第97話 夏祭りの余韻
そういえば今日は、和花と愛理と最後までする約束だったな。
……途中で色々ありすぎて、すっかり頭から抜けていた。
「分かった、じゃあ行こうか」
俺がそう言うと、二人は微笑んで左右から腕に絡んできた。
このままラブホ街へ向かうのだろうか。
なぜか胸が高鳴った。
「そ、それじゃあ私は先に帰りますね」
視線を落としたまま、ゆいがぽつりと言った。
しまった。
このまま行けば、ゆいを一人にしてしまう。
しかもゆいは、今も俺のことが好きだ。
好きな男が他の女とラブホに向かうのを見送るなんて、残酷すぎる。
(どうしたものか……)
二人との約束は守らなきゃいけない。
でも、ゆいを一人にするのは気がかりだ。
ひとまずゆいを家まで送って、母さんにしばらく様子を見ていてくれないかと頼むべきか。
いや、考えてみれば、母さんはまだあゆみさんと一緒に飲んでいるかもしれない。
こんなことなら、さっき心愛さんに頼んでおけばよかった。
「ゆいさん」
そのとき、愛理が口を開いた。
「一緒に行く?」
「……え?」
「もちろん、見るだけ。手出しは無しよ」
いや、一体何の話をしているんだ。
ゆいに、俺たちの行為を見せつけるつもりなのか?
どんな新手の嫌がらせなんだ、それは。
「愛理、いくらなんでもそれはちょっと……」
「蓮くん、これはゆいさん――いや、北山さんへのお仕置きでもあるのよ」
「お仕置き?」
「蓮くんは一ヶ月間、あの男に北山さんが寝取られる姿を見せつけられてたじゃない」
愛理がゆいを見つめながら言葉を継いだ。
「ゆいさんにも、同じ痛みを味わわせるべきじゃない?」
「……!」
ゆいが目を見開いた。
「いや愛理、それでもやっぱり酷すぎるだろ」
ただでさえ精神的に不安定なのに、火に油を注ぐようなものだ。
そもそも俺の『悪夢』は、生で見せられたわけじゃない。
長澤先輩が撮った写真や動画を、一方的に突きつけられただけだ。
「まあ、ゆいさんには酷かもしれないわね。でも私は提案しただけ。受けるかどうかは本人次第よ」
「……受けます」
即答だった。
俺は思わずゆいの肩を掴んだ。
「正気か? つらいだけで終わるかもしれないんだぞ」
「正気です。だって、ご主人様――いえ、蓮はそれだけ苦しんだんですから。私、ちゃんとお仕置きを受けないと」
「でも……」
ついに、ゆいは俺に向かって深く頭を下げた。
「お願いします。私にお仕置きを受けさせてください」
これはいったいどういう状況なんだ。
非常識なのは俺のほうなのか。
頭がくらくらしてきた。
和花が俺の耳元で囁いた。
「ねえ、蓮。前にも言ったけど、ちゃんとお仕置きを受けなきゃ更生する余地もないじゃない」
「それはそうかもしれないけど……」
「お仕置きすら与えられない方が、もっと酷いんじゃないかな?」
和花にまでそう言われると、もう返す言葉が見つからなかった。
……まあ、確かにゆいを一人残していくよりはマシか。
正直、何が正しくて、何が間違っているのか――もう俺にも分からなかった。
「分かった。じゃあ、ゆいも一緒に行こう」
口にした瞬間、我ながら正気を疑うセリフだと思った。
しかも、ゆいは嬉しそうに微笑んでいる。
なおさら、そう思った。
◇
俺たち四人はラブホ街を歩き始めた。
だがすぐに、予想外の問題にぶつかった。
「……まさか全部満室だなんて」
さすがの愛理も、そこまでは予想してなかったらしい。
そう、入れそうなラブホは全滅だった。
地域最大の夏祭りだ。
そりゃどこもカップルで溢れてる。
そもそも夏祭りデート自体が初めてで、ここまで混むとは思ってもみなかった。
「どうする? やっぱり明日に延期する?」
「「ダメ」」
俺の提案は、即座に和花と愛理に却下された。
どうやら二人は、今日中にどうしても約束を果たしたいらしい。
……俺がズルズルと先延ばしにすると思っているからだろうか。
「じゃあ、別の街に行く?」
「「賛成」」
俺たちはすぐに駅前のタクシー乗り場へ向かった。
だが、そこもやはり人でごった返していた。
電車も満員で、乗り込む気にもなれなかった。
いや、この夏祭り、ここまで人気だったのか?
