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『異世界に転移したら、俺だけ世界設定に存在しなかった』  作者: 一ノ瀬 律
七章

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第153話 アステルに触れられなかった日

 あの日、俺は確かにリーナへ手を伸ばした。

迷いなんてなかった。

あの光がどこへ続いているのかも、何が起きているのかもわからなかったけれど、リーナが崩れ落ちるように沈んでいくのを見ているだけなんて、できるはずがなかった。


 触れられると思った。

ほんの一瞬、指先が光に触れたように見えた。

けれど、次の瞬間には理解した。


——触れていない。


 そこに“ある”のに、俺の存在を通さない。

まるで、俺だけがこの世界の物理法則から外れているような感覚だった。


 リーナの姿が光の奥へ沈んでいく。

俺は腕を伸ばしたまま、ただ見ているしかなかった。

掴めない。

届かない。

救えない。


 胸の奥で何かがひび割れたような気がした。

音はしなかったのに、確かに割れた感覚だけが残った。


 光はリーナだけを飲み込み、俺を拒絶した。

その拒絶は、痛みよりも静かで、残酷だった。


 世界が音を失ったようだった。

自分の心臓の鼓動だけがやけに大きく響いて、その鼓動が、リーナの消えていく光とまったく噛み合わなかった。


 光が閉じていく。

ゆっくりと、俺を置き去りにするように。最初から俺には見せるつもりがなかったかのように。


 俺はその場に膝をついた。

呼吸が乱れているのに、声が出なかった。

叫びたいのに、喉が動かなかった。


 なんでだ。

なんで届かない。

なんで触れられない。

なんで、俺だけ。


 心の中で何度も叫んだ。

けれど、世界は何も答えなかった。


 それでも、俺は諦めなかった。

リーナが消えたあの日から、俺はずっと探していた。

リーナが落ちた場所を。

あの光の残滓を。

アステルという名前すら知らないまま、ただ、リーナの気配を追い続けた。


 どれだけ探しても、どれだけ歩いても、リーナの気配はどこにもなかった。


 まるで世界そのものが、リーナの存在を隠しているようだった。


 そんな日々の中で、一度だけ、世界が俺を認めた瞬間があった。


 認めた、というより、“認めかけた”と言ったほうが正しいのかもしれない。


 リーナの核が揺れたあの日。

胸の奥に、微かな震えが走った。

今まで一度も届かなかったはずの揺れが、初めて俺の胸に触れた。


 あれは、世界の膜がほんの一瞬だけ薄くなった瞬間だった。

リーナの揺れが外側へ漏れ、その揺れに巻き込まれるようにして、世界が俺の存在を“少しだけ”認めた。


 その時、俺は確かにリーナの気配を感じた。

リーナがどこかで泣いている気がした。

どこかで苦しんでいる気がした。

どこかで、俺を呼んでいる気がした。


 胸の奥が熱くなった。

名前を呼べば届く気がした。

手を伸ばせば触れられる気がした。


——なのに。


 その揺れはすぐに消えた。

世界はまた俺を拒絶した。

認められたはずなのに、届いたはずなのに、触れられたはずなのに、次の瞬間には何も残っていなかった。


 あの一瞬だけが、俺の希望であり、俺の絶望だった。


 その後の世界は、また静かだった。

俺の存在を認めない世界に戻った。

誰も俺を見ない。

誰も俺を知らない。

誰も俺を呼ばない。


 リーナだけが、俺を知っていた。

リーナだけが、俺を見ていた。

リーナだけが、俺を呼んでくれた。


 だから、あの一瞬の揺れは、俺にとって“世界がリーナを返してくれるかもしれない”唯一の兆しだった。


 それでも、揺れは消えた。


 認められたはずなのに、世界は俺を拒絶したままだった。


 それでも俺は歩き続けた。

世界の端を。

誰もいない場所を。

誰も気づかない場所を。

誰も見ない空を。


 リーナがどこかで泣いている気がした。

どこかで苦しんでいる気がした。

どこかで、俺を呼んでいる気がした。


 その気配だけを頼りに、俺は歩き続けた。


 そして今日。


 胸の奥で、また揺れた。


 前よりも強く。

前よりも近く。

前よりも確かに。


 リーナの核が呼んでいる。

世界の膜が揺れている。

境界が薄くなっている。


