第36話 手放すという選択
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第36話では、これまで積み重なってきた違和感が
ついに“はっきりとした形”として現れます。
ダブルブッキングという致命的なミス。
それは単なる偶然なのか、
それとも流れの中で起きるべくして起きたものなのか。
ここまで順調に進んできた分、
その反動のようにも見える出来事です。
そしてこの一件が、
それぞれの立場や考え方に変化をもたらしていきます。
佐倉が復帰した。
「ご迷惑おかけしました」
事務所に入るなり、深く頭を下げる。
「いや、いいって」
恒一が軽く手を振る。
「無理すんなよ、マジで」
「はい」
笑う。
いつも通りの佐倉。
でも、どこか少しだけ無理をしているようにも見えた。
「大丈夫そう?」
レイナが心配そうに聞く。
「大丈夫です」
「ちゃんと休みましたから」
そう言いながらも、すぐに資料に目を通し始める。
その姿に、少しだけ安心する。
だが——
その安心は、長くは続かなかった。
⸻
「……え?」
恒一の声が、事務所に響く。
手に持っていた資料を見つめたまま固まっている。
「どうした?」
佐倉が顔を上げる。
「これ……」
恒一がゆっくり言う。
「同じ時間に、2件入ってる」
空気が止まる。
「……は?」
佐倉が立ち上がる。
資料を覗き込む。
「……ほんとだ」
完全に被っている。
移動も含めて、どうやっても無理な時間。
「なんで……」
恒一がつぶやく。
「こんなミス……」
自分の手帳。
スケジュール。
確認する。
どちらも、自分が入れている。
「……俺か」
小さく言う。
否定できない。
「……確認、足りてなかったかも」
声が少し落ちる。
佐倉は少しだけ考える。
「とりあえず、どちらか調整を——」
「無理だ」
恒一が言う。
「どっちも動かせない」
沈黙。
重い空気。
結局——
両方とも断ることになった。
⸻
その日の帰り。
恒一は、事務所の椅子に座ったまま動かなかった。
「……やったな」
ぽつりとつぶやく。
誰もいない部屋。
静かすぎる。
頭の中で、何度も繰り返す。
どうしてこうなったのか。
なぜ気づかなかったのか。
「……終わってるな」
小さく笑う。
でも、その笑いは全然笑っていなかった。
そこへ。
ドアが開く。
「……まだいたんだ」
レイナだった。
「帰ってなかったの?」
「……ちょっとな」
視線を逸らす。
レイナはゆっくり近づく。
「……気にしてる?」
「そりゃするだろ」
即答だった。
「普通にやばいミスだぞ」
「うん」
レイナは否定しない。
でも。
「でもさ」
少しだけ前に立つ。
「誰だってミスはあるよ」
まっすぐ言う。
「……いや、レベルが違うだろ」
「違わないよ」
すぐに返す。
「人間なんだから」
少し間。
「今まで、ずっとちゃんとやってきたじゃん」
その言葉に、恒一は何も言えなくなる。
「たまたま重なっただけだよ」
「……そうかな」
「そうだよ」
レイナは笑う。
優しく。
「私だって、いっぱいミスしてきたし」
「でも、ここまで来れたでしょ」
恒一は少しだけ下を向く。
その言葉は、刺さる。
でも同時に——
どこか遠く感じた。
⸻
そのとき。
スマホが鳴る。
「……神代?」
画面を見る。
少しだけ迷う。
それから出る。
「もしもし」
「お疲れ」
いつもの軽い声。
「ちょっといい?」
「……ああ」
短く返す。
「レイナさん、今どう?」
少し間。
「……問題ないけど」
「そっか」
軽く言う。
それから——
「ちょっとさ、考えてたんだけど」
声のトーンが少し変わる。
「うちで一旦預かるの、どう?」
空気が止まる。
「……は?」
思わず声が出る。
「いや、悪い話じゃないと思うよ」
レンは淡々と続ける。
「今の流れ的に、もっと広げられるし」
「こっちの体制なら、取りこぼしも減る」
その言葉が、刺さる。
さっきのミスが、頭をよぎる。
「……別に、奪うつもりはないよ」
「一時的でもいいし」
「その方がレイナさんのためになると思うけど」
静かな提案。
でも。
逃げ場のない言葉。
恒一は何も言えない。
否定したい。
でも——
できない。
「……考えとく」
それだけ言う。
「うん」
レンは軽く返す。
「いい判断してね」
通話が切れる。
⸻
沈黙。
レイナが見る。
「……誰?」
「……レン」
短く答える。
「何て?」
少し迷う。
でも。
「……お前を預かりたいってさ」
正直に言う。
レイナの表情が少しだけ止まる。
「……そうなんだ」
それだけ。
否定もしない。
肯定もしない。
その反応が、逆に重い。
恒一はゆっくり言う。
「……俺さ」
少し間。
「正直、思った」
レイナを見る。
「……限界かもしれないって」
言葉が、落ちる。
「今のままじゃ、もっと上には行けない」
「お前はもっといけるのに」
レイナが何か言おうとする。
でも、言えない。
「だから……」
少しだけ視線を逸らす。
「任せた方がいいのかもな」
その言葉は、静かだった。
でも。
決定的だった。
⸻
レイナは何も言えない。
ただ、そこに立っている。
目の前で。
何かが、変わろうとしている。
第36話を読んでいただきありがとうございました。
今回のテーマは「限界と選択」です。
恒一のミス。
それは一つの出来事でありながら、
彼自身の中にあった迷いや不安を
一気に表に引き出すきっかけとなりました。
そして神代レンからの提案。
レイナにとっても、
そして恒一にとっても、
無視できない選択肢が提示されます。
ここから先は、
“誰と進むのか”が問われる段階に入ります。
次回、第37話。
選ぶのは、誰なのか。




