、静かに走り始めた。
ホームがゆっくりと後ろへ流れていく。
白いドームを抜けた瞬間、視界いっぱいに青空が広がった。
車窓の下では、太陽を浴びた海面が宝石のようにきらめいている。
遠ざかっていく青と白の港湾都市が、まるでミニチュアのように小さくなっていく。
「綺麗……」
イオがマカロンを持ったまま、眩しそうに目を細めて窓へと顔を近づける。
そんな彼女の視線の先、茶色い毛玉のような生き物が仰向けに浮かんでいた。
「シンメ、見て! ラッコがいる!」
「ほんとだ。こんなところにもいるんだな」
「手繋いでるよ!かわいい~っ」
イオは思わず窓に手をつき、遠ざかるラッコへぶんぶんと手を振った。
列車が緩やかな傾斜を下り、窓の外の海面がぐんぐんと近づいてくる。
先頭車両が水面へ滑り込んだ瞬間、光に満ちていた車内が一気に深い青へと沈んだ。
無数の泡が窓の外を駆け上がる。
小さなイワシの群れが、列車の影に驚いたように一斉に向きを変える。
銀色の体が光を返し、窓の外で一枚の布のようにひるがえった。
列車の軌道は海中へまっすぐ伸び、その先でゆるやかに深い色へ沈んでいく。
「列車が速すぎてじっくり魚見れないな」
列車は海底軌道に乗ると、俺の文句を聞いていたかのように速度を落とした。
窓の外がゆっくりと緑色に染まり始める。
巨大なコンブが何百本も海底から立ち上がり、天井から差し込む陽光を受けてゆらゆらと揺れている。
「わぁ……海の中なのに、本当に森みたい」
「ケルプフォレストっていうらしい。俺もこんなの初めて見たよ」
「ねぇ見て、ハコフグ。かわいい~!」
イオが窓に指を添える。
黄色い箱みたいな魚が、短いひれを忙しそうに動かしながら、列車の窓の前でふわふわと留まっていた。
こちらに興味があるのか、窓を小さくつついている。
「イオのことが好きみたいだな」
「私も好きよ~」
イオは楽しそうにクスクスと笑い、窓越しにハコフグの口元へ指先を合わせてつつき返す。
再び列車が速度を上げる。ハコフグの姿が、窓の端へゆっくりと流れていく。
イオは少し名残惜しそうに手を振った。
海底列車はさらに深くへと進んでいった。
窓の外から少しずつ光が消え、青かった海は群青へと変わる。
——ヴオオオオオオオ……。
どこからともなく、牛の鳴き声のような低く長い音が聞こえた。
——キュイイイン。
続いて、透き通るような高い音が鳴り響く。
「……イオ、これって」
「うん。クジラの歌!」
——皆さま、右上方をご覧ください。幸運なことに歌唱中のザトウクジラを発見しました。
窓から上方を見上げると、薄暗い海の向こうを巨大な影がゆっくりと横切っていた。
尾びれを一度動かすたび、悠然と海を進んでいく。
姿がぼんやりとしか見えなくなっても、高音と低音の絡み合った旋律が絶え間なく鳴り響いていた。
「繁殖期のオスはね、求愛のために20分以上の長~い歌を、何時間も繰り返すのよ」
「へぇ。よくそんな長い歌覚えられるなぁ。楽譜があるわけでもないのに」
「ね。やっぱり脳が大きいから、それだけ記憶力も高いのかな? クジラの男の子も必死なのね」
イオが感心したように、クジラの影を目で追いながら呟く。
必死の求愛、か。
少し気になって、俺は隣の美少女エルフに視線を向け、冗談めかして訊ねてみた。
「エルフも歌がうまい男を好きになったりするのか?」
ちなみに、この世界でも歌がうまい人間はモテるらしい。
俺は人前で歌う機会なんて避け続けてきたから、自分が上手いのかどうかすら知らないけど。
「うーん、エルフの間ではあんまりそういうのはないかも。そもそもエルフって、人間ほど頻繁に恋愛もしないし、繁殖もしないもの」
「繁殖って……。まあ、寿命長いから人間と同じペースだったら人口爆発しちゃうもんな」
「うん。私も恋愛感情はまだわからないんだ」
窓の外を見つめながら、どこか遠い目をして小首を傾げるイオ。
誰かに奪われる心配はまだなさそうだが、脈もなさそうだ。
――ヴオオオオオ……。
窓の外では、クジラが変わらず歌い続けていた。
広い海でたった一頭、届くかわからない誰かへ向けて。
「……頑張れよ」
俺は名も知らぬ海の巨獣に向けて、そっとエールを送った。
「え?何が?」
「いや、なんでもない」
——まもなく、モントレーキャニオンに入ります。
——この海域には、旧文明時代の人工構造物が確認されています。
穏やかな案内音声が流れると、客室の空気が少しだけ変わった。
さっきまで写真を撮っていた観光客たちも、自然と窓へ視線を向ける。
やがて、青い闇の向こうから巨大な影が姿を現した。
列車のサーチライトに照らされたのは、一隻の軍艦だった。
