第149話 最初の痛みに触れた日
胸の奥で、影とアークの鼓動が乱れたまま暴れ続けていた。
その奥から、セイルの名前がゆっくりと浮かび上がってくる。
リーナは自分の体がどこにあるのか分からなかった。
立っているのか、倒れているのか、それすら曖昧になるほど、記憶の奥が揺れていた。
セイルはリーナの肩を支えた。
その手は、影のように柔らかくもなく、アークのように冷たくもない。
ただ、人間の温度だった。
「リーナ……大丈夫。ゆっくりでいいから。」
リーナは震える声で言った。
「……どうして……あなたの名前を聞いただけで……こんなに……苦しいの……?」
セイルはリーナの頬に触れた。
その指先は、懐かしいのに、触れられた記憶がどこにもない。
「きみは……ぼくを忘れたんじゃない。“忘れさせられた”んだよ。」
胸の奥で影の声が震えた。
「リーナ……戻ってきて……その記憶は……きみを傷つける……」
アークの声は低く響いた。
「影は守りたいだけだ。だが……事実は変わらない。セイルは……きみが最初に失った記憶だ。」
リーナは胸を押さえた。
痛みが強くなる。
影の温かさとアークの冷たさが、同時に胸の奥で暴れている。
「最初に……失った……?私が……?」
セイルはゆっくりとうなずいた。
「リーナ。きみはぼくを失った日、世界から逃げたんだ。」
リーナの呼吸が止まった。
「逃げた……?」
セイルはリーナの手を握った。
その温度は、影の温かさとも、アークの冷たさとも違う。
「きみは……ぼくが死んだ日、自分の世界にいられなくなった。そして……この世界に落ちたんだ。」
リーナは震えた。
「死んだ……?あなたが……?」
影の鼓動が強く震えた。
「リーナ……聞いちゃだめだ……その記憶は……きみが封印した“最初の痛み”だ……」
アークの声が重なる。
「だが……思い出さなければ、きみはずっと半分のままだ。」
セイルはリーナの目を見た。
「リーナ。ぼくは……きみがこの世界に来る前に、いちばん大切にしていた人だよ。」
リーナの視界が揺れた。
「大切に……?」
セイルは静かに言った。
「きみはぼくを守れなかった。だから……ぼくを忘れた。忘れないと……生きていけなかったから。」
リーナの膝が崩れた。
セイルが支える。
「やめて……そんなこと……言わないで……」
セイルはリーナを抱き寄せた。
「リーナ。ぼくは……きみが“最初に愛した人”だ。」
胸の奥の二つの鼓動が、同時に悲鳴を上げた。
影の声が震える。
「リーナ……戻ってきて……きみは……ひとりじゃない……」
アークの声が低く響く。
「影……黙れ。これは……きみが守り続けた“痛み”だ。」
リーナはセイルの胸に顔を埋めた。
涙が止まらない。
理由は分からない。
でも、この人を失った記憶が、自分の中に確かにあると分かる。
「……セイル……どうして……私……あなたを……」
セイルはリーナの背中を優しく撫でた。
「リーナ。きみはぼくを失った日、自分の世界を捨てた。そして……この世界に落ちたんだ。」
リーナは震えた声で言った。
「……私……あなたを……守れなかった……?」
セイルは静かにうなずいた。
「うん。でも……きみは悪くない。誰も悪くない。ただ……きみは耐えられなかったんだ。」
リーナは涙を拭った。
胸の奥の痛みが、少しだけ形を持ち始める。
「……セイル……あなたは……私の……“始まりの記憶”なの……?」
セイルは微笑んだ。
「そうだよ。影よりも前。アークよりも深い。きみの記憶の……いちばん最初にある人だ。」
リーナは胸に手を当てた。
影の温かさとアークの冷たさが、セイルの温度と混ざり合う。
「……私……あなたを……思い出したい……」
影の声が震える。
「リーナ……それは……きみを傷つける……」
アークの声が低く響く。
「だが……それが“本当のきみ”への道だ。」
セイルはリーナの手を握った。
「リーナ。ぼくは……きみが思い出してくれるなら……それだけでいい。」
リーナは涙を拭き、ゆっくりとセイルを見つめた。
胸の奥の三つの鼓動が、ゆっくりと重なり始めた。
「……セイル……あなたのこと……思い出すよ。」
セイルは微笑んだ。
「ありがとう、リーナ。」
その瞬間、空間が強く揺れた。
影とアークの気配が、胸の奥で同時に跳ねた。
リーナの記憶が、ついに“始まり”へ向かって動き始めた。
