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『異世界に転移したら、俺だけ世界設定に存在しなかった』  作者: 一ノ瀬 律
六章

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第145話 奥に立つ影の名

 壁が裂けた瞬間、部屋の空気がまるで“逃げ場を探すように”四方へ散った。

影の周囲に集まっていた光の粒も、リーナの胸の欠片に寄り添っていた温度も、すべてが一度に引き剥がされる。


 リーナは息を呑んだ。


「……誰……?」


 裂けた壁の奥に立つ“もうひとり”は、影とは違い、輪郭がまったく揺れていなかった。

光でも影でもなく、ただ“存在そのもの”としてそこに立っていた。


 その姿は人の形をしているのに、表情が見えない。

顔の位置があるのに、そこに“何もない”。


 影がリーナの肩を強く抱き寄せた。


「……リーナ……見ちゃだめだ……!」


 リーナは震える声で言った。


「見ちゃだめって……でも……あの人……誰なの……?」


 影は苦しそうに首を振った。


「……きみが……いちばん……忘れたかった人……」


 その言葉が、リーナの胸の欠片に鋭く突き刺さった。


 欠片が熱く脈打ち、リーナの視界が揺れる。


「忘れたかった……?そんな記憶……私……」


 影は叫ぶように言った。


「違う!!きみは忘れたかったんじゃない……“忘れさせられた”んだ……!」


 リーナは息を呑んだ。


「忘れさせられた……?」


 壁の奥の人物が、ゆっくりと一歩前へ出た。


 その足音はない。

けれど、空気がその一歩に合わせて沈んだ。


 影が震える声で言った。


「……来る……リーナ……後ろへ……!」


 リーナは影の腕を掴んだ。


「待って……あの人……私のこと……知ってる……そんな気がする……」


 影は首を振った。


「知ってるんじゃない……“持ってる”んだ……きみの記憶を……」


 リーナの胸が強く脈打った。


「持ってる……?」


 影は苦しそうに言った。


「……きみの記憶の奥で……ずっと……きみを閉じ込めてた……ぼくじゃない……あの人が……」


 リーナは震えた。


「閉じ込めてた……?どうして……?」


 影は答えられなかった。

ただ、リーナを抱き寄せる腕が強くなる。


 壁の奥の人物が、もう一歩前へ出た。


 その瞬間、部屋の床が“沈むように”低くなった。


 リーナは思わず影にしがみついた。


「なに……これ……!」


 影は低い声で言った。


「……この部屋は……きみの記憶の“表層”だ……でも……あの人は……もっと深いところから来てる……」


 リーナは震える声で言った。


「深いところ……?」


 影はうなずいた。


「……きみが……本当に思い出したくなかった場所……その奥に……あの人がいる……」


 壁の奥の人物が、初めて“声らしきもの”を発した。


 声ではない。

ただ、空気がその人物の周囲で震え、その震えが言葉の形を作った。


「……リーナ……」


 リーナは息を呑んだ。


「……呼んだ……?」


 影は叫んだ。


「聞いちゃだめだ!!その声は……きみの記憶を引きずり戻す……!」


 リーナは胸を押さえた。


「でも……あの声……知ってる……聞いたことがある……」


 影は震える声で言った。


「……そうだよ……きみは……あの人を知ってる……でも……思い出しちゃだめだ……思い出したら……戻れなくなる……!」


 壁の奥の人物が、さらに近づいた。


 その顔の位置に、ゆっくりと“表情らしきもの”が浮かび始めた。


 影はリーナの耳元で囁いた。


「……リーナ……あれは……きみが忘れた“理由そのもの”だ……」


 リーナは震えた声で言った。


「理由……?」


 影は言った。


「……きみが……記憶を閉じた日……その日、最後に見たのが……あの人だ……」


 壁の奥の人物が、完全に姿を現した。


 その顔は、リーナが絶対に忘れたかった誰かの顔だった。


 壁の奥から現れた人物は、影とはまったく違う“静けさ”をまとっていた。


 静けさなのに、その場の空気を支配してしまうような圧があった。


