第148話 扉の向こうにあるもの
胸の奥で二つの鼓動が重なった瞬間、リーナの前に現れた“新しい扉”は、まるで呼吸しているようにゆっくりと脈打っていた。
扉の表面は光でも影でもなく、ただ“記憶の質感”そのものだった。
触れたら温かいのか冷たいのか、それすら想像できない。
影がそっとリーナの横に立った。
その表情は、いつもの柔らかさより少しだけ緊張していた。
「リーナ……この扉は、きみの記憶が自分で作ったものだよ。」
アークは反対側に立ち、扉をじっと見つめた。
「正確には……二つに割れた記憶が、“並び立つための場所”を作った。」
リーナは扉に手を伸ばした。
指先が触れる前に、胸の奥がふっと熱くなる。
「……この先に……私の記憶の“本当の奥”があるの……?」
影は静かにうなずいた。
「うん。きみがずっと触れられなかった場所。影としてのぼくも……アークとしての彼も……その奥には入れなかった。」
アークは淡々と言った。
「入れるのは……“きみ自身”だけだ。」
リーナは息を呑んだ。
「じゃあ……二人は……ここまで……?」
影は首を振った。
「違うよ。ぼくたちはきみの中にいる。扉の向こうに進むのはきみだけだけど……きみが感じること、思うこと……全部、ぼくたちにも伝わる。」
アークも続けた。
「きみが進む限り、ぼくたちは消えない。ただ……扉の向こうで何が起きるかは、きみしか知らない。」
リーナは扉に手を置いた。
表面は思ったよりも柔らかく、指先が沈むような感触があった。
「……怖いよ……でも……進まなきゃいけない気がする。」
影は優しく微笑んだ。
「怖いのは当然だよ。でも……きみはもう“半分の自分”じゃない。二つの記憶を抱えたまま進める。」
アークは静かに言った。
「きみは……本来のきみに戻るための扉を開けようとしている。」
リーナは深く息を吸った。
胸の奥の二つの鼓動が、扉の脈と同じリズムで響いている。
「……行くね。」
影はリーナの手に触れた。
その温度は、人間の温かさそのものだった。
「リーナ……きみなら大丈夫だよ。」
アークは短く言った。
「進め。」
リーナは扉を押した。
柔らかいはずの扉は、驚くほど軽く開いた。
光でも影でもない、
ただ“記憶の色”が広がる。
その瞬間、リーナの視界がふっと揺れた。
影とアークの気配が、胸の奥で強く脈打つ。
扉の向こうから、誰かの声がした。
「……リーナ……?」
リーナは息を呑んだ。
影でもアークでもない。
聞き覚えのある声。
でも、思い出せない。
胸の奥が強く脈打つ。
影が小さく呟いた。
「……リーナ……その声は……きみが“最初に忘れた人”だ。」
アークが続けた。
「影でもぼくでもない。きみの記憶の……もっと奥にいる存在。」
リーナは震えた声で言った。
「……誰……?」
扉の向こうの声が、もう一度リーナの名前を呼んだ。
「リーナ……やっと来たんだね。」
胸の奥の二つの鼓動が、同時に跳ねた。
リーナは一歩、扉の向こうへ踏み出した。
視界が真っ白になったあと、リーナはしばらく自分が立っているのか、座っているのかさえ分からなかった。
ただ、胸の奥で二つの鼓動が暴れるように響き続けていた。
影の温かい鼓動と、アークの冷たい鼓動が、同じリズムで跳ねているのに、その意味はまったく違う。
そして、その二つの鼓動のさらに奥から、もうひとつの脈がゆっくりと浮かび上がってきた。
リーナは息を呑んだ。
「……誰……?」
白い視界がゆっくりと色を取り戻す。
色といっても、現実の色ではない。
記憶の色。
曖昧で、柔らかくて、触れたら消えてしまいそうな色。
その中心に、ひとりの少年が立っていた。
セイル。
名前を聞いた瞬間、胸の奥の奥で何かが裂けたような痛みが走った。
影の鼓動が震え、アークの鼓動が沈んだ。
セイルはリーナを見つめていた。
その瞳は、影のように揺れず、アークのように冷たくもない。
ただ、“リーナを知っている瞳”だった。
