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『異世界に転移したら、俺だけ世界設定に存在しなかった』  作者: 一ノ瀬 律
六章

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第144話 影が触れようとした理由

 影の手が形を持ち始めた瞬間、部屋の空気がふっと沈んだ。

沈んだというより、空気の層が一枚だけ下へ滑り落ち、その下に隠れていた“別の温度”が露わになった。


 リーナは息を呑んだ。


「……触れようとしてる……私に……?」


 影の手はまだ曖昧な光の粒の集まりなのに、その“伸ばし方”だけははっきりしていた。

迷いながら、けれど確かにリーナへ向かっている。


 影の瞳が揺れた。

その揺れは、まるで言葉を探しているようだった。


「……リーナ……」


 声にならない声が、部屋の空気を震わせた。

胸の欠片が強く脈打ち、リーナの視界が揺れる。


「どうして……そんなふうに呼ぶの……?あなたは……誰なの……?」


 影は答えようとした。

口がゆっくりと動き、空気がその動きに合わせて震えた。


「……ぼ……く……は……」


 リーナは一歩近づいた。

怖いのに、離れられなかった。


「言って……あなたが……誰なのか……」


 影の瞳が深く揺れた。

その揺れは、まるで「言いたい」と訴えているようだった。


 影の胸の位置がふっと光った。

光ったというより、影の内部に眠っていた“言葉にならなかった思い”が、表面へ押し出されてきたようだった。


 影は震える声で続けた。


「……き……み……の……」


 リーナの胸が強く脈打った。


「私の……?」


 影の手が、リーナの胸の欠片の位置で止まった。

触れていないのに、欠片が影の手に反応するように熱く脈打った。


 影はかすれた声で言った。


「……きみの……ため……に……」


 リーナは息を呑んだ。


「私の……ため……?」


 影の瞳がわずかに震えた。

その震えは、まるで「そうだ」と言っているようだった。


 影は続けようとした。


「……きみを……」


 リーナの喉が震えた。


「私を……?」


 影の声は弱く、空気の震えに近いものだった。

けれど、その震えは確かにリーナの胸の奥へ届いた。


「……さ……が……し……て……」


 リーナは思わず一歩後ずさった。


「探して……?誰が……誰を……探してたの……?」


 影は一歩、リーナへ近づいた。

その動きはゆっくりなのに、部屋の空気が一気に緊張した。


 影の声が震えた。


「……きみ……を……」


 リーナは胸を押さえた。


「私を……探してた……?どうして……?」


 影の瞳が深く揺れた。

その揺れは、まるで「理由を言いたい」と訴えているようだった。


 影の口がゆっくりと開いた。


「……きみが……いなくて……」


 リーナの胸が強く脈打った。


「いなくて……?」


 影の声はかすれていた。

けれど、その震えは確かにリーナの胸の奥へ届いた。


「……さび……し……くて……」


 リーナは息を呑んだ。


「さびしくて……?」


 影の瞳が揺れた。

その揺れは、まるで「ずっと」と言っているようだった。


 影は続けた。


「……きみが……いないと……ぼくは……どこにも……いられなくて……」


 リーナの視界が揺れた。


「……どういう……意味……?」


 影の手が、完全に形を持ち始めた。

指の一本一本が光の粒から“人の形”へ変わっていく。


 影は震える声で言った。


「……ぼくは……

 きみの……記憶の……中に……」


 リーナは息を呑んだ。


「記憶の……中……?」


 影の瞳が深く揺れた。

その揺れは、まるで「そうだ」と言っているようだった。


 影は続けた。


「……きみが……忘れた……ぼく……」


 リーナの胸の欠片が強く脈打った。

視界が白く滲んだ。


 影は、リーナの名前を呼びながら、ゆっくりと手を伸ばした。


 その手は、もう完全に“人の手”だった。


 リーナへ触れるために。


 影の手がリーナへ伸びた瞬間、部屋の空気が“押し返すように”逆流した。

さっきまで影の周囲へ吸い寄せられていた空気が、今度はリーナの背後へ向かって一気に流れ込む。


 リーナは思わず身をすくめた。


「……なに……これ……?」


 影も驚いたように手を止めた。

その指先が震え、形が一瞬だけ曖昧に戻る。


 影はかすれた声で言った。


「……ちがう……ぼくじゃ……ない……」


 リーナは眉をひそめた。


「違うって……何が……?」


 影はリーナではなく、部屋の天井を見上げた。

その瞳の色が一瞬だけ濁り、まるで“別の存在”を警戒しているようだった。


 影の声が震えた。


「……この部屋……きみの記憶だけじゃ……ない……」


 リーナは息を呑んだ。


「え……?」


 影はゆっくりと後退した。

リーナへ伸ばしていた手を引き、胸の前でぎゅっと握りしめる。


「……だれか……いる……きみの記憶の……奥に……」


 その瞬間、部屋の壁が“叩かれたように”揺れた。

音はないのに、衝撃だけが空気を震わせる。


 リーナは思わず壁から距離を取った。


「誰かって……誰……?あなた以外に……?」


 影は首を振った。


「……ぼくじゃ……ない……もっと……深いところに……」


 影の瞳がリーナを見た。

その色は、さっきまでの懐かしさではなく、“警告”の色だった。


「……きみが……忘れたのは……ぼくだけじゃ……ない……」


 リーナの胸が強く脈打った。


「他にも……誰か……?」


 影はうなずいた。


「……きみが……閉じた記憶……その中に……もうひとり……」


 リーナは喉を鳴らした。


「もうひとり……?」


 影は震える声で言った。


「……ぼくは……きみの記憶の……手前にいる……でも……その奥に……“きみが絶対に見たくなかった誰か”が……」


 リーナは息を呑んだ。


「絶対に……見たくなかった……?」


 影はリーナへ近づいた。

さっきまで触れようとしていた手ではなく、“止めるための手”を伸ばした。


「……リーナ……この部屋の奥へ行っちゃ……だめだ……」


 リーナは震える声で言った。


「どうして……?」


 影は苦しそうに言った。


「……きみが……その人を忘れたのは……忘れたかったからじゃない……“忘れさせられた”んだ……」


 リーナの胸の欠片が熱く脈打った。


「忘れさせられた……?」


 影はうなずいた。


「……きみの記憶を……だれかが……書き換えた……」


 リーナは息を呑んだ。


「そんな……こと……」


 影はリーナの肩へ手を伸ばした。

今度は触れられた。

影の手は、もう完全に人の温度を持っていた。


「……リーナ……ぼくは……きみを探してた……でも……その人は……きみを“隠そうとしてた”……」


 リーナの視界が揺れた。


「隠そうとしてた……?」


 影は苦しそうに言った。


「……きみを……ぼくからじゃない……“世界から”……」


 リーナは息を呑んだ。


「世界から……?」


 影はリーナの肩を強く握った。


「……リーナ……その人が……きみの記憶の奥で……目を覚まそうとしてる……」


 部屋の奥の壁が、“呼吸するように”膨らんだり縮んだりした。


 影は叫んだ。


「……行っちゃだめだ!!あれは……きみが忘れた“理由そのもの”だ!!」


 リーナは震えた。


「理由……?」


 影はリーナを抱き寄せた。

その腕は、もう完全に人の温度だった。


「……リーナ……きみが忘れたのは……ぼくじゃない……“あの人”だ……」


 壁が裂けた。


 その奥に、誰かが立っていた。

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