第28話 世界の裏層
アリスの声が胸の奥で静かに震えていた。
──……わたしの……残りの欠片……この世界の……どこかに……散ってる……
(散っている……それを集めれば……アリスは完全に戻れる)
だが同時に、敵調整者が“本体”を向かわせているという事実が、胸の奥に重くのしかかっていた。
リーナが不安げに俺を見る。
「カイさん……本当に行くんですか……?“深層”って……危ないんですよね……」
「ああ。危険だ。でも……行かなきゃいけない」
リーナは唇を噛みしめた。
「……わたしも行きます」
「リーナ──」
「止めないでください。アリスちゃんを助けたいのは……わたしも同じです」
その瞳は揺れていなかった。
恐怖はある。
だが、それ以上に“覚悟”があった。
胸の奥の欠片が、微かに光る。
──……リーナ……ありがとう……
アリスの声は、どこか嬉しそうだった。
俺は頷いた。
「わかった。一緒に行こう」
リーナの表情が少しだけ明るくなる。
「はい……!」
その瞬間、視界の端で世界の文字が“逆流”した。
(……まただ……さっきも一瞬だけ……)
アリスの声が震える。
──……カイ……“深層”が……開きかけてる……
(開きかけてる……?)
──……あなたの力が……わたしの名前を取り戻したことで……“鍵”になった……
(鍵……)
──……だから……深層へ行ける……でも……“あの人”も……来る……
胸の奥が冷たくなる。
(敵調整者……アリスを消した存在……)
リーナが俺の袖を掴む。
「カイさん……深層って……どうやって行くんですか……?」
「……わからない。でも──」
視界の端で揺れる世界の文字が、ひとつの“線”を描き始めた。
床の上に、淡い光の裂け目が走る。
リーナが息を呑む。
「な、何ですか……これ……!」
「深層への……入口だ」
アリスの声が囁く。
──……カイ……そこから……行ける……でも……気をつけて……深層は……“世界の裏側”……
(裏側……)
──……あなたの存在が……薄れるかもしれない……
リーナが震える声で言う。
「カイさん……そんな危ないところに……!」
「大丈夫だ。俺は……消えない」
そう言いながらも、胸の奥の欠片は不安げに脈打っていた。
(……本当に大丈夫なのか……深層は……俺の存在を削る……?)
だが、アリスの声が続く。
──……カイ……あなたなら……大丈夫……わたしが……“繋ぎ止める”……
(アリス……)
──……あなたが……わたしを助けてくれた……今度は……わたしが……あなたを守る……
胸の奥が熱くなる。
リーナが小さく呟く。
「……アリスちゃん……優しい子ですね……」
「ああ。だから……助けたい」
光の裂け目が、ゆっくりと広がっていく。
その奥には、“文字の海”のような空間が揺れていた。
世界の裏側、設定の層。
リーナが俺の手を握る。
「カイさん……一緒に行きましょう」
「ああ」
俺たちは、光の裂け目へと足を踏み入れた。
光の裂け目を抜けた瞬間、世界が反転した。
上下の概念が消え、空も地面も存在しない。
ただ無数の“文字”が漂い、ゆっくりと流れ、時に重なり、時に崩れ落ちていく。
リーナが息を呑む。
「ここ……どこ……?空も……地面も……ない……」
「深層だ。世界の裏側……“設定の層”」
漂う文字は、触れれば消えそうなほど脆く、しかし確かに“世界の根幹”を形作っていた。
リーナは震える声で言う。
「こんな場所……見たことないです……怖い……」
「普通は見えない。調整者だけが……触れられる場所だ」
アリスの声が響く。
──……カイ……リーナ……気をつけて……ここには……“揺らぎの獣”が……いる……
(揺らぎの獣……?)
──……世界の……“書き換えの残骸”……調整者が……失敗したときに……生まれる……
リーナが震える。
「そんなの……聞いてないです……!」
「俺もだ」
だが、アリスの声は続く。
──……でも……あなたなら……倒せる……“見える”から……
(見える……世界の文字が……)
深層の空間は、まるで巨大な図書館の“裏側”のようだった。
意味を失った文字が漂い、時折、文字同士がぶつかって火花のような光を散らす。
リーナが不安げに俺の袖を掴む。
「カイさん……ここ……息がしづらい……空気が……薄い……?」
「空気じゃない。“存在の層”が薄いんだ」
「存在の……層……?」
「ここは世界の裏側だ。俺たちの存在そのものが……世界に“認識されにくい”」
リーナの顔が青ざめる。
「じゃあ……わたしたち……消えちゃう……?」
「大丈夫だ。アリスが繋ぎ止めてくれている」
胸の奥の欠片が光る。
──……カイ……わたしが……あなたを守る……
その声は、深層の空間に温かさをもたらすようだった。
だが、その温もりを打ち消すように、低い唸り声が響いた。
深層の奥から、文字の海が揺れ、黒い影が姿を現す。
リーナが叫ぶ。
「カイさん……!あれ……!」
揺らぎの獣。
世界の“失敗した設定”が固まった存在。
形は定まらず、獣のようでもあり、人のようでもあり、ただ“世界のエラー”そのものだった。
近づくたびに、周囲の文字が崩れ落ち、空間が歪む。
リーナが震える声で言う。
「な、なんで……あんなのが……生きてるんですか……?」
「生きてるわけじゃない。“残骸”だ。でも……危険だ」
獣が吠えると、深層全体が震えた。
リーナが耳を塞ぐ。
「ひっ……!」
俺は一歩前に出た。
「大丈夫だ。アリスが……俺を繋ぎ止めてくれている」
胸の奥の欠片が光る。
──……カイ……あなたなら……“読める”……あの獣の……“弱点”が……
(弱点……?)
獣の身体を覆う黒い影の中に、わずかに“文字の欠片”が混じっている。
その文字は、獣の動きに合わせて揺れ、時折、意味を持つ形を作っていた。
(……あれは……“設定の残り”……?なら……)
俺は拳を握りしめた。
「リーナ、下がってろ」
「カイさん……!」
「大丈夫だ。これは……俺がやる」
獣が吠え、深層が揺れた。
俺は一歩踏み出す。
「行くぞ……!」
深層での、最初の戦いが始まった。
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