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『異世界に転移したら、俺だけ世界設定に存在しなかった』  作者: 一ノ瀬 律
六章

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第140話 街が記憶を開く

 アステルの中心へ向かうほど、街の空気は“ただの空気”ではなくなっていった。

リーナが一歩進むたびに、空気の層がわずかに揺れ、その揺れが彼女の胸の欠片と同じリズムで震える。

まるで街そのものが、彼女の鼓動を真似しているようだった。


 そのとき、道の先で景色がふっと薄くなった。

薄くなったというより、アステルの表面が一枚だけ剥がれ、その奥に“別の時間”が透けて見えた。


 リーナは息を呑んだ。

そこには、誰かが立っていた。

輪郭は曖昧で、顔も見えない。

ただ、肩の傾き方、立ち方、重心の置き方が、「待っている人」のそれだった。


 胸の欠片が強く脈打つ。


「……誰かが、私を待ってるみたいです」


「待っているんじゃない。アステルが“その人物の記憶”を君に見せようとしている」


 影はゆっくりと揺れ、まるでリーナの到着を確かめるように姿勢を変えた。


 リーナがもう一歩踏み出すと、周囲の空気が突然“重さ”を持った。

重さといっても、息苦しいわけではない。

ただ、誰かが深く息を吸ったときの、あの胸の奥が少しだけ広がるような圧が空間に満ちた。


 その圧が、リーナの背中をそっと押した。


「……押されました」


「押したんじゃない。アステルが“進んでほしい記憶”を選んだんだ」


 空気の圧は道の奥へ向かって流れ、その流れがまるで「ここだ」と示すようだった。


 リーナがその方向へ進むと、建物の壁が突然“音のない震え”を起こした。

震えは壁の表面ではなく、内部の構造そのものが震えているような深さを持っていた。


 リーナは壁に手を当てた。

その瞬間、壁の震えが彼女の手に吸い込まれるように伝わり、胸の欠片が同じリズムで脈打った。


「……鼓動みたいです」


「鼓動ではない。アステルが“その人物の緊張”を再現している」


 緊張。

誰かがここで、何かを決めようとしていた。

その決断の瞬間が、壁の奥にまだ残っている。


 リーナが手を離すと、壁の震えはゆっくりと弱まり、代わりに道の中央の石畳がふっと沈んだ。


 沈んだというより、石の内部に眠っていた“重さ”が表面へ浮かび上がったようだった。


 リーナはその沈みを見つめた。


誰かがそこに膝をついた。

誰かがそこで座り込んだ。

誰かがそこで泣いた。

そんな重さが、石の形に残っていた。


 胸の欠片がまた脈打つ。


「……ここで誰か、泣いてたんですか」


「泣いたかどうかは分からない。ただ、アステルは“心が折れた瞬間”をよく覚えている」


 石畳の沈みは、リーナが触れるとわずかに深くなり、まるで「その人の気持ちを理解してほしい」と訴えるようだった。


 リーナが立ち上がると、道の先で空気が突然“匂い”を持った。


 紙の匂い。

古い本を開いたときの、あの少し甘くて乾いた匂い。


 リーナは胸に手を当てた。


「……本の匂いがします」


「本ではない。アステルが“記録という行為”を思い出している」


 記録。

誰かがここで何かを書いた。

何かを残した。

何かを伝えようとした。


 匂いは道の奥へ流れ、その流れがまるで「探して」と言うようだった。


 リーナがその匂いを追うと、建物の影が突然“文字のような線”を描いた。

影は地面に落ちるのではなく、空中に薄く浮かび上がり、誰かの筆跡のような曲線を描いた。


 リーナは息を呑んだ。


「……影が、書いてます」


「書いているんじゃない。アステルが“言葉にならなかった思い”を形にしている」


 影の線はゆっくりと消え、その消え方が、まるで「まだ終わっていない」と告げるようだった。


 そして、道の先で“街の中心の光”がさらに形を変えた。

今まで輪郭だけだった光が、ゆっくりと“人の姿勢”を作り始めた。


 立っているのか、座っているのか、まだはっきりしない。

ただ、その姿勢は、誰かが何かを待っていたときのような静けさを持っていた。


 胸の欠片が熱くなる。


「……あれ、誰かが……待ってる?」


「待っているんじゃない。アステルが“君に見せたい人物の記憶”を形にしている」


 光の姿勢はゆっくりと整い、まるで誰かがリーナの到着を待っているように見えた。


 胸の欠片は、街の中心の光と完全に重なって脈打っている。


(……誰かが私を待ってる)


