第56話 約束
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第56話では、これまで積み重ねてきた想いが、
ついに言葉としてぶつかり合う回となっています。
隠していたもの。
気づいてしまったもの。
そして、避けられない現実。
その中で、2人がどんな選択をするのか。
静かではありますが、物語の中でも大きな転換点です。
病室には、午後の薄い光が差していた。
白い天井。
白い壁。
消毒液の匂い。
現実感のない景色の中で、恒一はただ黙っていた。
「……なあ」
ようやく口を開く。
レイナはベッドのそばで、まっすぐ恒一を見ていた。
「うん」
目が赤い。
ずっと泣いていたのがわかる。
その顔を見た瞬間、言葉が喉に引っかかった。
本当のことを言うべきか。
黙っているべきか。
どっちを選んでも、きっと傷つける。
「……大したことない」
結局、出てきたのはそんな言葉だった。
レイナの表情が止まる。
「本当に?」
「まあ……ちょっと疲れがたまってただけだろ」
自分でも無理があると思う。
でも、そう言うしかなかった。
レイナは少し黙ってから、小さく頷いた。
「……そっか」
声は静かだった。
けれど、その静けさが逆に怖かった。
信じたわけじゃない。
ただ、今はそれ以上追及しなかっただけ。
恒一にはそれがわかった。
そのあと医師が来て、最低限の説明をした。
意識を失った原因は脳への負担が一時的に強く出たこと。
精密検査の結果については、後日もう一度話す必要があること。
だが、すでに恒一は全部聞いている。
レイナはその説明を横で聞いていたが、医師の言葉の端々に何かを感じ取ったようだった。
「今日はもう休んでください」
医師が去る。
静かな病室。
恒一は目を閉じる。
レイナは何も言わない。
ただ、そばに座っていた。
その沈黙が、余計に苦しかった。
夜になって、佐倉と母が来た。
「よかった……」
母が病室に入るなり言う。
少し泣いたのだろう。目元が赤い。
「恒一、あんたほんとに……」
「悪い」
恒一はそれしか言えない。
佐倉は一歩引いたところから、静かに様子を見ていた。
そして、恒一と目が合う。
その目には、知っている人間の色があった。
検査結果を。
病名を。
もう、誰かには伝わっている空気だった。
翌日。
病室にいるのが苦しくなって、恒一は一人でトイレに立った。
廊下を歩くだけで、頭の奥がじんわりと痛む。
「……くそ」
壁に手をつく。
情けない。
まだ歩ける。
まだ喋れる。
でも、自分の中で何かが壊れ始めている感覚が、はっきりとあった。
個室に入る前、角を曲がったところで医師の声が聞こえた。
「場所が悪いんです。進行も早い」
「……やっぱり、難しいですか」
それは母の声だった。
恒一は足を止める。
聞きたくないのに、聞こえてしまう。
「日本ではかなり厳しいです。海外の特殊治療なら可能性はありますが……費用も莫大ですし、成功率も高くありません」
静かな声。
でも、内容は容赦がない。
「ご本人がどこまで知っているかにもよります」
「……全部、聞いてます」
佐倉が小さく答える。
「でも、レイナにはまだ」
その先は聞けなかった。
いや、聞けた。
けれど、その時点で廊下の逆側に立っている人影に気づいてしまった。
レイナだった。
立ち尽くしている。
顔が真っ白だった。
「……レイナ」
声をかけた瞬間、レイナの目が揺れる。
逃げるように、その場を離れた。
「おい!」
恒一は思わず追いかける。
頭が痛む。
それでも止まれない。
病院の非常階段の前で、ようやく追いついた。
「待て」
レイナは背中を向けたまま動かない。
肩が震えている。
「……なんで」
かすれた声だった。
「なんで言わなかったの」
恒一は答えられない。
「なんで、何もないみたいにしたの」
振り向く。
目が真っ赤だった。
「私、何も知らなくて……」
そこで言葉が切れる。
唇を噛んで、涙をこらえている。
「言えねぇだろ」
やっと出た言葉は、それだった。
「何て言うんだよ」
「俺、たぶん死ぬかもしれないって?」
言葉にした瞬間、現実が形になる。
レイナの目から涙が落ちる。
「言ってよ」
小さな声。
「そんなの、ひどいよ」
恒一は目を逸らす。
「お前のこれからがあるだろ」
「今、やっと上向いてきてんだぞ」
「俺なんかのことで、止まるなよ」
「止まるよ!」
レイナが初めて強く言う。
階段の踊り場に、その声が響く。
「止まるに決まってるでしょ!」
「好きな人がそんなことになってるのに、止まらないわけないじゃん!」
