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『異世界に転移したら、俺だけ世界設定に存在しなかった』  作者: 一ノ瀬 律
六章

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第142話 開かれた記憶の部屋

 光の人物がリーナの名前を呼ぼうとした瞬間、アステルの空気がふっと裂けた。

裂けたというより、空気の層が一枚だけ横へ滑り、その奥に隠れていた“別の空間”が静かに開いた。


 リーナは息を呑んだ。

アステルの街並みが、薄い膜のようにめくれ、その下に“記憶の部屋”が姿を現した。


 部屋は、誰かが長い時間過ごした場所だった。

壁は淡い色をしていて、その色は誰かの感情が染み込んだように柔らかく揺れている。

床には、誰かが歩いた跡が薄く残り、その跡は、迷いと決意が混ざったような揺れを帯びていた。


 そして、部屋の中央に、光の人物と同じ姿勢で立つ“影”があった。


 影は人の形をしているのに、輪郭がゆっくりと揺れ続けている。

まるで、形になりたくて仕方がないのに、まだその瞬間を待っているようだった。


 胸の欠片が強く脈打つ。

リーナは胸を押さえた。


 光の人物は、リーナの反応を確かめるようにわずかに傾いた。

その傾きは、まるで「覚えているか」と問いかけるようだった。


 リーナが部屋へ一歩踏み込むと、周囲の空気がふっと沈んだ。

沈んだというより、空気の層が一枚だけ下へ落ち、その下に隠れていた“別の温度”が露わになった。


 それは、誰かがこの部屋で泣いたときの温度だった。

少し冷たくて、少し暖かくて、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような温度。


 リーナは思わず息を吸った。


「……ここ、誰かが……」


「泣いたんじゃない。“耐えていた”んだ」


 耐えていた。

その言葉が、リーナの胸に重く落ちた。


 部屋の壁がふっと震えた。

震えたというより、壁の内部に眠っていた記憶が、外へ出たがっているような動きだった。


 リーナが壁に手を当てると、壁の震えが彼女の手に吸い込まれるように伝わり、胸の欠片が同じリズムで脈打った。


「……誰かの鼓動みたいです」


「鼓動ではない。アステルが“その人物の緊張”を再現している」


 緊張。

誰かがここで、何かを決めようとしていた。

その決断の瞬間が、壁の奥にまだ残っている。


 リーナが手を離すと、部屋の中央の影がふっと揺れた。

揺れたというより、影の内部に眠っていた“感情の重さ”が、表面へ押し出されてきたようだった。


 影は、誰かが立ち尽くしたときの姿勢をしていた。

背筋はまっすぐなのに、肩は少しだけ落ちている。

その姿勢は、誰かが長い時間“待ち続けた”ときの姿勢だった。


 胸の欠片が熱くなる。


 リーナが影へ近づくと、部屋の空気が突然“匂い”を持った。

紙の匂い。

古い本を開いたときの、あの少し甘くて乾いた匂い。


 リーナは胸に手を当てた。


「……本の匂いがします」


「本ではない。アステルが“記録という行為”を思い出している」


 記録。

誰かがここで何かを書いた。

何かを残した。

何かを伝えようとした。


 匂いは影の周囲へ流れ、その流れがまるで「読んでほしい」と訴えているようだった。


 リーナが影の前に立つと、影の胸の位置がふっと光った。

光ったというより、影の内部に眠っていた“言葉にならなかった思い”が、形を選ぼうとしているようだった。


 胸の欠片が強く脈打つ。


 影はゆっくりと手を上げた。

手といっても、まだ形は曖昧で、光の粒が集まっているだけだった。

けれど、その動きは確かに“手を伸ばす”動きだった。


 リーナへ向けて。


 リーナの喉が震えた。


「……あなたは……」


 その瞬間、影の顔の位置がふっと濃くなった。

輪郭が深くなり、頬の位置が決まり、顎の線がわずかに浮かび上がる。


 そして、影の口が、ゆっくりと動いた。


 声はまだない。

けれど、その口の形は、確かに“リーナ”と動いた。


