第27話 少女の名前
霧の向こうから響く足音は、静かで、しかし確実にこちらへ近づいていた。
一歩ごとに、世界の文字がざわりと揺れる。
まるで存在そのものが“設定の層”を押し分けて進んでくるようだった。
リーナが震える声で言う。
「カイさん……あれ、本当に……人なんですか……」
「わからない。でも……ただの人じゃない」
胸の奥の欠片が、熱を帯びて脈打つ。
少女の声が微かに響いた。
──……カイ……気をつけて……“あの人”は……わたしを……消した……
(……少女を消した……?じゃあ……あれが……)
霧が裂けた。
そこに立っていたのは、人の形をしているが、輪郭が揺らいでいる存在だった。
黒い外套のようなものをまとい、顔は影に沈んで見えない。
だが、その中心にある“視線”だけは、確かに俺を捉えていた。
「……見つけた」
低い声が、霧の中で響いた。
リーナが息を呑む。
「しゃ、喋った……!」
影のような存在は、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「お前が……新しい調整者か。未熟だが……力の匂いがする」
胸の奥の欠片が、強く脈打った。
──……カイ……逃げて……あの人は……“名前”を奪う……
(名前……?)
──……わたしの……名前も……あの人に……奪われた……
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
少女の声が、はっきりと響く。
──……わたしの名前は……“ア……リ……”……
(ア……リ……?)
そこまで言ったところで、少女の声が途切れた。
影の存在が、ゆっくりと手を伸ばす。
「その欠片……返してもらう」
世界の文字がざわりと揺れ、影の手が触れた空間が“削られて”いく。
リーナが叫ぶ。
「カイさん、逃げて──!」
だが、俺は動かなかった。
(……ア……リ……少女の名前……その断片が戻った……)
胸の奥の欠片が熱を帯び、少女の声が微かに囁く。
──……カイ……わたしの……名前……“アリ……”……
影の存在が、さらに近づく。
「その欠片は……本来、私のものだ。返せ」
「返す気はない」
俺は影を見据えた。
「これは……少女のものだ。お前のものじゃない」
影の輪郭が揺れ、低い笑い声が霧の中に響いた。
「少女……?ああ、あの“設定の残滓”か。まだ消えていなかったとはな」
胸の奥が熱くなる。
(……残滓……?少女を……そんなふうに……)
影が手を振ると、世界の文字が裂け、空気が歪んだ。
攻撃が来る。
だが、俺の視界にも、世界の文字が浮かび上がっていた。
(……見える……なら……)
俺は手を伸ばし、影の攻撃に触れた。
世界の文字が弾け、光が散った。
影が一瞬だけ後退する。
「ほう……未熟なりに、調整者の力を使うか」
影の声が低く響く。
「だが……その力はまだ不完全だ。その欠片がなければ……お前はただの人間だ」
胸の奥の欠片が、熱く脈打つ。
──……カイ……わたしの……名前……“アリス”……
(アリス……!)
少女の声が震えながら続く。
──……わたしの名前は……アリス……アリス・…………
最後の部分が、まだ聞こえない。
影が一歩踏み出す。
「名前を取り戻したか。だが……それだけでは足りない」
影の輪郭が揺れ、霧が裂ける。
「次は……“本体”が来る」
その言葉を残し、影は霧の中へ溶けるように消えた。
世界の揺らぎが収まり、静寂が戻る。
だが、胸の奥の欠片はまだ熱を帯びていた。
まるで、少女、アリスの感情がそのまま伝わってくるようだった。
──……カイ……ありがとう……わたしの……名前……“アリス”……少し……戻った……
(アリス……それが……君の名前……)
少女、アリスの声が、胸の奥で優しく響いた。
リーナが駆け寄ってくる。
「カイさん……!本当に大丈夫なんですか……?」
「ああ……なんとか」
そう答えながらも、身体の奥に残る違和感は消えない。
世界の文字が、まだ視界の端で揺れている。
まるで“俺の中の何か”が、世界と同調し始めているようだった。
(……俺の力も……変わってきている……アリスの名前が戻ったことで……欠片が反応している……?)
アリスの声が続く。
──……でも……まだ……足りない……“苗字”が……ない……
(苗字……)
──……わたしの……全部を……取り戻すには……もっと……深い層へ……行かないと……
アリスの声は、どこか不安げだった。
リーナが俺の手を握る。
「カイさん……これから……どうするんですか……?」
俺は空を見上げた。
霧は晴れたが、世界の文字はまだ揺れている。
まるで、世界そのものが“落ち着かない”と訴えているようだった。
「アリスの名前を……全部取り戻す。そのために……深層へ行く」
胸の奥の欠片が、静かに脈打った。
──……カイ……ありがとう……
その声は、どこか泣きそうだった。
だが、アリスの声はそこで終わらなかった。
──……でも……気をつけて……“あの人”は……わたしの名前だけじゃなく……“わたしの存在”も……奪おうとした……
(存在……?)
──……名前を奪われると……存在が薄れる……わたしは……“消されかけた”……
胸の奥が冷たくなる。
(……アリス……そんなことが……)
リーナが不安げに俺を見る。
「カイさん……さっきの影……本当に、あれで終わりなんですか……?」
「終わりじゃない。あれは……“呼び水”だ」
「呼び水……?」
「あいつが言っていた。“本体が来る”って」
リーナの顔が青ざめる。
「じゃあ……さっきの影より……もっと強い存在が……?」
「ああ。敵の調整者……本物が来る」
風が吹き抜け、神殿の庭の木々がざわりと揺れた。
その揺れ方が、どこか不自然だった。
まるで“世界の層”がまだ乱れているように。
リーナが小さく呟く。
「カイさん……怖くないんですか……?」
俺は少しだけ笑った。
「怖いさ。でも……逃げるわけにはいかない」
リーナは唇を噛みしめた。
「……わたしも……カイさんの力になりたいです……足手まといかもしれないけど……でも……」
「リーナ」
俺は彼女の手を握り返した。
「お前がいてくれるだけで……俺は戦える」
リーナの目が潤む。
「……はい……!」
その瞬間、胸の奥の欠片が微かに光った。
──……カイ……リーナ……ありがとう……
アリスの声は、どこか安心したようだった。
だが、その直後、声の調子が変わった。
──……でも……時間がない……“あの人”は……わたしの名前が戻ったことに……気づいてる……
(気づいてる……?)
──……だから……来る……必ず……来る……
風が止まった。
世界の文字が、ほんの一瞬だけ“逆流”した。
リーナが震える声で言う。
「カイさん……今の……何ですか……?」
「……わからない。でも……嫌な予感がする」
アリスの声が、かすかに震えて囁く。
──……カイ……“深層”へ行く前に……準備が必要……あなたの力も……まだ……不安定……
(準備……)
──……わたしの名前の……“残りの欠片”が……この世界のどこかに……散ってる……
(散ってる……?)
──……それを……集めて……わたしを……“完全に”して……
アリスの声は、必死だった。
リーナが俺を見る。
「カイさん……アリスちゃんの名前……まだ全部じゃないんですね……?」
「ああ。苗字が……まだ戻っていない」
リーナは拳を握った。
「じゃあ……探しましょう。アリスちゃんの“欠片”を……!」
俺は頷いた。
「行こう。アリスの名前を取り戻すために」
胸の奥の欠片が、静かに、しかし強く脈打った。
──……カイ……ありがとう……わたし……絶対に……消えない……
その声は、決意に満ちていた。
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