第145話 奥に立つ影の名
壁が裂けた瞬間、部屋の空気がまるで“逃げ場を探すように”四方へ散った。
影の周囲に集まっていた光の粒も、リーナの胸の欠片に寄り添っていた温度も、すべてが一度に引き剥がされる。
リーナは息を呑んだ。
「……誰……?」
裂けた壁の奥に立つ“もうひとり”は、影とは違い、輪郭がまったく揺れていなかった。
光でも影でもなく、ただ“存在そのもの”としてそこに立っていた。
その姿は人の形をしているのに、表情が見えない。
顔の位置があるのに、そこに“何もない”。
影がリーナの肩を強く抱き寄せた。
「……リーナ……見ちゃだめだ……!」
リーナは震える声で言った。
「見ちゃだめって……でも……あの人……誰なの……?」
影は苦しそうに首を振った。
「……きみが……いちばん……忘れたかった人……」
その言葉が、リーナの胸の欠片に鋭く突き刺さった。
欠片が熱く脈打ち、リーナの視界が揺れる。
「忘れたかった……?そんな記憶……私……」
影は叫ぶように言った。
「違う!!きみは忘れたかったんじゃない……“忘れさせられた”んだ……!」
リーナは息を呑んだ。
「忘れさせられた……?」
壁の奥の人物が、ゆっくりと一歩前へ出た。
その足音はない。
けれど、空気がその一歩に合わせて沈んだ。
影が震える声で言った。
「……来る……リーナ……後ろへ……!」
リーナは影の腕を掴んだ。
「待って……あの人……私のこと……知ってる……そんな気がする……」
影は首を振った。
「知ってるんじゃない……“持ってる”んだ……きみの記憶を……」
リーナの胸が強く脈打った。
「持ってる……?」
影は苦しそうに言った。
「……きみの記憶の奥で……ずっと……きみを閉じ込めてた……ぼくじゃない……あの人が……」
リーナは震えた。
「閉じ込めてた……?どうして……?」
影は答えられなかった。
ただ、リーナを抱き寄せる腕が強くなる。
壁の奥の人物が、もう一歩前へ出た。
その瞬間、部屋の床が“沈むように”低くなった。
リーナは思わず影にしがみついた。
「なに……これ……!」
影は低い声で言った。
「……この部屋は……きみの記憶の“表層”だ……でも……あの人は……もっと深いところから来てる……」
リーナは震える声で言った。
「深いところ……?」
影はうなずいた。
「……きみが……本当に思い出したくなかった場所……その奥に……あの人がいる……」
壁の奥の人物が、初めて“声らしきもの”を発した。
声ではない。
ただ、空気がその人物の周囲で震え、その震えが言葉の形を作った。
「……リーナ……」
リーナは息を呑んだ。
「……呼んだ……?」
影は叫んだ。
「聞いちゃだめだ!!その声は……きみの記憶を引きずり戻す……!」
リーナは胸を押さえた。
「でも……あの声……知ってる……聞いたことがある……」
影は震える声で言った。
「……そうだよ……きみは……あの人を知ってる……でも……思い出しちゃだめだ……思い出したら……戻れなくなる……!」
壁の奥の人物が、さらに近づいた。
その顔の位置に、ゆっくりと“表情らしきもの”が浮かび始めた。
影はリーナの耳元で囁いた。
「……リーナ……あれは……きみが忘れた“理由そのもの”だ……」
リーナは震えた声で言った。
「理由……?」
影は言った。
「……きみが……記憶を閉じた日……その日、最後に見たのが……あの人だ……」
壁の奥の人物が、完全に姿を現した。
その顔は、リーナが絶対に忘れたかった誰かの顔だった。
壁の奥から現れた人物は、影とはまったく違う“静けさ”をまとっていた。
静けさなのに、その場の空気を支配してしまうような圧があった。
リーナは息を呑んだ。
「……誰……?」
その人物は、顔の位置に“表情らしきもの”を浮かべていた。
けれど、それは人の表情ではなかった。
