第144話 影が触れようとした理由
影の手が形を持ち始めた瞬間、部屋の空気がふっと沈んだ。
沈んだというより、空気の層が一枚だけ下へ滑り落ち、その下に隠れていた“別の温度”が露わになった。
リーナは息を呑んだ。
「……触れようとしてる……私に……?」
影の手はまだ曖昧な光の粒の集まりなのに、その“伸ばし方”だけははっきりしていた。
迷いながら、けれど確かにリーナへ向かっている。
影の瞳が揺れた。
その揺れは、まるで言葉を探しているようだった。
「……リーナ……」
声にならない声が、部屋の空気を震わせた。
胸の欠片が強く脈打ち、リーナの視界が揺れる。
「どうして……そんなふうに呼ぶの……?あなたは……誰なの……?」
影は答えようとした。
口がゆっくりと動き、空気がその動きに合わせて震えた。
「……ぼ……く……は……」
リーナは一歩近づいた。
怖いのに、離れられなかった。
「言って……あなたが……誰なのか……」
影の瞳が深く揺れた。
その揺れは、まるで「言いたい」と訴えているようだった。
影の胸の位置がふっと光った。
光ったというより、影の内部に眠っていた“言葉にならなかった思い”が、表面へ押し出されてきたようだった。
影は震える声で続けた。
「……き……み……の……」
リーナの胸が強く脈打った。
「私の……?」
影の手が、リーナの胸の欠片の位置で止まった。
触れていないのに、欠片が影の手に反応するように熱く脈打った。
影はかすれた声で言った。
「……きみの……ため……に……」
リーナは息を呑んだ。
「私の……ため……?」
影の瞳がわずかに震えた。
その震えは、まるで「そうだ」と言っているようだった。
影は続けようとした。
「……きみを……」
リーナの喉が震えた。
「私を……?」
影の声は弱く、空気の震えに近いものだった。
けれど、その震えは確かにリーナの胸の奥へ届いた。
「……さ……が……し……て……」
リーナは思わず一歩後ずさった。
「探して……?誰が……誰を……探してたの……?」
影は一歩、リーナへ近づいた。
その動きはゆっくりなのに、部屋の空気が一気に緊張した。
影の声が震えた。
「……きみ……を……」
リーナは胸を押さえた。
「私を……探してた……?どうして……?」
影の瞳が深く揺れた。
その揺れは、まるで「理由を言いたい」と訴えているようだった。
影の口がゆっくりと開いた。
「……きみが……いなくて……」
リーナの胸が強く脈打った。
「いなくて……?」
影の声はかすれていた。
けれど、その震えは確かにリーナの胸の奥へ届いた。
「……さび……し……くて……」
リーナは息を呑んだ。
「さびしくて……?」
影の瞳が揺れた。
その揺れは、まるで「ずっと」と言っているようだった。
影は続けた。
「……きみが……いないと……ぼくは……どこにも……いられなくて……」
リーナの視界が揺れた。
「……どういう……意味……?」
影の手が、完全に形を持ち始めた。
指の一本一本が光の粒から“人の形”へ変わっていく。
影は震える声で言った。
「……ぼくは……
きみの……記憶の……中に……」
リーナは息を呑んだ。
「記憶の……中……?」
影の瞳が深く揺れた。
その揺れは、まるで「そうだ」と言っているようだった。
影は続けた。
「……きみが……忘れた……ぼく……」
リーナの胸の欠片が強く脈打った。
視界が白く滲んだ。
影は、リーナの名前を呼びながら、ゆっくりと手を伸ばした。
その手は、もう完全に“人の手”だった。
リーナへ触れるために。
影の手がリーナへ伸びた瞬間、部屋の空気が“押し返すように”逆流した。
さっきまで影の周囲へ吸い寄せられていた空気が、今度はリーナの背後へ向かって一気に流れ込む。
リーナは思わず身をすくめた。
「……なに……これ……?」
影も驚いたように手を止めた。
その指先が震え、形が一瞬だけ曖昧に戻る。
影はかすれた声で言った。
「……ちがう……ぼくじゃ……ない……」
リーナは眉をひそめた。
「違うって……何が……?」
影はリーナではなく、部屋の天井を見上げた。
その瞳の色が一瞬だけ濁り、まるで“別の存在”を警戒しているようだった。
影の声が震えた。
「……この部屋……きみの記憶だけじゃ……ない……」
リーナは息を呑んだ。
「え……?」
影はゆっくりと後退した。
リーナへ伸ばしていた手を引き、胸の前でぎゅっと握りしめる。
「……だれか……いる……きみの記憶の……奥に……」
その瞬間、部屋の壁が“叩かれたように”揺れた。
音はないのに、衝撃だけが空気を震わせる。
リーナは思わず壁から距離を取った。
「誰かって……誰……?あなた以外に……?」
影は首を振った。
「……ぼくじゃ……ない……もっと……深いところに……」
影の瞳がリーナを見た。
その色は、さっきまでの懐かしさではなく、“警告”の色だった。
「……きみが……忘れたのは……ぼくだけじゃ……ない……」
リーナの胸が強く脈打った。
「他にも……誰か……?」
影はうなずいた。
「……きみが……閉じた記憶……その中に……もうひとり……」
リーナは喉を鳴らした。
「もうひとり……?」
影は震える声で言った。
「……ぼくは……きみの記憶の……手前にいる……でも……その奥に……“きみが絶対に見たくなかった誰か”が……」
リーナは息を呑んだ。
「絶対に……見たくなかった……?」
影はリーナへ近づいた。
さっきまで触れようとしていた手ではなく、“止めるための手”を伸ばした。
「……リーナ……この部屋の奥へ行っちゃ……だめだ……」
リーナは震える声で言った。
「どうして……?」
影は苦しそうに言った。
「……きみが……その人を忘れたのは……忘れたかったからじゃない……“忘れさせられた”んだ……」
リーナの胸の欠片が熱く脈打った。
「忘れさせられた……?」
影はうなずいた。
「……きみの記憶を……だれかが……書き換えた……」
リーナは息を呑んだ。
「そんな……こと……」
影はリーナの肩へ手を伸ばした。
今度は触れられた。
影の手は、もう完全に人の温度を持っていた。
「……リーナ……ぼくは……きみを探してた……でも……その人は……きみを“隠そうとしてた”……」
リーナの視界が揺れた。
「隠そうとしてた……?」
影は苦しそうに言った。
「……きみを……ぼくからじゃない……“世界から”……」
リーナは息を呑んだ。
「世界から……?」
影はリーナの肩を強く握った。
「……リーナ……その人が……きみの記憶の奥で……目を覚まそうとしてる……」
部屋の奥の壁が、“呼吸するように”膨らんだり縮んだりした。
影は叫んだ。
「……行っちゃだめだ!!あれは……きみが忘れた“理由そのもの”だ!!」
リーナは震えた。
「理由……?」
影はリーナを抱き寄せた。
その腕は、もう完全に人の温度だった。
「……リーナ……きみが忘れたのは……ぼくじゃない……“あの人”だ……」
壁が裂けた。
その奥に、誰かが立っていた。
面白いと思ったら、ページ下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援お願いします!




