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『異世界に転移したら、俺だけ世界設定に存在しなかった』  作者: 一ノ瀬 律
六章

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第139話 街が記憶を見せ始める

 アステルの中心へ向かうほど、街の変化は“導く”だけでは済まなくなっていた。


 道の先で、建物の壁がふっと色を変えた。

塗装が剥がれたわけではない。

ただ、壁の一部が淡い色に染まり、そこだけ“誰かの手が触れた跡”のように温度を持っていた。


 リーナは思わず手を伸ばした。


「……ここ、誰かが触ったんですか?」


「触ったというより、アステルが“その瞬間”を思い出している」


「瞬間……?」


「街が記憶を形にしている」


 壁の色はリーナの指先に合わせてわずかに濃くなり、まるで「ここから始まった」と告げるようだった。


(……誰かがここで、何かを決めたんだ)


 さらに進むと、道の中央に置かれた古い標識が、リーナが近づいた瞬間だけ“音”を発した。

音といっても、言葉ではない。

ただ、誰かが金属を軽く叩いたときのような、短い響きが空気に広がった。


 リーナは驚いて標識を見つめた。


「……今、音がしました」


「音ではない。アステルが“合図という行為”を再現しただけだ」


「合図……?」


「誰かが誰かを呼んだ記憶だ」


 標識は静かに揺れ、その揺れがリーナの胸の奥に響いた。


(……誰かがここで、誰かを呼んだんだ)


 さらに奥へ進むと、街の空気が突然“映像のような影”を作った。

影は地面に落ちるのではなく、空中に薄く浮かび上がり、誰かが歩く姿を断片的に描いた。


 リーナは息を呑んだ。


「……これ、誰かの……歩き方?」


「そうだ。アステルが“過去の動き”を再現している」


「こんなにはっきり……」


「街が君に見せたい記憶なんだ」


 影はゆっくりと歩き、道の奥へ消えていった。


(……誰かがここを歩いてたんだ)


 さらに進むと、建物の窓が突然“音のない会話”を映した。

声はない。

言葉もない。

ただ、二人分の影が向かい合い、手を動かしながら何かを伝えようとしている。


 リーナは胸に手を当てた。


「……話してます」


「話してはいない。アステルが“伝えようとした気持ち”を形にしている」


「気持ちが……形になるんですか?」


「この街では、感情が形を選ぶ」


 影はしばらく向かい合い、やがて一人分だけが窓の奥へ消えた。


(……誰かがここで、誰かと別れたんだ)


 さらに奥へ進むと、道の先で“街の中心の光”が強くなった。

光はただ明るいだけではなく、リーナの胸の欠片と同じリズムで脈打ち、まるで「早く来て」と呼びかけているようだった。


 リーナは胸を押さえた。


「……あれ、もっと強くなってます」


「街が君を“必要としている”からだ」


「必要……?」


「アステルは、君に見せたい記憶がある」


 光はゆっくりと形を変え、まるで“誰かの手の形”のような輪郭を作った。


リーナは息を呑んだ。


(……誰かが、私を呼んでる)


 アステルは、ただ過去を抱えている街ではなかった。

今、確かにリーナへ向けて“記憶の断片”を見せ始め、街の中心にある何かへ導こうとしていた。

その何かは、光の奥でゆっくりと形を整え始めていた。


 アステルの中心へ向かうほど、街の反応は“断片的な記憶”から“具体的な出来事”へ変わり始めた。


 道の先で、古い石畳がふっと沈んだ。

沈んだというより、石の内部に眠っていた何かが、表面へ浮かび上がろうとしているような動きだった。


 リーナはその沈みを見つめた。


「……石が、動いてます」


「動いているんじゃない。アステルが“その場所で起きたこと”を掘り起こしている」


「掘り起こす……?」


「街が君に見せたい記憶だ」


 石畳はゆっくりと形を変え、やがて、誰かがそこに膝をついたような窪みを作った。

その窪みは、ただの形ではなく、“重さ”を持っていた。

誰かがそこに座り込み、長い時間を過ごしたような重さだった。


(……誰かがここで、泣いてたのかもしれない)


 さらに進むと、建物の壁が突然“音のない震え”を起こした。

震えは壁の表面だけではなく、内部から響いてくるような深さを持っていた。

まるで、誰かがその壁に背中を預けて、必死に呼吸を整えていたときの鼓動が残っているようだった。


 リーナは壁に手を当てた。


「……鼓動みたいです」


「鼓動ではない。アステルが“誰かの緊張”を再現している」


「緊張……?」


「この街には、決断の瞬間が多く残っている」


 壁の震えはリーナの手に合わせて強くなり、まるで「ここで誰かが迷った」と告げるようだった。


(……誰かがここで、何かを選ぼうとしてたんだ)


 さらに奥へ進むと、道の中央に置かれた古いランタンが、突然“色”を変えた。

光ではない。

ランタンの金属そのものが、誰かの手の温度を思い出したように赤みを帯びた。


 リーナは驚いてランタンに触れた。


「……これ、誰かが持ってたんですね」


「持っただけじゃない。“頼りにしていた”んだ」


「頼り……?」


「アステルは、人が何を支えにしていたかを覚えている」


 ランタンはリーナの指先に触れた瞬間、ほんの少しだけ軽くなった。

まるで「持っていけ」と言うように。


(……誰かがこのランタンを頼りに歩いたんだ)


 さらに進むと、街の空気が突然“匂い”を持った。

今までの料理の匂いとは違う。

これは、紙が湿ったときの匂いだった。

古い本を開いたときの、あの少し甘くて乾いた匂い。


 リーナはその匂いに気づき、胸に手を当てた。


「……本の匂いがします」


「本ではない。アステルが“記録という行為”を思い出している」


「記録……?」


「誰かがここで、何かを書き残したんだ」


 匂いは道の奥へ流れ、その流れがまるで「探して」と言うようだった。


(……誰かがここで、何かを残したんだ)


 さらに奥へ進むと、建物の影が突然“文字の形”を作った。

影は本来、光の向きに従うはずなのに、今は地面の上でゆっくりと形を変え、誰かの筆跡のような曲線を描いた。


 リーナは息を呑んだ。


「……影が、文字になってます」


「文字ではない。アステルが“言葉にならなかった思い”を形にしている」


「言葉にならなかった……」


「この街には、伝えられなかった気持ちが多く残っている」


 影の文字はゆっくりと消え、その消え方が、まるで「まだ終わっていない」と告げるようだった。


(……誰かがここで、伝えられなかったことがある)


 そして、道の先で“街の中心の光”が形を変えた。

今までただ脈打っていた光が、ゆっくりと輪郭を作り始めた。


 それは、手の形でも、影でも、物でもない。

ただ、誰かの“存在そのもの”を象徴するような形だった。

輪郭は揺れながら、リーナの胸の欠片と完全に同じリズムで脈打っている。


 リーナは胸を押さえた。


「……あれ、誰かの……形?」


「形ではない。アステルが“君に見せたい人物”を思い出している」


「人物……?」


「この街の中心に、君と関わりのある記憶がある」


 リーナは息を飲んだ。

胸の欠片は熱くなり、街の中心の光と完全に重なって脈打っている。


 アステルは、ただ過去を抱えている街ではなかった。

今、確かにリーナへ向けて“誰かの記憶”を呼び起こし、その人物の存在を形にしようとしている。

街の中心の光は、ゆっくりと人の輪郭へ近づいていった。

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