第153話 アステルに触れられなかった日
あの日、俺は確かにリーナへ手を伸ばした。
迷いなんてなかった。
あの光がどこへ続いているのかも、何が起きているのかもわからなかったけれど、リーナが崩れ落ちるように沈んでいくのを見ているだけなんて、できるはずがなかった。
触れられると思った。
ほんの一瞬、指先が光に触れたように見えた。
けれど、次の瞬間には理解した。
——触れていない。
そこに“ある”のに、俺の存在を通さない。
まるで、俺だけがこの世界の物理法則から外れているような感覚だった。
リーナの姿が光の奥へ沈んでいく。
俺は腕を伸ばしたまま、ただ見ているしかなかった。
掴めない。
届かない。
救えない。
胸の奥で何かがひび割れたような気がした。
音はしなかったのに、確かに割れた感覚だけが残った。
光はリーナだけを飲み込み、俺を拒絶した。
その拒絶は、痛みよりも静かで、残酷だった。
世界が音を失ったようだった。
自分の心臓の鼓動だけがやけに大きく響いて、その鼓動が、リーナの消えていく光とまったく噛み合わなかった。
光が閉じていく。
ゆっくりと、俺を置き去りにするように。最初から俺には見せるつもりがなかったかのように。
俺はその場に膝をついた。
呼吸が乱れているのに、声が出なかった。
叫びたいのに、喉が動かなかった。
なんでだ。
なんで届かない。
なんで触れられない。
なんで、俺だけ。
心の中で何度も叫んだ。
けれど、世界は何も答えなかった。
それでも、俺は諦めなかった。
リーナが消えたあの日から、俺はずっと探していた。
リーナが落ちた場所を。
あの光の残滓を。
アステルという名前すら知らないまま、ただ、リーナの気配を追い続けた。
どれだけ探しても、どれだけ歩いても、リーナの気配はどこにもなかった。
まるで世界そのものが、リーナの存在を隠しているようだった。
そんな日々の中で、一度だけ、世界が俺を認めた瞬間があった。
認めた、というより、“認めかけた”と言ったほうが正しいのかもしれない。
リーナの核が揺れたあの日。
胸の奥に、微かな震えが走った。
今まで一度も届かなかったはずの揺れが、初めて俺の胸に触れた。
あれは、世界の膜がほんの一瞬だけ薄くなった瞬間だった。
リーナの揺れが外側へ漏れ、その揺れに巻き込まれるようにして、世界が俺の存在を“少しだけ”認めた。
その時、俺は確かにリーナの気配を感じた。
リーナがどこかで泣いている気がした。
どこかで苦しんでいる気がした。
どこかで、俺を呼んでいる気がした。
胸の奥が熱くなった。
名前を呼べば届く気がした。
手を伸ばせば触れられる気がした。
——なのに。
その揺れはすぐに消えた。
世界はまた俺を拒絶した。
認められたはずなのに、届いたはずなのに、触れられたはずなのに、次の瞬間には何も残っていなかった。
あの一瞬だけが、俺の希望であり、俺の絶望だった。
その後の世界は、また静かだった。
俺の存在を認めない世界に戻った。
誰も俺を見ない。
誰も俺を知らない。
誰も俺を呼ばない。
リーナだけが、俺を知っていた。
リーナだけが、俺を見ていた。
リーナだけが、俺を呼んでくれた。
だから、あの一瞬の揺れは、俺にとって“世界がリーナを返してくれるかもしれない”唯一の兆しだった。
それでも、揺れは消えた。
認められたはずなのに、世界は俺を拒絶したままだった。
それでも俺は歩き続けた。
世界の端を。
誰もいない場所を。
誰も気づかない場所を。
誰も見ない空を。
リーナがどこかで泣いている気がした。
どこかで苦しんでいる気がした。
どこかで、俺を呼んでいる気がした。
その気配だけを頼りに、俺は歩き続けた。
そして今日。
胸の奥で、また揺れた。
前よりも強く。
前よりも近く。
前よりも確かに。
リーナの核が呼んでいる。
世界の膜が揺れている。
境界が薄くなっている。
認められたはずなのに届かなかったあの日とは違う。
今度は、本当に届き始めている。
俺は歩き出した。
