第30話 欠片の呼ぶ方へ
揺らぎの獣が消えた深層には、しばらくの間、音という音がなかった。
漂う文字が静かに揺れ、世界の裏側が呼吸を取り戻すように、淡い光が空間を満たしていく。
リーナが俺の腕を掴んだまま、震える声で言った。
「カイさん……本当に……倒したんですよね……?」
「ああ。でも……まだ終わりじゃない」
胸の奥の欠片が、熱を帯びて脈打つ。
──……カイ……“欠片”が……呼んでる……
(呼んでる……?)
──……わたしの……“苗字の欠片”……この深層の……もっと奥に……
アリスの声は弱々しいが、確かな方向を示していた。
俺は深層の奥へ視線を向ける。
そこには、文字の海が渦を巻くように集まり、淡い光の道を作っていた。
リーナが息を呑む。
「……道……?」
「アリスが……示してくれているんだ」
俺たちはその光の道へ足を踏み出した。
深層の奥へ進むほど、空間は不安定になっていく。
文字が突然崩れ、空間に穴が開く。
その穴はすぐに閉じるが、“存在の層”が薄いことを嫌でも思い知らされる。
リーナが不安げに言う。
「カイさん……ここ、本当に歩いて大丈夫なんですか……?」
「大丈夫だ。アリスが……繋ぎ止めてくれている」
──……うん……わたし……ちゃんと……いるよ……
アリスの声は、深層の冷たい空間に温かさをもたらした。
だが、その温もりの裏で、微かな“ざわめき”が聞こえた。
(……何だ……?)
文字の海が揺れ、遠くで影が動いたように見えた。
リーナが俺の袖を掴む。
「カイさん……今、何か……動きませんでした……?」
「……気のせいじゃない」
胸の奥の欠片が、警告するように脈打つ。
──……カイ……“あの人”が……近づいてる……
(敵調整者……!)
──……わたしの……名前が戻ったから……気づいた……
アリスの声が震える。
──……早く……欠片を……見つけて……
俺は歩みを速めた。
深層の奥へ進むほど、空間は静かになり、逆に“気配”が濃くなる。
まるで誰かに見られているような、そんな圧迫感が背中にまとわりつく。
リーナが小さく呟く。
「カイさん……怖いです……」
「大丈夫だ。俺がいる」
そう言いながらも、俺自身、胸の奥に冷たいものを感じていた。
(……急がないと……)
光の道の先に、淡い光の球が浮かんでいた。
その中心には、ひとつの“文字”が揺れている。
アリスの声が震えた。
──……あれ……わたしの……“苗字の欠片”……
俺はその光へ手を伸ばした。
光の球に触れた瞬間、深層が震えた。
文字が一斉に舞い上がり、空間が白い光に包まれる。
リーナが目を覆う。
「な、何……!?光が……!」
俺は光の中で、ひとつの“記憶”を見た。
少女、アリスが、誰かに手を引かれて走っている。
白い空間。
崩れる文字。
そして、黒い外套の影。
──……逃げて……アリス……
優しい声。
──……いや……いやだ……お母さん……!
少女の叫び。
そして、黒い影が手を伸ばし、少女の“名前”を掴み取る。
──……アリ……アリ……アリ……?
名前が削られ、少女の姿が揺らぐ。
──……やめて……やめて……!
記憶が途切れた。
光が収まり、俺は深層の床に膝をついた。
リーナが駆け寄る。
「カイさん……!大丈夫ですか……?」
「ああ……ただ……少し……」
胸の奥の欠片が、強く脈打っている。
──……カイ……見た……?わたしの……“名前が奪われた”瞬間……
(ああ……見た)
──……わたしの……苗字は……“アリス・──”……
最後の部分が、まだ聞こえない。
だが、欠片は確かに手に入った。
光の球が消え、そこにはひとつの“文字”が残っていた。
それは、アリスの苗字の最初の一文字。
「……“L”……?」
リーナが呟く。
「アリスちゃんの苗字……“L”から始まるんですね……」
「ああ。でも……まだ全部じゃない」
アリスの声が震える。
──……カイ……“あの人”が……来る……
(……やっぱりか)
──……わたしの……名前が戻るほど……あの人は……“気づく”……
深層の空間が揺れた。
遠くで、黒い影が立ち上がる。
リーナが震える。
「カイさん……あれ……!」
影はゆっくりとこちらへ向かってくる。
その歩みは静かだが、深層そのものを揺らすほどの“重さ”があった。
──……カイ……逃げて……今のあなたじゃ……勝てない……
(逃げる……?でも……)
影が一歩踏み出すたび、世界の文字がざわりと揺れる。
敵調整者、アリスの名前を奪った存在。
リーナが俺の手を握る。
「カイさん……どうするんですか……?」
俺は深層の奥を見つめた。
そこには、まだ光の道が続いている。
(……アリスの苗字の残り……まだある……)
「逃げるぞ、リーナ」
「えっ……!?」
「戦うんじゃない。“今はまだ”な」
リーナは強く頷いた。
「……はい!」
俺たちは光の道へ走り出した。
背後で、敵調整者の影が深層を揺らす。
──……カイ……お願い……わたしの……“名前を全部”……取り戻して……
「ああ。絶対に取り戻す」
深層の奥へ、俺たちは走り続けた。
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