「やっぱり明日――」
「「ダメ」」
「いや、ほかに手がないじゃないか」
俺の家は今なら空いている。
けれど、母さんがいつ帰ってくるか分からない。
「あ、そうだ!」
和花が声を上げた。
「うち来なよ。親、どうせ帰り遅いし」
「そうね。それが一番妥当だわ、蓮くん」
「……本当に帰ってこないんだよな?」
「ほぼ毎日深夜帰りなのに、今日に限って早上がり――なんて、あるわけないじゃない」
それもそうか。
初めての和花には、見知らぬラブホより慣れた自分の部屋の方がいいのかもしれない。
愛理が小さく笑った。
「やっぱり親のいない家でヤるのって、なんだか初々しくていいわね」
「それを言った時点で、もう初々しくないから」
なぜだか、マンションに引っ越した途端、何かのタガが外れてしまいそうな気がした。
やっぱり、俺がしっかり理性を保たなきゃな。
その後、俺たちは和花の家へ向かった。
このまま何事もなく着ける。
そう思っていたのに――
「え? も、もしかして結月……?」
またしても、見知った顔と出くわした。
伊藤さんだった。
いや、今日に限ってどうしてこんなに学校の奴らと出くわすんだよ。
ゆいが気まずそうに答えた。
「う、うん」
「イメチェンしたの? 一瞬誰かと思った」
「うん、少しね」
「全然少しじゃないじゃん! もしかして、深川くんとヨリ戻したの?」
「そ、それは……」
ゆいが視線を逸らした。
その沈黙で察したのか、伊藤さんは「あ、ごめん……」と小さく謝った。
そして話題を変えようと、慌てて言葉を継いだ。
「みんなで夏祭りに行ってきたの?」
「うん」
「あー、私も行きたかったのに! 宿題終わらなくて行けなかったの」
「そうなんだ」
ゆいの返事が妙にそっけない。
……もしかしてゆいは、まだ伊藤さんに怒っているのだろうか。
結局この前の仲直りも、俺に頼まれて仕方なく表面を取り繕っただけだ。
「私たち、先に行くね。ちょっと急いでるから」
「あ、ごめん、お邪魔しちゃったみたいだね。じゃあ学校でね、結月」
「うん」
伊藤さんが明るい表情で手を振りながら、歩き去っていった。
ゆいも軽く手を挙げて応えた。
けれど、伊藤さんに聞こえないほど離れた途端、ぼそりと呟いた。
「……クソ女。蓮に謝りもしないで」
ゆいの目つきが、一瞬冷たく光った。
昔、俺がからかわれていた頃でさえ、こんな顔は見たことがなかった。
最近、俺の知らなかったゆいの一面を、何度も見せられている気がする。
ゆいが俺に小さな声で言った。
「ごめんなさい。私のせいで足止めしちゃって」
「そんなことで謝る必要はないよ。行こう」
「はい」
やがて、和花の家に着いた。
中は本当に誰もいないらしく、真っ暗だった。
和花が先頭に立ち、明かりを点けながら中へ入っていった。
和花の家を訪れるのは、これで四度目だろうか。
二階の和花の部屋に足を踏み入れた。
そういう目的で来たからか、妙に緊張した。
「蓮の家のベッドと比べると、やっぱりちょっと狭いんだけど……大丈夫だよね?」
「心配することないわよ、和花さん。人間、昔からベッドがなくてもやることはやってきたんだから」
いや、それはそうかもしれないが、言い方が。
「そうそう、ゆいさん」
「はい?」
「ただじっとしているよりは、何かしていたほうがマシでしょ?」
愛理が鞄から何かを取り出した。
……カメラ?
「これで私たちを、可愛く撮ってね」
「ちょっと待て、愛理」
「何? ああ、これ? 蓮くんからもらったお給料で買ったアクションカムよ」
いや、機種を聞いたわけじゃないんだけど。
「本当に撮るつもりなのか?」
「ダメ? 大切な初体験、記録に残しておきたいのに」
「……なんで俺が、お願いされる側になってるんだよ」
「ふふ、そこがそのクズと蓮くんの違いなのよ」
愛理が俺の右手を取ると、そのまま自分の方へと引き寄せた。
「蓮くんの悪い夢では、写真も動画も全部そのクズが主導したんだろうけど、蓮くんは違うわ。蓮くんのヒロインたちは、もう心まで調教済み。だからむしろ、自分から蓮くんにおねだりするのよ」
「くっ……」
「そ、そうよ!」
続いて和花も俺の左手を掴むと、愛理と同じようにぐっと自分の方へ引き寄せ、俺の耳元に唇を寄せた。
「蓮があんな廃棄物みたいな男より、ずっと価値のある人間だってことを、私たちが教えてあげる。あの男がやったことくらい、蓮にだってできるんだから!」
「俺が……?」
「そうよ、蓮くん。蓮くんは決してそのクズに劣ってなんかいないわ。むしろオスとしてずっと優秀よ。私たち、蓮くんを気持ちよくさせるためなら、どんなコスプレだって、野外だってどこだって全部できるんだから」
「私たち、何度だって確認させてあげるから! あんな廃棄物にもできること、蓮にできないわけがないじゃない!」
俺はようやく二人の意図に気づいた。
この二人は、自分たちのすべてを差し出して、俺のトラウマを消そうとしてる。
劣等感ごと、俺自身の手で『悪夢』を塗り替えさせようとしているんだ。
「れ、蓮」
和花が俺の耳から唇を離した。
すると、彼女も鞄から何かを取り出した。
黒い革製の手錠だった。
「私がご主人様のペットだってこと、お、教え込んでください。にゃ、にゃん……!」




