第32話 欠片の奪い合い
深層の奥で輝く光の球、その中心に揺れる“文字”は、アリスの苗字の欠片だった。
俺とリーナは光へ向かって走る。
だが、その背後から、深層を震わせる声が響いた。
「……逃げても無駄だ」
敵調整者の影が、深層の闇を裂いて現れた。
黒い外套。
揺れる輪郭。
顔は影に沈み、ただ“視線”だけがこちらを見据えている。
その視線は、まるで俺たちの存在を“値踏み”するようだった。
リーナが震える声で言う。
「カイさん……あれ……本当に追ってきてます……!」
「ああ……わかってる」
敵調整者は歩くだけで、深層の文字がざわりと揺れる。
まるで深層そのものが、“あいつを恐れている”ようだった。
──……カイ……気をつけて……あの人は……“深層の法則”を……書き換えられる……
(深層の法則……?)
──……だから……落ちない……揺らがない……深層が……“あの人に従ってる”……
アリスの声が震えている。
(つまり……深層では俺より強い……)
敵調整者が手を伸ばす。
「返してもらうぞ。その欠片を」
リーナが叫ぶ。
「カイさん、早く……!」
「わかってる!」
俺たちは光の球へ飛び込んだ。
光が弾け、深層の空間が反転する。
次の瞬間、俺たちは光の中心に立っていた。
そこには、ひとつの“文字”が浮かんでいた。
アリスの苗字の二つ目の欠片。
リーナが息を呑む。
「カイさん……これ……!」
「ああ……アリスの欠片だ」
俺は手を伸ばした。
だが、その瞬間、深層が震えた。
敵調整者の声が響く。
「……やめておけ」
振り返ると、影が光の中へ踏み込んでいた。
深層の光が、影の身体を拒絶するように揺れる。
だが、影は揺らがない。
「その欠片は……本来、私のものだ」
「違う。これはアリスのものだ」
影は静かに言った。
「アリス……?ああ、あの“設定の残滓”か」
胸の奥が熱くなる。
(残滓……?アリスを……そんなふうに……)
──……カイ……やめて……挑発に乗らないで……
(わかってる……)
だが、影は続けた。
「お前は知らないだろう。あの少女が……“どれほど危険な存在”だったか」
リーナが震える。
「危険……?アリスちゃんが……?」
「そうだ。あの少女は……“世界を書き換える力”を持っていた」
俺は息を呑んだ。
(世界を書き換える……?アリスが……?)
影は淡々と続ける。
「だから私は……彼女の名前を奪った。存在を薄めた。消えるようにした」
リーナが叫ぶ。
「そんな……そんなの……!」
俺は拳を握りしめた。
「アリスは……そんな存在じゃない!」
影は静かに言った。
「お前はまだ知らない。“名前”の意味を」
深層が揺れた。
「名前とは……存在そのものだ。名前を奪えば……存在は消える」
──……カイ……お願い……欠片を……取って……
アリスの声が震えている。
(アリス……)
俺は光の文字へ手を伸ばした。
影が動く。
「やめろ」
深層が震え、光が揺れる。
だが、俺は手を伸ばし続けた。
(アリスの名前を……取り戻すんだ……!)
指先が、欠片に触れた。
欠片に触れた瞬間、深層が白い光に包まれた。
光はただ眩しいだけではない。
“記憶”そのものが形を持って押し寄せてくるような、そんな圧倒的な重さがあった。
──……カイ……それ……わたしの……“苗字の二文字目”……
(二文字目……!)
光の中で、アリスの記憶が流れ込んでくる。
少女が笑っている。
母親と手を繋いで歩いている。
白い部屋。
崩れる文字。
そして、黒い影が近づく。
──……アリス……逃げなさい……
──……いや……いやだ……お母さん……!
少女の叫びが、深層の空間に反響する。
その声は、ただの記憶ではなく、“今も続いている痛み”のように感じられた。
記憶が途切れた。
光が収まり、俺は深層の床に膝をついた。
リーナが駆け寄る。
「カイさん……!本当に大丈夫ですか……?」
「ああ……ただ……少し……」
胸の奥の欠片が、強く脈打っている。
アリスの声が震えながら響く。
──……カイ……ありがとう……これで……“アリス・L──”……
(L……?苗字の一文字目……)
だが、まだ足りない。
アリスの苗字は、まだ“完成していない”。
そのとき、深層の空間が揺れた。
まるで巨大な心臓が脈打つように、深層全体が震える。
リーナが怯えた声で言う。
「カイさん……これ……何ですか……?」
「……来る」
俺が言うと同時に、深層の闇から影が姿を現した。
敵調整者。
黒い外套。
揺れる輪郭。
深層の光を吸い込むような存在。
影はゆっくりと歩み寄りながら言った。
「……また奪われたか」
その声は静かだが、深層そのものを震わせる重さがあった。
リーナが震える。
「カイさん……もう来ちゃいました……!」
影は淡々と続ける。
「お前は……何もわかっていない」
「何がだ」
「“名前”とは……存在そのものだ。名前を取り戻せば……あの少女は……“本来の姿”に戻る」
影の声は淡々としていた。
「それは……お前たちが想像するより……はるかに危険だ」
──……カイ……信じないで……わたしは……危険なんかじゃない……
(アリス……)
影は続ける。
「お前は……あの少女の“力”を知らない。あれは……世界を壊す力だ」
「嘘だ!」
俺は叫んだ。
「アリスは……そんな存在じゃない!」
影は静かに言った。
「ならば……確かめてみるといい」
深層が揺れた。
影が手を伸ばす。
「その欠片を……渡せ」
影の手が動くたび、深層の文字がざわりと揺れ、空間が歪む。
リーナが叫ぶ。
「カイさん……!空間が……壊れて……!」
「わかってる!」
影は深層そのものを“支配”している。
深層の法則が、影の意志に従って変形していく。
アリスの声が震える。
──……カイ……お願い……逃げて……今のあなたじゃ……勝てない……
(逃げる……?でも……)
影が一歩踏み出すたび、深層の文字が崩れ落ちる。
存在そのものが削られるような圧迫感。
リーナが俺の手を握る。
「カイさん……どうするんですか……?」
俺は深層の奥を見つめた。
そこには、まだ光の道が続いている。
(……アリスの苗字の残り……まだある……)
影が言う。
「逃げても無駄だ。深層は……私の庭だ」
その言葉に、深層の空間が震えた。
だが、アリスの声が、その震えを押し返すように響いた。
──……カイ……わたし……あなたを信じてる……
(アリス……)
俺はリーナの手を強く握った。
「リーナ、逃げるぞ!」
「はいっ!」
俺たちは深層の奥へ走り出した。
背後で、敵調整者の影が深層を揺らす。
深層の文字が崩れ、空間が歪み、世界の裏側が悲鳴を上げる。
──……カイ……お願い……わたしの……“名前を全部”……取り戻して……
「ああ。絶対に取り戻す」
深層の奥で、光が強く輝いた。
俺たちはその光へ向かって走り続けた。
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