 認められたはずなのに届かなかったあの日とは違う。

今度は、本当に届き始めている。


 俺は歩き出した。

胸の奥の揺れを頼りに。

リーナの核が呼ぶ方向へ。


 ようやく。

ようやく、届き始めた。


 胸の奥で揺れが続いていた。

最初は微かな震えだったのに、歩くほどにその震えは強くなっていく。

まるで、俺の鼓動とリーナの鼓動が、少しずつ同じリズムを探し始めているようだった。


 揺れは痛みではなかった。

熱でもなかった。

ただ、胸の奥のどこか深い場所を、静かに、確かに叩いてくる。


——こっちだ。


 言葉じゃない。

声でもない。

けれど、確かに“方向”として伝わってくる。


 俺は歩いた。

世界の端を。

誰もいない道を。

誰も気づかない空の下を。


 歩くたびに、揺れが少しずつ強くなる。

それは、リーナが近づいている証拠だった。


 けれど同時に、胸の奥で別の感情が生まれていた。


——怖い。


 届くのが怖い。

触れられるのが怖い。

また拒絶されるのが怖い。


 認められたはずなのに届かなかったあの日の痛みが、まだ胸の奥に残っている。


 あの時、世界は俺を認めかけた。

リーナの揺れが漏れたことで、世界の膜が一瞬だけ薄くなった。


 その一瞬だけ、俺はリーナの気配を感じた。

リーナの涙を感じた。

リーナの苦しみを感じた。


 けれど、次の瞬間には何も残っていなかった。


 認められたはずなのに、届いたはずなのに、触れられたはずなのに、世界はまた俺を拒絶した。


 その痛みが、今も胸の奥に残っている。


 だから、揺れが強くなるほど、希望と同じくらい恐れも強くなっていった。


——また拒絶されたらどうする。


——また届かなかったらどうする。


——また、リーナを失ったらどうする。


 歩くたびに、そんな声が胸の奥で生まれる。

けれど、足は止まらなかった。


 揺れが呼んでいる。

リーナが呼んでいる。

世界の膜が薄くなっている。


 俺は歩き続けた。


 どれくらい歩いたのか、わからない。

時間の感覚が曖昧になっていく。

世界の色が少しずつ薄くなっていく。

空気が静かになっていく。


 まるで、世界そのものが息を潜めているようだった。


 揺れが胸の奥を叩く。

強く。

深く。

確かに。


 その揺れは、前よりも近い。

前よりも鮮明だ。

前よりも“リーナ”だった。


 俺は息を呑んだ。


——リーナ。


 名前を呼ぶと、胸の奥が熱くなった。

その熱は、あの日の痛みとは違う。

拒絶の痛みでも、孤独の痛みでもない。


 それは、届き始めた証だった。


 歩くほどに、世界の膜が薄くなる。

空気が揺れる。

光が揺れる。

地面の感触が変わる。


 まるで、世界の境界そのものが、俺の存在を“許す準備”をしているようだった。


 認められたはずなのに届かなかったあの日とは違う。

今度は、本当に届き始めている。


 胸の奥の揺れが、さらに強くなった。

痛いほどに強くなった。

けれど、その痛みは嫌じゃなかった。


 それは、リーナの核が揺れている証だった。

リーナが自分自身に触れ始めている証だった。

リーナが“本当の自分”に近づいている証だった。


 そして、その揺れが外側へ漏れ始めている証だった。


 世界の膜が薄くなる。

境界が揺れる。

空気が震える。


 俺は歩き続けた。

胸の奥の揺れを頼りに。

リーナの核が呼ぶ方向へ。


 どれくらい歩いたのか、わからない。

けれど、突然、世界の色が変わった。


 空気が柔らかくなった。

光が淡くなった。

地面の感触が消えた。


 まるで、世界そのものが“別の層”へ移ったようだった。


 胸の奥の揺れが、急に強くなった。

息が止まるほど強くなった。


——近い。


 リーナが近い。

リーナの核が近い。

リーナの鼓動が近い。


 俺は息を呑んだ。

胸の奥が熱くなる。

視界が揺れる。


 そして、世界の膜が、完全に薄くなった。


 あの日、認められたはずなのに届かなかった膜が。

俺を拒絶し続けた膜が。

リーナを隠し続けた膜が。


 今、静かに、確かに、消え始めている。


 俺は歩き出した。

胸の奥の揺れを頼りに。

リーナの核へ向かって。


 ようやく。

ようやく、届く。

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