艦首は折れ、甲板は大きく傾き、砲塔らしき構造物には珊瑚と海藻が絡みついている。
かつて灰色だったであろう装甲は、今では白い貝殻と緑の藻に覆われ、魚たちの住処になっていた。
「最終戦争の……遺物、ね」
窓の外を見つめるイオの口から、ぽつりと重い呟きが漏れた。
「例の、AIを奪い合って起きた戦争だよな」
「この航路を通るのも、GAIAが『二度と繰り返すな』って伝えたいからなのかもしれないわね」
軍艦の側面には、巨大な裂け目が残っていた。
その裂け目の中を、鮮やかな橙色の魚たちが出入りしている。
「でも、今は戦争なんて起こせないんじゃないか?」
「NORNが検知してGAIAへ通報しちゃうからね。
イオは首を傾げた。
「そう考えると不思議だよね。どうして、わざわざ観光ルートにしたんだろう」
「今がどれだけ平和かを実感させるため……かな」
俺はそこで言葉を区切り、ふと思いついたメタな推測を口にしてみる。
「あるいは上位存在への警鐘だったりしてな」
「上位存在?」
「ああ。もしあいつらが戦争なんて始めたら、この世界ごと消えかねないだろ」
「そういう意味か。上位存在が争うかどうかは知らないけどね」
イオは苦笑する。
「イオ……上位存在ってさ、どういう存在だと思う?」
「わからないけど……別次元で生きる情報生命体とか言われてるわね」
「まぁそれが定説だよな。変な話かもしれないけどさ、俺は電脳化された人間なんじゃないかって思うんだ」
「ほほう。その心は?」
イオが少し興味深そうに、琥珀色の瞳をこちらに向けた。
「人間以外にも知的生命体がいるのに、上位存在が人間だけに憑依するのは不自然じゃないか?」
「たしかにそうね。できないのか、しないのか……後者だとしたら人間に特別思い入れがあるのかも」
「そう考えると、電脳化して身体がなくなった元人間って説、かなり現実味があると思わないか?」
「……じゃあ、それって。私はやっぱり作られた存在?そう思われるの、なんか悲しいなぁ」
しまった。
イオからしたらこんな話をされたら嫌に決まってる。
自分がシミュレーション世界でしか存在しない創造物だなんて、考えたくないはずだ。
「ごめん。そういうつもりじゃなくて……」
俺は慌てて言葉を続ける。
「俺は今こうしてイオと同じ世界で生きてるんだから、中に上位存在がいようがいまいが関係ない、本物だって思ってる」
「謝らなくていいの。傷付いてるわけじゃないわ。ただ、もっとよく考えてみてほしいの。私、シンメには……」
イオは言葉が出ない、という具合で喉を手で抑えた。
「……イオ?」
「……ううん。なんでもない」
俺はただ、困惑しながら頷くことしかできなかった。
この世界がシミュレーションであるという不都合な真実は、誇り高いエルフにとっては決して受け入れがたいものなのだろう。
もしかしたら、かつてGAIAが突きつけたこの残酷な世界の真実こそが、人間とエルフが決定的に不仲になった根本的な原因なのかもしれない。
列車は沈んだ軍艦の横をゆっくりと通り過ぎると、再び速度を上げた。
車体がゆるやかに傾き、進路はさらに深い海へ向かっていく。
水深は1,000m近くまで来ているようだ。
窓の外から光は完全に消え、果てのない闇だけが広がっていた。
ときおり発光生物が青白い軌跡を描き、流星のように暗闇を流れていく。
そろそろ深海魚でも現れるだろうか。
——バキン。
客室の前方から、硬いプラスチックか何かが破裂したような音が響いた。
深海の静けさの中で、その音だけが妙にはっきりと響いた。
俺は反射的に顔を上げる。
最初は、誰かがグラスでも落としたのかと思った。
しかし……。
——ブチブチ。
何か細い金属線や配線の束が、無理やり力任せに引き千切られるかのような、不快な音が響き渡った。
「……何?今の」
俺たちの視線が、自然と前方の通路へと向く。
そこでは、先ほどまで乗客にハーブティーを配っていた、端正な顔立ちの添乗用ヒューマノイドが不自然に立ち尽くしていた。
その首元には、一人の男の手が食い込んでいる。
ヒューマノイドの指先が、何かを求めるように力なく宙を掻く。
「お客……さ……」
声が途切れ、添乗ヒューマノイドの膝がガクリと折れた。
床へ崩れ落ちた彼の顔には、まだ接客用の柔らかな微笑みが残っていた。
誰かが撮影に使っていた小鳥型の浮遊端末が床へ落ちる。
小さな落下音を合図にしたように誰かが悲鳴を上げた。
【NORNシステム警告:バイタルエラーを検知】
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