第146話 名前が胸を裂いた瞬間
アークの名が胸の奥に落ちた瞬間、リーナの呼吸がふっと止まった。
止まったというより、胸の内側で何かが“逆流”したような感覚だった。
影がすぐにリーナの肩を抱き寄せた。
「リーナ、しっかり……!その名前は……きみの心を揺らす……!」
リーナは震える声で言った。
「……アーク……どうして……その名前……聞いたことがある気がするのに……思い出せない……」
影は苦しそうに目を伏せた。
「思い出さなくていい……思い出したら……きみは……」
言いかけた影の声が、アークの低い声に遮られた。
「壊れる?違うよ。“戻る”んだ、リーナ。」
影が睨みつける。
「黙れ……!」
アークは一歩前へ出た。
その動きは静かで、なのに空気が重く沈む。
「リーナ。きみはぼくを忘れたんじゃない。“忘れさせられた”。それを理解しない限り……きみはずっと半分のままだ。」
リーナは影の腕を掴んだ。
「半分……?」
影は苦しそうに言った。
「リーナ……きみの記憶は……ぼくとアークで分裂してる……どちらかを選ばない限り……きみは……」
アークが静かに続けた。
「どちらも選べないなら、きみは“二つの記憶を持つ者”として生きるしかない。」
リーナは息を呑んだ。
「二つの……記憶……?」
影はリーナの手を握った。
「リーナ……ぼくはきみの“本来の記憶”だ。きみが大切にしていたもの、きみが守ろうとしたもの……全部、ぼくの中にある。」
アークは静かに言った。
「そしてぼくは……きみが封印した記憶だ。きみが見たくなかったもの、きみが耐えられなかったもの……全部、ぼくの中にある。」
リーナは震えた。
「……どうして……そんなふうに分かれてるの……?」
影は答えようとしたが、アークが先に口を開いた。
「きみが壊れたからだよ。」
影が叫んだ。
「言うな!!」
アークは続けた。
「きみはあの日……“全部”見た。そして耐えられなかった。だから記憶は二つに割れた。ぼくと影に。」
リーナは胸を押さえた。
「全部……見た……?何を……?」
影はリーナの肩を抱き寄せた。
「リーナ……思い出さなくていい……今はまだ……」
アークは首を振った。
「思い出さなければ、きみはずっと半分のままだ。影もぼくも……きみの中で争い続ける。」
影は苦しそうに言った。
「リーナ……ぼくはきみを守りたい……でも……アークはきみを“戻したい”。どちらも……きみを必要としている。」
リーナは震える声で言った。
「……どうすれば……いいの……?」
アークは静かに手を伸ばした。
「選ばなくていい。きみは二つの記憶を持ったまま進めばいい。それが……きみの“本当の姿”だ。」
影はリーナの手を握り返した。
「リーナ……ぼくはきみがどんな選択をしても……そばにいる。たとえ……きみの記憶が二つのままでも。」
リーナは二人を見た。
影の瞳は揺れていて、アークの瞳は静かで、どちらもリーナを見ていた。
胸の欠片が強く脈打つ。
リーナは震えた声で言った。
「……私……二つの記憶を……持ったまま……進む……」
影は息を呑んだ。
アークはわずかに目を細めた。
リーナは続けた。
「どちらも……私の記憶なんでしょう……?なら……どちらも……私が抱えていく。」
影は涙のように光を揺らした。
「リーナ……」
アークは静かに言った。
「ようやく……きみは“本当のきみ”に戻る。」
リーナは胸を押さえた。
痛みと温かさが同時に走る。
影とアーク。
二つの記憶。
二つの感情。
二つの自分。
それらが胸の奥で、ゆっくりと重なり始めた。
アークの名が胸の奥に沈んだまま、リーナはしばらく呼吸の仕方を忘れていた。
影が支えてくれなかったら、その場に崩れ落ちていたかもしれない。
胸の奥で、影とアークの気配がぶつかり合う。
どちらも自分のものなのに、どちらも自分じゃないような奇妙な感覚。
リーナはゆっくり息を吸った。
「……二つの記憶を持って進むって……そんなこと、本当にできるの……?」
影はリーナの手を握り返した。
その手は温かくて、人間の体温そのものだった。
「できるよ。きみが選んだなら……ぼくはそれを支える。」
アークは静かに言った。
「支える?違うだろう。きみは“半分の記憶”だ。リーナを支えるには……足りない。」
影は睨みつけた。
「足りないなら……きみが補えばいいだろ。」
アークはわずかに目を細めた。
「補う?ぼくは“封印された記憶”だ。きみのように優しく触れられない。」
リーナは二人を見た。
影は揺れていて、アークは揺れない。
その違いが、胸の奥で痛みになった。
「……二人とも……私の記憶なんだよね……?」
影はうなずいた。
アークは沈黙で肯定した。
リーナは続けた。
「だったら……どちらも私の中にいていい。どちらも……私の一部なんだから。」
影の瞳が揺れた。
アークの瞳がわずかに動いた。
リーナは胸に手を当てた。
「怖いよ。二つの記憶を抱えて進むなんて……どうなるか分からない。でも……どちらかを捨てる方がもっと怖い。」
影は静かに言った。
「リーナ……きみは強い。」
アークは低く言った。
「強いんじゃない。“戻り始めている”。」
リーナは息を呑んだ。
「戻る……?」
アークはゆっくりと近づいた。
影が警戒してリーナの前に立つ。
「戻るというのは……きみが“本来の自分”に近づくということだ。」
影はリーナを守るように言った。
「本来の自分なんて……きみは知らなくていい。」
アークは首を振った。
「知らなければ、きみはずっと半分のままだ。」
リーナは影の肩に手を置いた。
「影……私は……知りたい。」
影は苦しそうに目を伏せた。
「リーナ……それは……痛い記憶だよ。」
アークは静かに言った。
「痛い記憶でも……きみのものだ。」
リーナは胸の奥の脈を感じた。
影の温かさと、アークの冷たさが、同時に自分の中で響いている。
「……二人とも……私の中にいて。私が進むために……必要なんだと思う。」
影はゆっくりうなずいた。
アークはわずかに目を閉じた。
リーナは続けた。
「影……あなたは私の“守りたい記憶”。アーク……あなたは私の“見たくなかった記憶”。どちらも……私が生きてきた証なんだよ。」
影は涙のように光を揺らした。
「リーナ……きみは……ほんとうに……」
アークは静かに言った。
「ようやく……きみは“二つの自分”を認めた。」
リーナは胸を押さえた。
痛みと温かさが混ざり合い、胸の奥で何かがゆっくり動き始める。
影が言った。
「リーナ……きみの記憶が……動いてる……」
アークが続けた。
「分裂したまま進むと決めたからだ。きみの記憶は……新しい形を作り始めている。」
リーナは息を呑んだ。
「新しい……形……?」
影はリーナの手を握った。
「リーナ……きみの記憶は……“二つのまま一つになる”んだ。」
アークは静かに言った。
「それが……きみの本当の姿だ。」
リーナの胸の欠片が強く脈打った。
視界が揺れ、部屋の空気が震えた。
影とアークが同時に言った。
「リーナ……始まるよ。」
胸の奥で、二つの記憶が重なり始めた。
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