「リーナ。やっと……来てくれたんだね。」
リーナは震える声で言った。
「……セイル……あなた……誰なの……?どうして……私の名前を……」
セイルはゆっくり近づいた。
その歩き方は人間そのものだった。
影のように揺れず、アークのように静かすぎることもない。
「リーナ。きみはぼくを忘れた。影よりも前に。アークよりも深く。」
リーナは胸を押さえた。
痛みが強くなる。
「忘れた……?そんな……あなたのことなんて……」
セイルは首を振った。
「違うよ。きみは忘れたかったんじゃない。“忘れさせられた”んだ。」
影の声が胸の奥で震えた。
「リーナ……聞いちゃだめだ……その記憶は……きみを傷つける……」
アークの声も重なる。
「影は守りたいだけだ。だが事実は変わらない。セイルは……きみが最初に失った記憶だ。」
リーナは息を呑んだ。
「最初に……失った……?」
セイルはリーナの目を見た。
その瞳は、影のように揺れず、アークのように冷たくもない。
ただ、“リーナを知っている瞳”だった。
「リーナ。ぼくは……きみがこの世界に来る前に、いちばん近くにいた人だよ。」
リーナの呼吸が止まった。
「この世界に……来る前……?」
影の鼓動が強く震えた。
「リーナ……その記憶は……きみが封印したんだ……自分で……」
アークの声が低く響く。
「封印した理由は……きみが耐えられなかったからだ。」
セイルは静かに言った。
「リーナ。きみはぼくを忘れた。でも……ぼくはきみを忘れなかった。」
リーナの胸が強く脈打った。
視界が揺れる。
「どうして……そんな……私……あなたのこと……」
セイルはリーナの手に触れた。
その温度は、影の温かさとも、アークの冷たさとも違う。
“人間の温度”だった。
「リーナ。ぼくは、きみがこの世界に来る前に、いちばん大切にしていた人だ。」
リーナは息を呑んだ。
「大切に……?」
胸の奥の二つの鼓動が、同時に跳ねた。
影の声が震える。
「リーナ……思い出さなくていい……その記憶は……きみを壊す……」
アークの声が重なる。
「だが……思い出さなければ、きみはずっと半分のままだ。」
セイルはリーナの手を握った。
「リーナ。ぼくは……きみが“この世界に来る前の記憶”そのものだ。」
リーナの視界が揺れた。
「この世界に……来る前……私……そんな記憶……」
セイルは静かに言った。
「きみは……“転移した”んじゃない。“逃げた”んだよ。」
リーナの呼吸が止まった。
影の鼓動が震え、アークの鼓動が沈む。
セイルは続けた。
「きみは……ぼくを失った日、この世界へ逃げたんだ。」
リーナは震えた。
「失った……?私が……?」
セイルはリーナの手を強く握った。
「リーナ。ぼくは、きみがこの世界に来る前に、“死んだ”んだ。」
リーナの視界が崩れた。
胸の奥の二つの鼓動が、同時に悲鳴を上げた。
影の声が叫ぶ。
「リーナ!!聞いちゃだめだ!!」
アークの声も重なる。
「その記憶は……きみが封印した“最初の痛み”だ!!」
セイルはリーナを抱き寄せた。
「リーナ……ぼくは……きみが守れなかった人だ。」
リーナの膝が崩れた。
「やめて……そんなこと……言わないで……」
セイルは静かに言った。
「リーナ。きみはぼくを失った日、世界から逃げた。そして……この世界に落ちたんだ。」
胸の奥の二つの鼓動が、完全に乱れた。
影の声が震える。
「リーナ……戻ってきて……きみは……ひとりじゃない……」
アークの声が低く響く。
「影……黙れ。これは……きみが守り続けた“痛み”だ。」
セイルはリーナの頬に触れた。
「リーナ。ぼくは……きみが最初に愛した人だよ。」
リーナの視界が真っ白になった。
胸の奥で、影とアークの鼓動が同時に叫んだ。
そして、リーナの記憶が、ついに“始まり”へ触れた。
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