 アステルは、ただ過去を抱えている街ではなかった。

今、確かにリーナへ向けて“人物の記憶”を開き、その人物の存在を形にしようとしている。

街の中心の光は、ゆっくりと人の姿へ近づいていった。


 その姿はまだ曖昧で、顔も見えない。

けれど、肩の傾き方、立ち方、重心の置き方が、「誰かを待っている人」のそれだった。


 リーナが一歩近づくと、周囲の空気がふっと沈んだ。

沈んだというより、空気の層が一枚だけ下へ落ち、その下に隠れていた“別の温度”が露わになった。


 それは、誰かが長い時間そこに立っていたときの温度だった。

暖かさと冷たさが混ざり合い、まるでその人物の感情が空気に染み込んでいるようだった。


 胸の欠片が強く脈打つ。


「……この温度、知ってる気がします」


「知っているんじゃない。君の欠片が“覚えている”んだ」


 リーナは息を呑んだ。

欠片が覚えている。

つまり、この人物はリーナと何らかの関係がある。


 光の輪郭はさらに濃くなり、やがて“影ではない何か”を作り始めた。

それは人の形に似ているが、影でも光でもなく、空気の密度そのものが人の姿を模しているようだった。


 リーナがもう一歩踏み出すと、周囲の建物が一斉に“沈黙の音”を発した。

音ではない。

ただ、建物の内部に眠っていた記憶が、一瞬だけ外へ漏れ出したような圧が空間を満たした。


 その圧が、リーナの胸の奥に直接触れた。


「……苦しいです」


「苦しさではない。アステルが“その人物の感情”を君に伝えている」


 感情。

街が感情を伝える。

それは、これまでの痕跡や反応とはまったく違う段階だった。


 リーナが胸を押さえると、道の中央の石畳がふっと浮いた。

浮いたというより、石の内部に眠っていた“記憶の重さ”が軽くなり、表面へ押し出されてきたようだった。


 石畳の上に、薄い影が現れた。

その影は人の足跡の形をしていたが、ただの跡ではない。

足跡の周囲に、その人物が歩いたときの“迷いの揺れ”が残っていた。


 リーナはその足跡に手を伸ばした。

触れた瞬間、足跡がわずかに震えた。

まるで「まだ終わっていない」と告げるように。


 胸の欠片が熱くなる。


「……この人、迷ってたんですね」


「迷ったんじゃない。“選べなかった”んだ」


 選べなかった。

その言葉が、リーナの胸に重く落ちた。


 リーナが足跡の上に立つと、周囲の空気が突然“色”を持った。

色といっても、目で見える色ではない。

ただ、空気の密度が変わり、その変化が“青い感情”を思わせるような冷たさを帯びた。


 その冷たさが、リーナの背中をそっと押した。


「……進めって言われてる気がします」


「言われているんじゃない。アステルが“その人物が進めなかった場所”へ君を導いている」


 進めなかった場所。

その言葉に、リーナの胸が強く脈打った。


 リーナがその方向へ歩き出すと、建物の影が突然“人の姿勢”を描いた。

影は地面に落ちるのではなく、空中に薄く浮かび上がり、誰かが座り込んで肩を震わせている姿を描いた。


 リーナは息を呑んだ。


「……泣いてる……?」


「泣いたんじゃない。“耐えていた”んだ」


 影の肩はわずかに震え、その震えがリーナの胸の奥に響いた。


 リーナが影に手を伸ばすと、影はゆっくりと消え、代わりに街の中心の光が強くなった。


 光はもう輪郭ではなかった。

人の姿勢そのものを作り始めていた。

立っている。

背筋はまっすぐだが、肩は少しだけ落ちている。

その姿勢は、誰かが長い時間“待ち続けた”ときの姿勢だった。


 胸の欠片が熱くなり、リーナの視界が少しだけ滲んだ。


「……この人、ずっと待ってたんですね」


「待っていたんじゃない。“君を待つしかなかった”んだ」


 リーナは息を呑んだ。

胸の欠片が、街の中心の光と完全に重なって脈打っている。


 光の姿はゆっくりと顔の位置を作り始めた。

まだはっきりしない。

ただ、そこに“誰かの気配”が確かにあった。


 リーナは震える声で言った。


「……この人、誰なんですか」


「それは、君が思い出すべき記憶だ。アステルはただ、君をその場所へ導いているだけだ」


 光の姿はゆっくりとリーナへ向き直り、まるで「もうすぐだ」と告げるように胸の前で淡く脈打った。


 リーナはその光へ向かって歩き出した。

胸の欠片は熱く、街の中心の光は、まるで彼女を迎えるように形を整えていった。


 アステルは、ただ過去を抱えている街ではなかった。

今、確かにリーナへ向けて“人物の記憶”を開き、その人物の存在を形にしようとしている。

光の姿は、ゆっくりと人の顔へ近づいていった。

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