感情の形を真似ているだけの、“記憶の残像”のような歪んだ笑みだった。
影がリーナを抱き寄せたまま、その人物を睨みつけた。
「……来るな……!」
人物は一歩、前へ出た。
その足音はない。
ただ、空気が沈む。
リーナは震える声で言った。
「あなた……誰なの……?どうして……私の名前を……」
人物はゆっくりと口を開いた。
「……リーナ……」
その声は、影の声とは違った。
影の声は震えていて、リーナを探すような響きがあった。
だが、この人物の声は、“確信”の響きだった。
リーナは胸を押さえた。
「……知ってる……この声……どこかで……」
影が叫んだ。
「思い出すな!!その声は……きみの記憶を縛る声だ!!」
人物は影を見た。
その視線は、影を“存在として認めていない”ような冷たさだった。
「……まだ……いたのか……」
影は歯を食いしばった。
「おまえが……リーナを閉じ込めたんだ……記憶の奥に……!」
人物はゆっくりと首を傾けた。
その動きは人間のものではなかった。
まるで、感情という概念を模倣しているだけのようなぎこちなさ。
「閉じ込めた……?違うよ……“守った”んだ」
リーナは息を呑んだ。
「守った……?」
人物はリーナへ視線を向けた。
その視線は、影のような揺れが一切ない。
ただ、まっすぐにリーナを見ていた。
「リーナ……きみは……思い出してはいけなかった」
影が叫んだ。
「嘘だ!!おまえが……リーナの記憶を奪ったんだ!!」
人物は影へ一歩近づいた。
「奪った?違う……“きみが壊れないようにした”だけだ」
リーナは震えた。
「壊れないように……?」
人物はリーナへ手を伸ばした。
その手は影の手とは違い、温度がなかった。
ただ、形だけが人の手をしている。
「リーナ……きみは……あの日……すべてを見たんだよ」
影がリーナを抱き寄せた。
「聞くな!!あの日のことは……思い出しちゃだめだ!!」
人物は影を見た。
「まだ……守るつもりか……?きみは……リーナの記憶の“手前”にいるだけの存在だろう」
影は震える声で言った。
「手前でも……奥でも……リーナを守るのは……ぼくだ……!」
人物は影へ近づいた。
その距離は、もう数歩しかなかった。
「守る?きみは……リーナが忘れた“結果”にすぎない。ぼくは……リーナが忘れた“原因”だ」
リーナは息を呑んだ。
「原因……?」
人物はリーナへ視線を向けた。
「リーナ……きみが忘れたのは……ぼくの名前だ」
影が叫んだ。
「言うな!!その名前は……リーナを壊す!!」
人物は影を見た。
「壊す?違うよ……“戻す”んだ」
リーナは震えた声で言った。
「戻す……?」
人物はゆっくりと手を伸ばした。
その手は、影の手とは違い、触れたら“記憶そのものを引きずり出す”ような冷たさを持っていた。
「リーナ……きみは……ぼくを忘れた。でも……ぼくは……きみを忘れなかった」
影が叫んだ。
「触るな!!」
人物は影を無視して、リーナへ手を伸ばした。
「リーナ……ぼくの名前を……返して」
リーナの胸の欠片が激しく脈打った。
視界が白く滲む。
影がリーナを抱き寄せた。
「だめだ!!その名前を思い出したら……きみは……戻れなくなる!!」
人物は影へ手を伸ばした。
「邪魔だよ……“手前の影”」
影は叫んだ。
「リーナ!!目を閉じて!!聞いちゃだめだ!!」
人物はリーナへ向けて、はっきりとした声で言った。
「リーナ……ぼくの名前は——」
部屋の空気が裂けた。
影が叫んだ。
「やめろ!!」
人物の声が、リーナの胸の奥へ直接届いた。
「——“アーク”だ」
リーナの視界が真っ白になった。
面白いと思ったら、ページ下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援お願いします!




