第143話 記憶が顔を持つとき
影の瞳が色を持ち始めた瞬間、部屋の空気がふっと沈んだ。
沈んだというより、空気の粒が一斉に影の顔へ吸い寄せられ、その中心に向かって集まりながら、影の表情を完成させようとしているようだった。
まるで部屋そのものが、影に“顔”を与えるために動いているようだった。
リーナは息を呑んだ。
胸の欠片が強く脈打ち、視界が揺れる。
影の瞳はまだ曖昧な光の粒の集まりなのに、その“向き”だけははっきりしていた。
リーナを見ている。
形になる前から、彼女を見つめている。
その視線は、懐かしさと痛みが混ざったような気配を帯びていた。
まるで、長い時間その視線を向けられなかった誰かが、ようやく彼女を見つけたかのようだった。
リーナの喉が震えた。
「……あなたは……」
影の瞳の色が、ゆっくりと濃くなった。
濃くなったというより、影の内部に眠っていた“感情の色”が、表面へ押し出されてきたようだった。
その色は、青でも赤でもない。
ただ、胸の奥が締め付けられるような、誰かが長い時間抱えていた思いの色だった。
部屋の壁がふっと揺れた。
揺れたというより、壁の内部に眠っていた“別の時間”が、外へ出たがっているような動きだった。
壁の色がわずかに変わり、その色は誰かの感情が染み込んだように柔らかく揺れた。
リーナは壁に手を当てた。
その瞬間、壁の震えが彼女の手に吸い込まれるように伝わり、胸の欠片が同じリズムで脈打った。
「……誰かの……気持ちが残ってる」
「残っているんじゃない。“まだ終わっていない”んだ」
まだ終わっていない。
その言葉が、リーナの胸に深く落ちた。
影がゆっくりと手を伸ばした。
手といっても、まだ形は曖昧で、光の粒が集まっているだけだった。
けれど、その動きは確かに“リーナへ触れようとする”動きだった。
リーナは震える声で言った。
「……どうして……私を……」
影の手が、リーナの胸の欠片の位置で止まった。
触れていないのに、欠片が影の手に反応するように強く脈打った。
その瞬間、部屋の空気がふっと裂けた。
裂けたというより、空気の層が一枚だけ上へめくれ、その奥に隠れていた“別の記憶”が姿を現した。
それは、誰かがリーナの名前を呼んだ瞬間の記憶だった。
声はない。
けれど、空気の震え方が、確かに誰かが彼女の名前を呼んだときの震えだった。
リーナは息を呑んだ。
影の瞳が、ゆっくりと深くなった。
光の粒が集まり、瞳の形を作ろうとしている。
その瞳はまだ色を持たないのに、そこに宿る“感情の向き”だけははっきりしていた。
リーナへ向けて。
まるで、彼女を見つけたことに安堵しているようだった。
影の口が、ゆっくりと動いた。
今度は、形だけではなく、空気がその動きに合わせて震えた。
声にならない声が、部屋の空気を揺らした。
リーナの名前を呼ぶために。
胸の欠片が熱く脈打ち、リーナの視界が白く滲んだ。
影は、リーナの名前を呼ぼうとしている。
ただの記憶ではなく、ただの残響でもなく、“今この瞬間に”呼ぼうとしている。
リーナは震える声で言った。
「……あなたは……誰……?」
影の顔の輪郭が一気に濃くなった。
目の位置が深くなり、口の形が整い、頬の線が柔らかく浮かび上がる。
そして、影の瞳が、ゆっくりと色を持ち始めた。
その色は、リーナがずっと忘れていた誰かの色だった。
胸の欠片が強く脈打ち、リーナの視界が揺れた。
影は、リーナの名前を呼ぶために、ゆっくりと口を開いた。
影がリーナの名前を呼ぼうと口を開いた瞬間、部屋の空気がふっと震えた。
震えたというより、空気の粒が一斉に影の顔へ吸い寄せられ、その中心に向かって集まりながら、影の表情を完成させようとしているようだった。
リーナは息を呑んだ。
「……呼ぼうとしてる……私の名前を……」
胸の欠片が強く脈打ち、視界が揺れる。
影の瞳はまだ曖昧な光の粒の集まりなのに、その“向き”だけははっきりしていた。
リーナを見ている。
形になる前から、彼女を見つめている。
影の瞳がわずかに震えた。
その震えは、まるで言葉を探しているようだった。
「……リ……」
かすかな震えが空気を揺らした。
声にならない声が、部屋の空気を震わせる。
リーナは胸を押さえた。
「やめて……そんなふうに呼ばれたら……思い出しそうで……怖い……」
影の肩がわずかに揺れた。
その揺れは、まるで「怖がらないで」と言っているようだった。
影の口が再び動いた。
「……リ……ナ……」
声にならない声が、リーナの胸の奥へ届いた。
胸の欠片が熱く脈打ち、リーナの視界が白く滲む。
「……どうして……どうして私の名前を……」
影の瞳の色が、ゆっくりと濃くなった。
その色は、胸の奥が締め付けられるような、誰かが長い時間抱えていた思いの色だった。
影が一歩、リーナへ近づいた。
その動きはゆっくりなのに、部屋の空気が一気に緊張した。
リーナは後ずさった。
「来ないで……まだ……わからない……あなたが誰なのか……」
影は動きを止めた。
止めたというより、リーナの言葉に反応して“待つ姿勢”を取った。
影の胸の位置がふっと光った。
光ったというより、影の内部に眠っていた“言葉にならなかった思い”が、形を選ぼうとしているようだった。
影が震える声で言った。
「……ま……っ……て……た……」
リーナは息を呑んだ。
「待ってた……? 誰を……?」
影の瞳がリーナを見つめたまま、わずかに揺れた。
その揺れは、まるで「君だ」と言っているようだった。
影の口が再び動いた。
「……リーナ……」
今度は、空気がその動きに合わせて震えた。
声にならない声が、部屋の空気を揺らした。
リーナは震える声で言った。
「……どうして……私の名前を……そんなふうに……」
影の瞳が、ゆっくりと形を持ち始めた。
瞳の奥に、誰かの感情が宿り始めた。
影がかすれた声で言った。
「……き……み……を……」
リーナの胸が強く脈打った。
「私を……?」
影の手がゆっくりと伸びた。
その手は、もう光の粒ではなかった。
形を持ち始めていた。
影は震える声で続けた。
「……さ……が……し……て……」
リーナは息を呑んだ。
「探して……? 誰が……誰を……?」
影の瞳が深く揺れた。
その揺れは、まるで「君を」と言っているようだった。
影の口が、ゆっくりと開いた。
「……リーナ……」
その呼び方は、懐かしさと痛みが混ざったような響きだった。
声にならない声なのに、リーナの胸の奥へ直接届いた。
リーナは震える声で言った。
「……あなた……誰なの……?どうして……そんなふうに……私の名前を……」
影は答えようとした。
口がゆっくりと動き、空気がその動きに合わせて震えた。
「……ぼ……く……は……」
リーナの胸の欠片が強く脈打った。
影の言葉を待つように、熱く震えた。
影は続けようとした。
「……き……み……の……」
その瞬間、部屋の空気がふっと裂けた。
裂けたというより、空気の層が一枚だけ横へ滑り、その奥に隠れていた“別の記憶”が姿を現した。
影は、リーナの名前を呼びながら、ゆっくりと手を伸ばした。
その手は、リーナへ触れるために形を持ち始めていた。
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