第5話 触れられない世界、触れてくる手
朝の光が差し込む前から、村はざわついていた。
窓の外から聞こえる声は、どれも不安と緊張を含んでいる。
まるで“何かが来る”ことを、村全体が本能で察しているようだった。
俺は布団の上に座り、ぼんやりと自分の手を見つめていた。
手のひらは確かにそこにある。
だが、触れた布団の感触は薄い。
握った拳の重さも、どこか曖昧だ。
(……俺は、本当にここにいるのか?)
そんな疑問が、朝の冷たい空気よりも重く胸に沈んでいた。
扉がノックされる。
「カイさん、起きてますか?」
リーナの声だ。
「ああ」
扉が開き、リーナが顔を覗かせた。
いつものように微笑もうとしているが、その表情はどこか強張っている。
「村長さんが呼んでます。……神殿の使者が、もう来てしまって」
「もう?」
「はい。夜明け前に……」
リーナは言葉を濁した。
その表情だけで、使者が“普通ではない”ことが伝わってくる。
「行きましょう。……怖いかもしれませんけど」
リーナはそう言って、俺の腕に触れようとした。
だが、指先はまた俺の皮膚をすり抜けた。
リーナは小さく息を呑み、手を引っ込める。
「……ごめんなさい」
「いや、いい」
慣れたつもりだったが、胸の奥が痛んだ。
触れられない身体。
触れようとしてくれる手。
その両方が、俺の存在の曖昧さを突きつけてくる。
外に出ると、村人たちが道の両側に集まっていた。
誰も声を出さない。
ただ、俺を見ている。
いや、見ようとしているのに、焦点が合っていない。
視線が俺の輪郭を滑り、空気を掴むように彷徨っている。
(……やっぱり、俺は“存在してない”んだ)
胸が冷たくなる。
リーナだけが、はっきりと俺を見ていた。
「大丈夫です。……私がいますから」
その言葉だけが、世界のノイズを押し返してくれる。
村長の家の前には、見慣れない馬車が停まっていた。
黒い布で覆われ、装飾は一切ない。
まるで“存在を主張しないため”に作られたような馬車だった。
その前に、二人の人物が立っている。
彼らは、村の誰とも違う雰囲気を纏っていた。
白い外套。
胸元には、世界設定書を象った紋章。
だが、その外套は光を吸い込むように沈んで見える。
そして、彼らの視線は、俺を正確に捉えていた。
村人たちとは違う。
俺の輪郭が揺れない。
まるで“存在しないもの”を当然のように見ている。
その事実が、逆に恐ろしかった。
「……お前が、カイか」
使者の一人が口を開いた。
声は低く、感情がない。
「確認する」
使者は懐から小さな水晶板を取り出した。
透明な板の中央に、淡い光が揺れている。
俺の前に立ち、水晶板をかざす。
その瞬間、水晶板が黒く濁った。
「……やはり、“空白”か」
使者の声は淡々としていたが、周囲の空気が震えた。
村人たちがざわめく。
「空白……!」
「やっぱり……あの子は……」
「世界が……また……」
リーナが俺の前に立ち、使者を睨んだ。
「カイさんは危険じゃありません! 昨日だって──」
「黙れ」
使者の声が、空気を切り裂いた。
「空白は存在しているだけで危険だ。世界法則を乱し、崩壊を招く」
その言葉に、村人たちが後ずさる。
俺は拳を握った。
だが、拳の感触は薄い。
(……俺は、本当に危険なのか?)
そんな疑問が胸に刺さる。
突然、地面が低く唸った。
村人たちが悲鳴を上げる。
「また……揺れが……!」
「空白が……世界を……!」
使者が俺を見据えた。
「時間がない。このまま放置すれば、世界の拒絶反応は強まる」
リーナが叫ぶ。
「カイさんは……カイさんは悪くない!世界が勝手に……!」
「世界は常に正しい」
使者の言葉は冷たかった。
「間違っているのは“存在しない者”だ」
胸が締めつけられる。
(……俺は、間違っている?)
そんなはずはない。
俺はただ、気づいたらここにいた。
何もしていない。
だが、世界は俺を拒んでいる。
観測者の声が蘇る。
──お前は、この世界に存在してはならない。
その言葉が、胸の奥で重く響いた。
「カイ。神殿へ来てもらう」
使者が手を伸ばす。
その手は、俺の肩に触れた。
リーナが息を呑む。
「……触れられるんですか……?」
「空白は世界には触れられないが、“神殿の権限”は別だ」
使者の手は冷たかった。
だが、その冷たさだけが“確かな感触”として伝わってくる。
世界のどこにも触れられない俺が、
神殿の使者には触れられる。
その矛盾が、恐怖を呼び起こした。
「離してください! カイさんは……!」
リーナが俺の腕を掴もうとする。
だが、彼女の手はまた俺をすり抜けた。
「……っ!」
リーナの瞳が揺れる。
「カイさん……!」
俺はリーナを見た。
彼女だけが、俺を“見ようとしてくれている”。
その事実が、胸を締めつける。
「大丈夫だ」
そう言ったが、声は震えていた。
使者は俺を馬車へと押し込む。
「リーナ……!」
リーナが叫ぶ。
「カイさん! 絶対に……絶対に戻ってきてください!」
その声が、馬車の扉が閉まる直前に届いた。
扉が閉まり、光が遮断される。
暗闇の中で、馬車が動き出した。
世界に拒まれた俺が、
世界の中心へ連れていかれる。
その旅は、存在の判定という名の裁きへ向かっていた。




