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『異世界に転移したら、俺だけ世界設定に存在しなかった』  作者: 一ノ瀬 律
六章

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第148話 扉の向こうにあるもの

 胸の奥で二つの鼓動が重なった瞬間、リーナの前に現れた“新しい扉”は、まるで呼吸しているようにゆっくりと脈打っていた。


 扉の表面は光でも影でもなく、ただ“記憶の質感”そのものだった。

触れたら温かいのか冷たいのか、それすら想像できない。


 影がそっとリーナの横に立った。

その表情は、いつもの柔らかさより少しだけ緊張していた。


「リーナ……この扉は、きみの記憶が自分で作ったものだよ。」


 アークは反対側に立ち、扉をじっと見つめた。


「正確には……二つに割れた記憶が、“並び立つための場所”を作った。」


 リーナは扉に手を伸ばした。

指先が触れる前に、胸の奥がふっと熱くなる。


「……この先に……私の記憶の“本当の奥”があるの……?」


 影は静かにうなずいた。


「うん。きみがずっと触れられなかった場所。影としてのぼくも……アークとしての彼も……その奥には入れなかった。」


 アークは淡々と言った。


「入れるのは……“きみ自身”だけだ。」


 リーナは息を呑んだ。


「じゃあ……二人は……ここまで……?」


 影は首を振った。


「違うよ。ぼくたちはきみの中にいる。扉の向こうに進むのはきみだけだけど……きみが感じること、思うこと……全部、ぼくたちにも伝わる。」


 アークも続けた。


「きみが進む限り、ぼくたちは消えない。ただ……扉の向こうで何が起きるかは、きみしか知らない。」


 リーナは扉に手を置いた。

表面は思ったよりも柔らかく、指先が沈むような感触があった。


「……怖いよ……でも……進まなきゃいけない気がする。」


 影は優しく微笑んだ。


「怖いのは当然だよ。でも……きみはもう“半分の自分”じゃない。二つの記憶を抱えたまま進める。」


 アークは静かに言った。


「きみは……本来のきみに戻るための扉を開けようとしている。」


 リーナは深く息を吸った。

胸の奥の二つの鼓動が、扉の脈と同じリズムで響いている。


「……行くね。」


 影はリーナの手に触れた。

その温度は、人間の温かさそのものだった。


「リーナ……きみなら大丈夫だよ。」


 アークは短く言った。


「進め。」


 リーナは扉を押した。


 柔らかいはずの扉は、驚くほど軽く開いた。


 光でも影でもない、

ただ“記憶の色”が広がる。


 その瞬間、リーナの視界がふっと揺れた。


 影とアークの気配が、胸の奥で強く脈打つ。


 扉の向こうから、誰かの声がした。


「……リーナ……?」


 リーナは息を呑んだ。


 影でもアークでもない。

聞き覚えのある声。

でも、思い出せない。


 胸の奥が強く脈打つ。


 影が小さく呟いた。


「……リーナ……その声は……きみが“最初に忘れた人”だ。」


 アークが続けた。


「影でもぼくでもない。きみの記憶の……もっと奥にいる存在。」


 リーナは震えた声で言った。


「……誰……?」


 扉の向こうの声が、もう一度リーナの名前を呼んだ。


「リーナ……やっと来たんだね。」


 胸の奥の二つの鼓動が、同時に跳ねた。


 リーナは一歩、扉の向こうへ踏み出した。


 視界が真っ白になったあと、リーナはしばらく自分が立っているのか、座っているのかさえ分からなかった。

ただ、胸の奥で二つの鼓動が暴れるように響き続けていた。


 影の温かい鼓動と、アークの冷たい鼓動が、同じリズムで跳ねているのに、その意味はまったく違う。


 そして、その二つの鼓動のさらに奥から、もうひとつの脈がゆっくりと浮かび上がってきた。


 リーナは息を呑んだ。


「……誰……?」


 白い視界がゆっくりと色を取り戻す。

色といっても、現実の色ではない。

記憶の色。

曖昧で、柔らかくて、触れたら消えてしまいそうな色。


 その中心に、ひとりの少年が立っていた。


 セイル。


 名前を聞いた瞬間、胸の奥の奥で何かが裂けたような痛みが走った。

影の鼓動が震え、アークの鼓動が沈んだ。