空気が止まる。
恒一は何も言えなくなる。
レイナは泣きながら続ける。
「なんで一人で決めるの」
「なんで勝手に終わるみたいな顔するの」
「私は……私は、ちゃんと一緒にいたいのに」
その言葉は、重かった。
きれいごとじゃない。
逃げるための言葉でもない。
本気だった。
恒一は階段の手すりに手を置いたまま、しばらく動かなかった。
「……俺、50だぞ」
ようやく言う。
「知ってる」
「お前は24で」
「知ってる」
「この先、もっとちゃんとしたやつと出会えるかもしれねぇ」
「いらない」
即答だった。
「そんなの、いらない」
少しの沈黙。
レイナが一歩近づく。
「恒一じゃなきゃダメなの」
その目はもう揺れていなかった。
「病気だから離れるとか、そんなの無理」
「先にいなくなるかもしれないから、今のうちに離れるとか、そんなのもっと無理」
恒一は笑いそうになる。
情けないほど、まっすぐだと思った。
「……重いな」
「知ってる」
「めんどくせぇ」
「それも知ってる」
そのやり取りのあと、少しだけ空気が緩む。
レイナは泣きながら、それでも笑った。
「でも、もう決めたの」
「私は、最後まで一緒にいる」
「恒一が嫌だって言っても」
恒一は目を閉じる。
勝てないと思った。
この真っ直ぐさには。
「……嫌じゃねぇよ」
静かに言う。
レイナの表情が止まる。
「え?」
「嫌じゃねぇ」
もう一度言う。
逃げるのをやめるみたいに。
「ただ、怖いだけだなんだ」
本音だった。
「お前が泣くのも」
「お前の時間、奪うのも」
「全部」
レイナは首を横に振る。
「奪われてない」
「私が選んでるの」
それから、小さく息を吸う。
「一緒に治す方法考えよう」
恒一が少しだけ苦く笑う。
「簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
レイナは言う。
「でも、探せばいい」
「海外でも、何でも」
そこで、ふと前の夜の話を思い出した。
「……ハワイ」
恒一がぽつりと呟く。
「え?」
「行ってみたいって言ったろ」
レイナが涙の跡を残したまま笑う。
「うん」
「行こうよ」
前と同じ言葉。
でも、今は意味が違う。
「治して、行こう」
その言葉に、恒一はしばらく答えられなかった。
希望なんて、簡単には持てない。
でも。
持ちたいと思った。
この瞬間だけは。
レイナがそっと恒一に抱きつく。
今度は恐怖からじゃない。
覚悟からだった。
恒一もゆっくりと抱き返す。
長く、静かな時間。
あとどれだけ一緒にいられるのか、わからない。
それでも、離れるよりはずっとよかった。
その夜、病室に戻ったあと。
レイナは恒一のベッド脇の椅子に座ったまま、帰ろうとしなかった。
「帰れよ」
「帰らない」
「佐倉もいるし」
「それでも帰らない」
言い切る。
恒一はため息をつく。
「……強いな」
「今さら?」
少しだけ笑う。
それから、レイナはそっと恒一の手に触れた。
当たり前のように。
自然に。
「ねえ」
「ん?」
「これからのこと、ちゃんと考えよう」
「治療も」
「仕事も」
「全部」
恒一はゆっくり頷く。
そこでようやく、少しだけ現実が前を向いた気がした。
病気は消えない。
怖さも消えない。
でも、隣にいる人はいた。
それだけで違った。
ふと、恒一の視界にまた文字が浮かぶ。
「……62」
「命」
以前よりも、はっきりと。
そして、その下に、ぼんやりと別の文字が滲んだ。
「……継」
次の瞬間には消えていた。
「どうしたの?」
レイナが聞く。
「いや……なんでもねぇ」
そう言いながら、恒一は胸の奥が少しだけざわつくのを感じていた。
命。
継ぐ。
意味はまだわからない。
でも、きっといつか繋がる。
そんな気がした。
病室の窓の外は、もう夜が深かった。
静かな闇の向こうに、まだ見えない未来がある。
明るいものかどうかはわからない。
それでも。
今はまだ、終わっていない。
第56話を読んでいただきありがとうございました。
今回のテーマは「選ぶ」ということです。
未来が保証されていない中で、
それでも誰かと一緒にいることを選ぶ。
それは簡単なことではなく、
むしろ苦しさを増やす選択かもしれません。
それでもレイナは逃げず、
恒一もまた、逃げることをやめました。
ここで2人の関係は、はっきりと形になります。
ただ一緒にいるだけではなく、
“覚悟を共有した関係”へ。
そして、作中に出てきた「命」「継」という言葉。
まだ意味ははっきりしませんが、
これからの展開に大きく関わっていきます。
引き続きよろしくお願いします。