セイルの名前を胸の奥で受け止めた瞬間、リーナの周囲の空間がふっと沈んだ。
沈んだというより、“深く潜った”と言った方が近い。
足元が消えた。
空気が重くなった。
光が遠ざかった。
まるで、自分の記憶の底へ引きずり込まれていくようだった。
「リーナ!!」
影の声が遠くで響いた。
その声は震えていて、リーナを必死に引き戻そうとしている。
「戻ってきて!!きみはまだ……その記憶を受け止められない……!」
アークの声も重なる。
「影、無駄だ。これは……きみ自身が選んだ道だ。」
リーナは胸を押さえた。
痛みが形を持ち始めている。
影の温かさとアークの冷たさが、セイルの温度と混ざり合い、胸の奥で渦を巻いていた。
「……セイル……私……どうすれば……」
セイルはリーナの手を握ったまま、沈みゆく空間の中で静かに言った。
「リーナ。きみは“思い出す”と言った。その言葉が……きみの記憶を動かしたんだ。」
空間がさらに沈む。
影の声が遠ざかる。
アークの声も薄れていく。
リーナは不安に駆られた。
「影……?アーク……?どこ……?」
セイルは首を振った。
「大丈夫。二人はきみの中にいる。ただ……ここは“きみの最初の記憶”だから、二人は入れない。」
リーナは息を呑んだ。
「最初の……記憶……?」
沈み続ける空間の中で、セイルの声だけがはっきり聞こえる。
「リーナ。きみがこの世界に来る前の記憶。影もアークも生まれる前の記憶。きみが……“自分を閉じた瞬間”の記憶だ。」
胸の奥が強く脈打った。
「閉じた……瞬間……?」
セイルはリーナの手を握り直した。
「リーナ。きみはぼくを失った日、自分の心を閉じた。その瞬間、きみの記憶は三つに割れた。」
空間がさらに沈む。
光が完全に消えた。
リーナは震えた声で言った。
「……怖い……セイル……どこに行くの……?」
セイルは静かに答えた。
「きみの“始まり”だよ。」
その言葉と同時に、沈んでいた空間が突然、“底”に触れた。
衝撃はなかった。
ただ、世界が止まった。
リーナはゆっくり目を開けた。
そこは、何もない場所だった。
床も、壁も、空もない。
ただ、“白い静寂”だけが広がっていた。
「……ここ……どこ……?」
セイルはリーナの隣に立ち、静かに言った。
「リーナ。ここが……きみが“自分を閉じた場所”だ。」
リーナは息を呑んだ。
「閉じた……場所……?」
セイルはうなずいた。
「きみはぼくを失った日、泣くことも、叫ぶこともできなかった。ただ……心を閉じた。その瞬間、きみの記憶は三つに割れた。」
リーナは胸を押さえた。
痛みが強くなる。
「影は……私が守りたかった記憶……」
「アークは……私が封印した記憶……」
「じゃあ……あなたは……私が……“閉じた記憶”……?」
セイルは静かに微笑んだ。
「そうだよ。」
白い空間がふっと揺れた。
リーナの足元に、小さな黒い点が現れた。
点はゆっくりと広がり、“影のような形”を作り始める。
リーナは息を呑んだ。
「……これは……?」
セイルは静かに言った。
「リーナ。きみが閉じた記憶が……形になろうとしている。」
黒い影はゆっくりと伸び、人の形に近づいていく。
影でもない。
アークでもない。
セイルでもない。
リーナは震えた声で言った。
「……誰……?」
セイルは答えなかった。
ただ、リーナの手を握り続けた。
黒い影はゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、胸の奥の三つの鼓動が、同時に跳ねた。
影の声が遠くから響いた。
「リーナ!!戻ってきて!!それは……きみが閉じた“自分自身”だ!!」
アークの声も重なる。
「影……黙れ。これは……きみが向き合うべき“本当のきみ”だ。」
黒い影が、リーナの方へ一歩近づいた。
その顔はまだ見えない。
でも、胸の奥が強く脈打つ。
リーナは震えた。
「……これが……私……?」
セイルは静かに言った。
「リーナ。きみが閉じたのは……“記憶”じゃない。“自分自身”だったんだ。」
黒い影が、完全に人の形になった。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
その顔は、リーナ自身だった。
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