第29話 揺らぎの獣
深層の空間が震えた。
黒い影、揺らぎの獣が吠えるたび、漂う文字が砕け、光の粒となって消えていく。
そのたびに、世界の裏側が“削られていく”ような感覚が走った。
リーナが俺の背に隠れながら震える。
「カイさん……あれ……本当に戦えるんですか……?」
「戦うしかない。あれを放っておけば……深層そのものが崩れる」
獣は形を定めない。
獣のような四肢が生えたかと思えば、次の瞬間には人の腕のような影が伸びる。
影の表面は常に波打ち、まるで“存在そのものが不安定”だった。
世界の“失敗した設定”が固まった存在、アリスが言っていた通りだ。
──……カイ……あの獣は……“書き換えの残骸”……
(残骸……)
──……調整者が……設定を修正するとき……失敗した部分が……こうして……形になる……
つまり、調整者の“ミス”が生んだ怪物。
俺は獣の身体を凝視した。
(……見える……)
黒い影の中に、わずかに“文字の欠片”が混じっている。
その文字は、獣の動きに合わせて揺れ、時折、意味を持つ形を作っていた。
(あれが……弱点だ)
アリスの声が囁く。
──……カイ……その文字……“触れれば”……獣の動きを……止められる……
(触れれば……?でも、あの獣に近づくのは……)
リーナが不安げに言う。
「カイさん……あれ、近づくだけで危なそうです……!」
「ああ。でも……やるしかない」
獣が吠えた。
深層全体が震え、文字の海が波のように揺れる。
リーナが耳を塞ぐ。
「ひっ……!」
俺は一歩前に出た。
「リーナ、下がってろ」
「カイさん……!」
「大丈夫だ。アリスが……俺を繋ぎ止めてくれている」
胸の奥の欠片が光る。
──……カイ……わたしが……あなたを守る……
その声が、深層の冷たい空間に温かさをもたらした。
獣が影の腕を伸ばし、空間を切り裂く。
その軌跡に触れた文字が、次々と崩れ落ちていく。
(……あれに当たれば……存在ごと削られる……)
俺は拳を握りしめた。
「来い……!」
獣が吠え、影の腕を振り下ろした。
深層での、初めての戦いが始まった。
影の腕が迫る。
俺は横へ跳び、空間を裂く攻撃をギリギリで避けた。
影が通った場所は、まるで“世界が削られた”ように空白が生まれる。
そこには何も残らない。
文字も、光も、存在すらも。
リーナが叫ぶ。
「カイさん、危ない──!」
「わかってる!」
獣の動きは速い。
形が定まらないせいで、攻撃の軌道も読みにくい。
だが。
(……文字が……見える……)
獣の身体の中に浮かぶ“文字の欠片”。
その文字が光る瞬間、獣の動きがわずかに止まる。
(あれが……弱点だ)
──……カイ……その文字……“触れて”……“書き換えて”……
(書き換える……?)
──……あなたなら……できる……
胸の奥の欠片が熱を帯びる。
だが、獣は待ってくれない。
影の腕が二本、三本と増え、空間を切り裂きながら迫ってくる。
リーナが震える声で言う。
「カイさん……!あれ、増えてます……!」
「わかってる……!」
獣は怒っている。
俺が“文字”に触れようとしたからだ。
深層の空間が揺れ、漂う文字がざわざわと音を立てる。
まるで世界そのものが怯えているようだった。
(……このままじゃ……押し切られる……)
獣が吠えた。
その声は、耳ではなく“存在”に直接響く。
リーナが膝をつく。
「う……っ……頭が……割れそう……!」
「リーナ!」
俺は彼女の前に立ち、獣の視線を引きつける。
「こっちだ……!」
獣が影の腕を振り下ろす。
俺は跳び、獣の身体の側面へ回り込んだ。
(……あった……!)
黒い影の中に、ひときわ強く光る“文字”がある。
その文字は、まるで心臓のように脈打っていた。
──……カイ……その文字……“核”……
(核……!)
──……そこを……書き換えれば……獣は……止まる……
だが、獣は俺の動きを読んでいた。
影の腕が四方から迫る。
逃げ場はない。
(……くそ……!)
その瞬間、胸の奥の欠片が強く脈打った。
──……カイ……わたしが……“守る”……
アリスの声とともに、俺の視界に“文字の流れ”が走った。
世界の文字が線となり、獣の攻撃の軌道を“予測”するように浮かび上がる。
(……見える……!)
俺はその線を辿り、影の腕の隙間をすり抜けた。
リーナが驚きの声を上げる。
「カイさん……今の……!」
「アリスが……見せてくれた!」
獣の中心にある“核の文字”が、強く光る。
俺は拳を握りしめた。
(届く……!)
獣が最後の力で影の腕を振り上げた。
俺に向かって。
リーナが叫ぶ。
「カイさんっ!!」
俺は叫んだ。
「アリス──力を貸せ!!」
──……うん……!
胸の奥が熱く光り、俺の手が“文字の光”に包まれる。
そのまま、獣の“核の文字”へ手を伸ばした。
(届け──!!)
指先が触れた瞬間、深層が白い光に包まれた。
獣が苦しげに吠える。
影の身体が揺れ、形が崩れ始める。
だが、獣はまだ消えない。
影の腕が、最後の一撃を放とうと振り上げられる。
(……まだ……終わってない……!)
俺は“核の文字”を握りしめ、強く念じた。
(アリスを守る……リーナを守る……この世界を守る……!)
胸の奥の欠片が、脈打つ。
──……カイ……“書き換えて”……
(書き換える……!)
俺は叫んだ。
「消えろ──!!」
光が爆ぜた。
深層全体が震え、獣の身体が完全に崩れ落ちていく。
影が霧のように散り、文字の海へと溶けていった。
静寂が戻る。
リーナが駆け寄ってくる。
「カイさん……!本当に……大丈夫ですか……?」
「ああ……なんとか……」
だが、胸の奥の欠片はまだ熱い。
アリスの声が微かに響く。
──……カイ……“欠片”が……近くに……ある……
(欠片……?)
──……わたしの……“苗字の欠片”……この深層の……どこかに……落ちてる……
俺は息を整えながら、深層の奥を見つめた。
(……アリスの苗字……それを取り戻せば……)
リーナが俺の手を握る。
「行きましょう、カイさん。アリスちゃんの……“名前”を取り戻すために」
「ああ……行こう」
深層の奥で、淡い光が瞬いた。
それはまるで、俺たちを呼んでいるようだった。
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