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『異世界に転移したら、俺だけ世界設定に存在しなかった』  作者: 一ノ瀬 律
六章

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第146話 名前が胸を裂いた瞬間

 アークの名が胸の奥に落ちた瞬間、リーナの呼吸がふっと止まった。

止まったというより、胸の内側で何かが“逆流”したような感覚だった。


 影がすぐにリーナの肩を抱き寄せた。


「リーナ、しっかり……!その名前は……きみの心を揺らす……!」


 リーナは震える声で言った。


「……アーク……どうして……その名前……聞いたことがある気がするのに……思い出せない……」


 影は苦しそうに目を伏せた。


「思い出さなくていい……思い出したら……きみは……」


 言いかけた影の声が、アークの低い声に遮られた。


「壊れる?違うよ。“戻る”んだ、リーナ。」


 影が睨みつける。


「黙れ……!」


 アークは一歩前へ出た。

その動きは静かで、なのに空気が重く沈む。


「リーナ。きみはぼくを忘れたんじゃない。“忘れさせられた”。それを理解しない限り……きみはずっと半分のままだ。」


 リーナは影の腕を掴んだ。


「半分……?」


 影は苦しそうに言った。


「リーナ……きみの記憶は……ぼくとアークで分裂してる……どちらかを選ばない限り……きみは……」


 アークが静かに続けた。


「どちらも選べないなら、きみは“二つの記憶を持つ者”として生きるしかない。」


 リーナは息を呑んだ。


「二つの……記憶……?」


 影はリーナの手を握った。


「リーナ……ぼくはきみの“本来の記憶”だ。きみが大切にしていたもの、きみが守ろうとしたもの……全部、ぼくの中にある。」


 アークは静かに言った。


「そしてぼくは……きみが封印した記憶だ。きみが見たくなかったもの、きみが耐えられなかったもの……全部、ぼくの中にある。」


 リーナは震えた。


「……どうして……そんなふうに分かれてるの……?」


 影は答えようとしたが、アークが先に口を開いた。


「きみが壊れたからだよ。」


 影が叫んだ。


「言うな!!」


 アークは続けた。


「きみはあの日……“全部”見た。そして耐えられなかった。だから記憶は二つに割れた。ぼくと影に。」


 リーナは胸を押さえた。


「全部……見た……?何を……?」


 影はリーナの肩を抱き寄せた。


「リーナ……思い出さなくていい……今はまだ……」


 アークは首を振った。


「思い出さなければ、きみはずっと半分のままだ。影もぼくも……きみの中で争い続ける。」


 影は苦しそうに言った。


「リーナ……ぼくはきみを守りたい……でも……アークはきみを“戻したい”。どちらも……きみを必要としている。」


 リーナは震える声で言った。


「……どうすれば……いいの……?」


 アークは静かに手を伸ばした。


「選ばなくていい。きみは二つの記憶を持ったまま進めばいい。それが……きみの“本当の姿”だ。」


 影はリーナの手を握り返した。


「リーナ……ぼくはきみがどんな選択をしても……そばにいる。たとえ……きみの記憶が二つのままでも。」


 リーナは二人を見た。

影の瞳は揺れていて、アークの瞳は静かで、どちらもリーナを見ていた。


 胸の欠片が強く脈打つ。


 リーナは震えた声で言った。


「……私……二つの記憶を……持ったまま……進む……」


 影は息を呑んだ。

アークはわずかに目を細めた。


 リーナは続けた。


「どちらも……私の記憶なんでしょう……?なら……どちらも……私が抱えていく。」


 影は涙のように光を揺らした。


「リーナ……」


 アークは静かに言った。


「ようやく……きみは“本当のきみ”に戻る。」


 リーナは胸を押さえた。

痛みと温かさが同時に走る。


 影とアーク。

二つの記憶。

二つの感情。

二つの自分。


 それらが胸の奥で、ゆっくりと重なり始めた。


 アークの名が胸の奥に沈んだまま、リーナはしばらく呼吸の仕方を忘れていた。

影が支えてくれなかったら、その場に崩れ落ちていたかもしれない。


 胸の奥で、影とアークの気配がぶつかり合う。

どちらも自分のものなのに、どちらも自分じゃないような奇妙な感覚。


 リーナはゆっくり息を吸った。


「……二つの記憶を持って進むって……そんなこと、本当にできるの……?」


 影はリーナの手を握り返した。

その手は温かくて、人間の体温そのものだった。


「できるよ。きみが選んだなら……ぼくはそれを支える。」


 アークは静かに言った。


「支える?違うだろう。きみは“半分の記憶”だ。リーナを支えるには……足りない。」


 影は睨みつけた。


「足りないなら……きみが補えばいいだろ。」


 アークはわずかに目を細めた。


「補う?ぼくは“封印された記憶”だ。きみのように優しく触れられない。」


 リーナは二人を見た。

影は揺れていて、アークは揺れない。

その違いが、胸の奥で痛みになった。


「……二人とも……私の記憶なんだよね……?」


 影はうなずいた。

アークは沈黙で肯定した。


 リーナは続けた。


「だったら……どちらも私の中にいていい。どちらも……私の一部なんだから。」


 影の瞳が揺れた。

アークの瞳がわずかに動いた。


 リーナは胸に手を当てた。


「怖いよ。二つの記憶を抱えて進むなんて……どうなるか分からない。でも……どちらかを捨てる方がもっと怖い。」


 影は静かに言った。


「リーナ……きみは強い。」


 アークは低く言った。


「強いんじゃない。“戻り始めている”。」


 リーナは息を呑んだ。


「戻る……?」


 アークはゆっくりと近づいた。

影が警戒してリーナの前に立つ。


「戻るというのは……きみが“本来の自分”に近づくということだ。」


 影はリーナを守るように言った。


「本来の自分なんて……きみは知らなくていい。」


 アークは首を振った。


「知らなければ、きみはずっと半分のままだ。」


 リーナは影の肩に手を置いた。


「影……私は……知りたい。」


 影は苦しそうに目を伏せた。


「リーナ……それは……痛い記憶だよ。」


 アークは静かに言った。


「痛い記憶でも……きみのものだ。」


 リーナは胸の奥の脈を感じた。

影の温かさと、アークの冷たさが、同時に自分の中で響いている。


「……二人とも……私の中にいて。私が進むために……必要なんだと思う。」


 影はゆっくりうなずいた。

アークはわずかに目を閉じた。


 リーナは続けた。


「影……あなたは私の“守りたい記憶”。アーク……あなたは私の“見たくなかった記憶”。どちらも……私が生きてきた証なんだよ。」


 影は涙のように光を揺らした。


「リーナ……きみは……ほんとうに……」


 アークは静かに言った。


「ようやく……きみは“二つの自分”を認めた。」


 リーナは胸を押さえた。

痛みと温かさが混ざり合い、胸の奥で何かがゆっくり動き始める。


 影が言った。


「リーナ……きみの記憶が……動いてる……」


 アークが続けた。


「分裂したまま進むと決めたからだ。きみの記憶は……新しい形を作り始めている。」


 リーナは息を呑んだ。


「新しい……形……?」


 影はリーナの手を握った。


「リーナ……きみの記憶は……“二つのまま一つになる”んだ。」


 アークは静かに言った。


「それが……きみの本当の姿だ。」


 リーナの胸の欠片が強く脈打った。

視界が揺れ、部屋の空気が震えた。


 影とアークが同時に言った。


「リーナ……始まるよ。」


 胸の奥で、二つの記憶が重なり始めた。

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