第44話 普通
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第44話は、これまでとは少し違う空気の回になっています。
大きな出来事のあとに訪れた、静かな時間。
外ではまだ騒がしさが続く中で、
恒一の家の中だけは、ゆっくりとした日常が流れています。
何気ない会話。
普通の食事。
ただ一緒にいる時間。
その一つ一つが、これまでのレイナにはなかったものです。
朝。
レイナは、ゆっくりと目を覚ました。
見慣れない天井。
でも、嫌な感じはしない。
静かで、柔らかい空気。
ほんの少しだけ、どこか懐かしい。
体を起こす。
耳を澄ますと、遠くから音がする。
包丁の音。
何かを焼く音。
人の生活の音だった。
「……」
レイナは、しばらくその音を聞いていた。
それだけで、なぜか安心する。
「……こういうの、久しぶり」
ぽつりとつぶやく。
スマホを見る。
電源は切ったまま。
何も入ってこない。
それが、こんなに楽だとは思わなかった。
顔を洗って、リビングへ向かう。
扉を開けると、いい匂いが広がった。
「あら、おはよう」
恒一の母が、振り返って笑う。
「……おはようございます」
「よく眠れた?」
「はい」
「それならよかった」
自然な会話。
気を使われすぎることもなく、放っておかれるわけでもない。
ちょうどいい距離。
テーブルには、すでに朝ごはんが並んでいた。
「恒一、まだ起きてないの?」
「……たぶん」
そのタイミングで、廊下から足音がする。
「……起きてる」
眠そうな声。
恒一が髪をぼさぼさのまま入ってくる。
「遅い」
レイナがすぐに言う。
「今起きたんだよ」
「もう食べていい?」
「いいよ、誰も止めてない」
レイナは椅子に座る。
「いただきます」
手を合わせて、すぐに箸を伸ばす。
迷いがない。
恒一が少し笑う。
「食うの早いな」
「そっちが遅い」
「普通だろ」
「遅い」
短いやり取り。
それだけなのに、空気が柔らかい。
母が味噌汁をよそう。
「たくさん食べてね」
「はい」
レイナは素直に答える。
それが、少しだけ嬉しそうだった。
テレビはついているが、音は小さい。
ニュースのテロップが流れている。
自分の名前が、ちらっと見えた。
でも、誰もそれに触れない。
そのことが、逆にありがたかった。
食事が終わる頃。
レイナは少しだけ窓の外を見る。
カーテンの隙間から、道路が見える。
見慣れない景色。
でも、どこか落ち着く。
「……外、まだいるかな」
ぽつりと漏れる。
恒一がちらっと見る。
「たぶんいる」
「……だよね」
少しだけ表情が曇る。
現実は消えていない。
ここは安全だけど、外に出ればまた違う。
「しばらくは、出ない方がいいな」
「うん」
短く答える。
その声には、少しだけ疲れが混じっていた。
恒一が、軽く言う。
「気にすんな」
「無理だよ」
レイナはすぐに返す。
「全部見られてる感じするし」
「何言われてるかも、だいたい想像つくし」
その言葉は、少しだけ強がりが混じっていた。
でも、本音でもあった。
恒一は少し考えてから言う。
「俺は気にしてない」
レイナが顔を上げる。
「……え?」
「どう見えてるかなんて知らねぇけど」
「俺は、あれ違うって思ってるし」
それだけ。
説明も、慰めもない。
ただの事実みたいに言う。
レイナは、少しだけ言葉を失う。
「……そういうの、ずるい」
「何が」
「それ言われると、ちょっと楽になる」
小さく笑う。
さっきまでの重さが、少しだけ軽くなっていた。
その日の昼は、特に何もなかった。
テレビも見ず、スマホも触らず。
ただ、静かな時間が流れる。
それだけで、十分だった。
夜。
「……ちょっと出るか」
恒一が言う。
「え?」
「近くのコンビニ」
「この時間なら、人いねぇし」
レイナは少し迷う。
でも、外に出たい気持ちはあった。
「……行く」
フードを深くかぶる。
マスクもつける。
完全に別人みたいな格好。
夜の道は、静かだった。
昼とはまるで違う。
人もほとんどいない。
2人並んで歩く。
少し距離はあるけど、近い。
コンビニで、適当に買い物をする。
特別なことは何もない。
それでも。
それが、妙に新鮮だった。
帰り道。
少しだけ風が冷たい。
「……なんかさ」
レイナが言う。
「こういうの、いいね」
「何が」
「普通」
少し笑う。
「誰にも見られてなくて」
「ただ歩いてるだけ」
恒一は少しだけ考えてから言う。
「普通だろ、それ」
「うん」
「でも、私には普通じゃなかった」
その言葉は、思っていたより重かった。
2人の距離が、少しだけ縮まる。
歩幅が自然に揃う。
ふと、手が触れる。
一瞬。
でも、離れない。
レイナはそのまま、何も言わなかった。
家に着く。
玄関の前で、少しだけ立ち止まる。
「……ありがと」
「ん?」
「今日」
「いろいろ」
恒一は軽く頷く。
「まあな」
それだけ。
でも、それで十分だった。
その夜。
恒一は廊下に立っていた。
静かな家。
レイナはもう部屋にいる。
ふと、視線がそちらに向く。
そして。
「……5、裂」
小さくつぶやく。
また見えた。
数字と、単語。
増えている。
前より、はっきり。
「……なんだよ、それ」
意味はまだ、わからない。
でも。
確実に、良くない。
頭の奥が、じんわりと痛む。
「……まだ終わってねぇのか」
小さくつぶやく。
静かな夜。
温かいはずの場所で。
見えない何かが、少しずつ近づいていた。
第44話を読んでいただきありがとうございました。
今回のテーマは「普通と違和感」です。
何も起こらない時間。
それは安心であり、同時にとても特別なものでもあります。
レイナにとっての“普通”が、
少しずつ形を持ち始めています。
そしてその中で、
恒一との距離も自然と近づいていきました。
ですが——
やはり完全に穏やかなままでは終わりません。
最後に見えた「裂」という言葉。
それが何を意味するのかは、まだわかりません。
ただ一つ言えるのは、
この静かな時間が、永遠ではないということです。
次回、第45話。
少しずつ、流れが動き出します。