 セイルはリーナを見つめていた。

その瞳は、影のように揺れず、アークのように冷たくもない。


 ただ、“リーナを知っている瞳”だった。


「リーナ。やっと……来てくれたんだね。」


 リーナは震える声で言った。


「……セイル……あなた……誰なの……?どうして……私の名前を……」


 セイルはゆっくり近づいた。

その歩き方は人間そのものだった。

影のように揺れず、アークのように静かすぎることもない。


「リーナ。きみはぼくを忘れた。影よりも前に。アークよりも深く。」


 リーナは胸を押さえた。

痛みが強くなる。


「忘れた……?そんな……あなたのことなんて……」


 セイルは首を振った。


「違うよ。きみは忘れたかったんじゃない。“忘れさせられた”んだ。」


 影の声が胸の奥で震えた。


「リーナ……聞いちゃだめだ……その記憶は……きみを傷つける……」


 アークの声も重なる。


「影は守りたいだけだ。だが事実は変わらない。セイルは……きみが最初に失った記憶だ。」


 リーナは息を呑んだ。


「最初に……失った……?」


 セイルはリーナの目を見た。

その瞳は、影のように揺れず、アークのように冷たくもない。


 ただ、“リーナを知っている瞳”だった。


「リーナ。ぼくは……きみがこの世界に来る前に、いちばん近くにいた人だよ。」


 リーナの呼吸が止まった。


「この世界に……来る前……?」


 影の鼓動が強く震えた。


「リーナ……その記憶は……きみが封印したんだ……自分で……」


 アークの声が低く響く。


「封印した理由は……きみが耐えられなかったからだ。」


 セイルは静かに言った。


「リーナ。きみはぼくを忘れた。でも……ぼくはきみを忘れなかった。」


 リーナの胸が強く脈打った。

視界が揺れる。


「どうして……そんな……私……あなたのこと……」


 セイルはリーナの手に触れた。

その温度は、影の温かさとも、アークの冷たさとも違う。


 “人間の温度”だった。


「リーナ。ぼくは、きみがこの世界に来る前に、いちばん大切にしていた人だ。」


 リーナは息を呑んだ。


「大切に……?」


 胸の奥の二つの鼓動が、同時に跳ねた。


 影の声が震える。


「リーナ……思い出さなくていい……その記憶は……きみを壊す……」


 アークの声が重なる。


「だが……思い出さなければ、きみはずっと半分のままだ。」


 セイルはリーナの手を握った。


「リーナ。ぼくは……きみが“この世界に来る前の記憶”そのものだ。」


 リーナの視界が揺れた。


「この世界に……来る前……私……そんな記憶……」


 セイルは静かに言った。


「きみは……“転移した”んじゃない。“逃げた”んだよ。」


 リーナの呼吸が止まった。


 影の鼓動が震え、アークの鼓動が沈む。


 セイルは続けた。


「きみは……ぼくを失った日、この世界へ逃げたんだ。」


 リーナは震えた。


「失った……?私が……?」


 セイルはリーナの手を強く握った。


「リーナ。ぼくは、きみがこの世界に来る前に、“死んだ”んだ。」


 リーナの視界が崩れた。


 胸の奥の二つの鼓動が、同時に悲鳴を上げた。


 影の声が叫ぶ。


「リーナ!!聞いちゃだめだ!!」


 アークの声も重なる。


「その記憶は……きみが封印した“最初の痛み”だ!!」


 セイルはリーナを抱き寄せた。


「リーナ……ぼくは……きみが守れなかった人だ。」


 リーナの膝が崩れた。


「やめて……そんなこと……言わないで……」


 セイルは静かに言った。


「リーナ。きみはぼくを失った日、世界から逃げた。そして……この世界に落ちたんだ。」


 胸の奥の二つの鼓動が、完全に乱れた。


 影の声が震える。


「リーナ……戻ってきて……きみは……ひとりじゃない……」


 アークの声が低く響く。


「影……黙れ。これは……きみが守り続けた“痛み”だ。」


 セイルはリーナの頬に触れた。


「リーナ。ぼくは……きみが最初に愛した人だよ。」


 リーナの視界が真っ白になった。


 胸の奥で、影とアークの鼓動が同時に叫んだ。


 そして、リーナの記憶が、ついに“始まり”へ触れた。

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