 リーナは息を呑んだ。


「……誰……?」


 その人物は、顔の位置に“表情らしきもの”を浮かべていた。

けれど、それは人の表情ではなかった。

感情の形を真似ているだけの、“記憶の残像”のような歪んだ笑みだった。


 影がリーナを抱き寄せたまま、その人物を睨みつけた。


「……来るな……!」


 人物は一歩、前へ出た。

その足音はない。

ただ、空気が沈む。


 リーナは震える声で言った。


「あなた……誰なの……?どうして……私の名前を……」


 人物はゆっくりと口を開いた。


「……リーナ……」


 その声は、影の声とは違った。

影の声は震えていて、リーナを探すような響きがあった。


 だが、この人物の声は、“確信”の響きだった。


 リーナは胸を押さえた。


「……知ってる……この声……どこかで……」


 影が叫んだ。


「思い出すな!!その声は……きみの記憶を縛る声だ!!」


 人物は影を見た。

その視線は、影を“存在として認めていない”ような冷たさだった。


「……まだ……いたのか……」


 影は歯を食いしばった。


「おまえが……リーナを閉じ込めたんだ……記憶の奥に……!」


 人物はゆっくりと首を傾けた。

その動きは人間のものではなかった。

まるで、感情という概念を模倣しているだけのようなぎこちなさ。


「閉じ込めた……?違うよ……“守った”んだ」


 リーナは息を呑んだ。


「守った……?」


 人物はリーナへ視線を向けた。

その視線は、影のような揺れが一切ない。

ただ、まっすぐにリーナを見ていた。


「リーナ……きみは……思い出してはいけなかった」


 影が叫んだ。


「嘘だ!!おまえが……リーナの記憶を奪ったんだ!!」


 人物は影へ一歩近づいた。


「奪った?違う……“きみが壊れないようにした”だけだ」


 リーナは震えた。


「壊れないように……?」


 人物はリーナへ手を伸ばした。

その手は影の手とは違い、温度がなかった。

ただ、形だけが人の手をしている。


「リーナ……きみは……あの日……すべてを見たんだよ」


 影がリーナを抱き寄せた。


「聞くな!!あの日のことは……思い出しちゃだめだ!!」


 人物は影を見た。


「まだ……守るつもりか……?きみは……リーナの記憶の“手前”にいるだけの存在だろう」


 影は震える声で言った。


「手前でも……奥でも……リーナを守るのは……ぼくだ……!」


 人物は影へ近づいた。

その距離は、もう数歩しかなかった。


「守る?きみは……リーナが忘れた“結果”にすぎない。ぼくは……リーナが忘れた“原因”だ」


 リーナは息を呑んだ。


「原因……?」


 人物はリーナへ視線を向けた。


「リーナ……きみが忘れたのは……ぼくの名前だ」


 影が叫んだ。


「言うな!!その名前は……リーナを壊す!!」


 人物は影を見た。


「壊す?違うよ……“戻す”んだ」


 リーナは震えた声で言った。


「戻す……?」


 人物はゆっくりと手を伸ばした。

その手は、影の手とは違い、触れたら“記憶そのものを引きずり出す”ような冷たさを持っていた。


「リーナ……きみは……ぼくを忘れた。でも……ぼくは……きみを忘れなかった」


 影が叫んだ。


「触るな!!」


 人物は影を無視して、リーナへ手を伸ばした。


「リーナ……ぼくの名前を……返して」


 リーナの胸の欠片が激しく脈打った。

視界が白く滲む。


 影がリーナを抱き寄せた。


「だめだ!!その名前を思い出したら……きみは……戻れなくなる!!」


 人物は影へ手を伸ばした。


「邪魔だよ……“手前の影”」


 影は叫んだ。


「リーナ!!目を閉じて!!聞いちゃだめだ!!」


 人物はリーナへ向けて、はっきりとした声で言った。


「リーナ……ぼくの名前は——」


 部屋の空気が裂けた。


 影が叫んだ。


「やめろ!!」


 人物の声が、リーナの胸の奥へ直接届いた。


「——“アーク”だ」


 リーナの視界が真っ白になった。

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