胸の奥の揺れを頼りに。
リーナの核が呼ぶ方向へ。
ようやく。
ようやく、届き始めた。
胸の奥で揺れが続いていた。
最初は微かな震えだったのに、歩くほどにその震えは強くなっていく。
まるで、俺の鼓動とリーナの鼓動が、少しずつ同じリズムを探し始めているようだった。
揺れは痛みではなかった。
熱でもなかった。
ただ、胸の奥のどこか深い場所を、静かに、確かに叩いてくる。
——こっちだ。
言葉じゃない。
声でもない。
けれど、確かに“方向”として伝わってくる。
俺は歩いた。
世界の端を。
誰もいない道を。
誰も気づかない空の下を。
歩くたびに、揺れが少しずつ強くなる。
それは、リーナが近づいている証拠だった。
けれど同時に、胸の奥で別の感情が生まれていた。
——怖い。
届くのが怖い。
触れられるのが怖い。
また拒絶されるのが怖い。
認められたはずなのに届かなかったあの日の痛みが、まだ胸の奥に残っている。
あの時、世界は俺を認めかけた。
リーナの揺れが漏れたことで、世界の膜が一瞬だけ薄くなった。
その一瞬だけ、俺はリーナの気配を感じた。
リーナの涙を感じた。
リーナの苦しみを感じた。
けれど、次の瞬間には何も残っていなかった。
認められたはずなのに、届いたはずなのに、触れられたはずなのに、世界はまた俺を拒絶した。
その痛みが、今も胸の奥に残っている。
だから、揺れが強くなるほど、希望と同じくらい恐れも強くなっていった。
——また拒絶されたらどうする。
——また届かなかったらどうする。
——また、リーナを失ったらどうする。
歩くたびに、そんな声が胸の奥で生まれる。
けれど、足は止まらなかった。
揺れが呼んでいる。
リーナが呼んでいる。
世界の膜が薄くなっている。
俺は歩き続けた。
どれくらい歩いたのか、わからない。
時間の感覚が曖昧になっていく。
世界の色が少しずつ薄くなっていく。
空気が静かになっていく。
まるで、世界そのものが息を潜めているようだった。
揺れが胸の奥を叩く。
強く。
深く。
確かに。
その揺れは、前よりも近い。
前よりも鮮明だ。
前よりも“リーナ”だった。
俺は息を呑んだ。
——リーナ。
名前を呼ぶと、胸の奥が熱くなった。
その熱は、あの日の痛みとは違う。
拒絶の痛みでも、孤独の痛みでもない。
それは、届き始めた証だった。
歩くほどに、世界の膜が薄くなる。
空気が揺れる。
光が揺れる。
地面の感触が変わる。
まるで、世界の境界そのものが、俺の存在を“許す準備”をしているようだった。
認められたはずなのに届かなかったあの日とは違う。
今度は、本当に届き始めている。
胸の奥の揺れが、さらに強くなった。
痛いほどに強くなった。
けれど、その痛みは嫌じゃなかった。
それは、リーナの核が揺れている証だった。
リーナが自分自身に触れ始めている証だった。
リーナが“本当の自分”に近づいている証だった。
そして、その揺れが外側へ漏れ始めている証だった。
世界の膜が薄くなる。
境界が揺れる。
空気が震える。
俺は歩き続けた。
胸の奥の揺れを頼りに。
リーナの核が呼ぶ方向へ。
どれくらい歩いたのか、わからない。
けれど、突然、世界の色が変わった。
空気が柔らかくなった。
光が淡くなった。
地面の感触が消えた。
まるで、世界そのものが“別の層”へ移ったようだった。
胸の奥の揺れが、急に強くなった。
息が止まるほど強くなった。
——近い。
リーナが近い。
リーナの核が近い。
リーナの鼓動が近い。
俺は息を呑んだ。
胸の奥が熱くなる。
視界が揺れる。
そして、世界の膜が、完全に薄くなった。
あの日、認められたはずなのに届かなかった膜が。
俺を拒絶し続けた膜が。
リーナを隠し続けた膜が。
今、静かに、確かに、消え始めている。
俺は歩き出した。
胸の奥の揺れを頼りに。
リーナの核へ向かって。
ようやく。
ようやく、届く。
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