 胸の欠片が熱く脈打ち、リーナの視界が白く滲んだ。


 影は、リーナの名前を呼ぶために、ゆっくりと口を開いた。


 影がリーナの名前を呼ぼうとした瞬間、部屋の空気がふっと震えた。

震えたというより、空気の粒が一斉に方向を変え、その中心に向かって吸い込まれるように集まり始めた。

まるで部屋そのものが、影の言葉を形にしようとしているようだった。


 リーナは息を呑んだ。

胸の欠片が強く脈打ち、視界が揺れる。


 影の口はまだ声を持たない。

けれど、その形は確かに“リーナ”と動いている。

その動きは、呼びかけというより、「ようやく届く」という安堵のようにも見えた。


 その瞬間、部屋の床がふっと沈んだ。

沈んだというより、床の内部に眠っていた“別の記憶”が浮かび上がり、床の表面を薄く透かして見せた。


 そこには、誰かが座り込んでいた跡があった。

膝を抱えて、背中を丸めて、長い時間そこにいたような沈み方だった。


 リーナはその跡に近づいた。

触れた瞬間、沈みがわずかに深くなり、

まるで「まだここにいる」と告げるように震えた。


 胸の欠片が熱くなる。


 影がゆっくりと顔を上げた。

その顔はまだ光の粒の集まりで、輪郭は揺れ続けている。

けれど、その“視線の向き”だけははっきりしていた。


 リーナを見ている。

形になる前から、彼女を見つめている。


 リーナの喉が震えた。


「……あなたは……」


 影の胸の位置がふっと光った。

光ったというより、影の内部に眠っていた“言葉にならなかった思い”が、形を選ぼうとしているようだった。


 その光は、リーナの胸の欠片と同じリズムで脈打っている。

まるで互いを呼び合っているようだった。


 部屋の壁がふっと揺れた。

揺れたというより、壁の内部に眠っていた“別の時間”が、外へ出たがっているような動きだった。


 壁の色がわずかに変わり、その色は誰かの感情が染み込んだように柔らかく揺れた。


 リーナは壁に手を当てた。

その瞬間、壁の震えが彼女の手に吸い込まれるように伝わり、胸の欠片が同じリズムで脈打った。


「……誰かの……気持ちが残ってる」


「残っているんじゃない。“まだ終わっていない”んだ」


 まだ終わっていない。

その言葉が、リーナの胸に深く落ちた。


 影がゆっくりと手を伸ばした。

手といっても、まだ形は曖昧で、光の粒が集まっているだけだった。

けれど、その動きは確かに“リーナへ触れようとする”動きだった。


 リーナは震える声で言った。


「……どうして……私を……」


 影の手が、リーナの胸の欠片の位置で止まった。

触れていないのに、欠片が影の手に反応するように強く脈打った。


 その瞬間、部屋の空気がふっと裂けた。

裂けたというより、空気の層が一枚だけ上へめくれ、その奥に隠れていた“別の記憶”が姿を現した。


 それは、誰かがリーナの名前を呼んだ瞬間の記憶だった。

声はない。

けれど、空気の震え方が、確かに誰かが彼女の名前を呼んだときの震えだった。


 リーナは息を呑んだ。


 影の口が、ゆっくりと動いた。

今度は、形だけではなく、空気がその動きに合わせて震えた。


 声にならない声が、部屋の空気を揺らした。


 リーナの名前を呼ぶために。


 胸の欠片が熱く脈打ち、リーナの視界が白く滲んだ。


 影は、リーナの名前を呼ぼうとしている。

ただの記憶ではなく、ただの残響でもなく、“今この瞬間に”呼ぼうとしている。


 リーナは震える声で言った。


「……あなたは……誰……?」


 影の顔の輪郭が一気に濃くなった。

目の位置が深くなり、口の形が整い、頬の線が柔らかく浮かび上がる。


 そして、影は、リーナの名前を呼んだ。


 声はまだ弱く、空気の震えに近いものだった。

けれど、その震えは確かにリーナの胸の奥へ届いた。


 胸の欠片が強く脈打ち、リーナの視界が揺れた。


 影は、リーナの名前を呼んだ。

この部屋で。

この街で。

この記憶の中で。


 そして、影の目が、ゆっくりと形を持ち始めた。

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