第94話 夏祭り③
「初めまして。心愛の父、ジェームス・バーンと申します」
バーンさんが俺に名刺を差し出し、丁寧に挨拶した。
名刺なんて持っていない俺は、しどろもどろで名乗るのがやっとだった。
……名刺くらい作っておけばよかった。
「娘から、何度も命を救っていただいたと伺っております」
「いえいえ、本当に偶然でしたから」
「ですが、深川さんがいなければ、二度と娘に会えなかったかもしれません。本当にありがとうございます」
バーンさんが深々と頭を下げた。
正直、どう返せばいいのか、まるで見当がつかなかった。
それでも、嫌な気はしなかった。
むしろ、これまで心愛さんのためにしてきたことが、少しだけ報われた気がした。
「……ですがね、深川さん」
「はい?」
「うちの娘はまだ中学生です。それに深川さんには、すでに素敵な女性が――」
「パパ!! 何言ってるの!!」
バーンさんに背負われていた心愛さんが、父親の口を両手でふさいだ。
バーンさんは、心愛さんが俺を好きだと勘違いしているのだろうか。
そもそも心愛さんには、他に初恋の相手がいるはずなのに。
どうやら娘の恋愛事情には疎いらしい。
「ご、ごめんなさい、蓮様! うちのパパ、日本語が下手で」
……いや、発音とイントネーションを除けば完璧だけど?
俺はコホンと咳払いし、取り繕うように口を開いた。
「この度はマンションの仲介をしていただき、ありがとうございます。おかげさまで、いい部屋に住めそうです」
「いえいえ。娘の命の恩人ですから、そのくらい造作もありません。……一応言っておきますが、同じマンションとはいえ、うちの娘はまだ中学生――」
「パパ、だからそういうの言わないでってば!!」
心愛さんが再び父の口を両手でふさいだ。
この父娘、本当に騒がしい。
◇
その後はバーンさんも一緒に夏祭りを見て回ることになった。
心愛さんとあらかじめ話がついていたのか、もともと口数が少ない人なのかは分からない。
バーンさんは必要な時以外、俺たちの会話にほとんど口を挟まなかった。
……ただ、バーンさんは歩けない心愛さんの足になることに徹していた。
「うわあ、人すっごく多い!」
夏祭りの会場に到着するなり、和花が目を丸くした。
確かに、目を疑うほどの人出だった。
ここ数年は来ていなかったが、子どもの頃よりも人が増えている気がした。
「……私、ちょっと人酔いしちゃうかも」
その隣で、愛理は片手で口元を覆っていた。
どうやら愛理は人混みが苦手らしい。
「ひどいのか? 無理するなよ」
「ううん、そこまでじゃないわ。それに、蓮くんの顔を見て話してたら、少し楽になってきた気がする」
「そう? じゃあ、ずっと見てる?」
冗談めかして、自分の顔を指差した。
「さすが蓮くん、頭がいいわね。確かに人混みじゃなくて、蓮くんだけを見ていればいいんだわ」
「お、おう……」
冗談で言ったつもりだったのに、真に受けられてしまった。
そのあと愛理は本当に、穴が開くんじゃないかってくらい俺の顔ばかり見つめてきた。
もしかしてこれ、狙ってやってるんじゃないだろうな?
「れ、蓮!」
和花が突然、腕を伸ばして屋台の一角を指さした。
「私、あれやりたい!」
「あれ? 射的?」
妙にはしゃぐ和花は、まるで小学生みたいだった。
そういえば、友達もあまりいなかったし、杏奈ちゃんの世話もあって、こういう場所に来る機会は少なかったのかもしれない。
「私が手本を見せてあげるわ」
「え? 先輩、射的やったことあるんですか?」
「もちろんよ。屋台の射的じゃないけどね」
「じゃあ何を?」
「昔、アメリカでお父さんとAR-15を撃ったことがあるの」
「ええ……」
いや、それはガチの射撃だろ。
ていうか、見た目は子供で頭脳は大人な某名探偵じゃあるまいし、父親とアメリカでって。
「和花さん、欲しいものある?」
「うーん……。あのぬいぐるみ?」
「分かったわ」
自信満々の愛理は屋台のおじさんに小銭を渡し、銃とコルク弾を受け取った。
ストックを肩にぴたりと当て、左足を前に出した。
まるで本職の兵士みたいに、構えがやけに様になっていた。
「銃ってのはね、呼吸が命なのよ」
愛理はそうつぶやくと、息を殺して引き金を引いた。
ポン!
軽快な音とともに、コルク弾が勢いよく飛び出した。
しかし――
「思いっきり外れてますけど、先輩」
「……久しぶりすぎただけよ」
愛理が再び構え直し、二発目、三発目を立て続けに撃った。
だが、すべて見事に外れ、ぬいぐるみには掠りもしなかった。
「くっ……。こんなのAR-15なら簡単に当てられるのに」
「いや、ぬいぐるみがボロボロになるだろ」
どうやら本物とコルク銃では、感覚がだいぶ違うらしい。
和花が屋台のおじさんに小銭を渡し、コルク弾を受け取った。
「じゃあ次は私ね。蓮、どうやるの?」
「和花さん、どうして私には聞かないの?」
「さっきの見て先輩に聞く人なんて、一人もいないと思いますよ?」
「俺もそこまで得意じゃないんだけど」
和花の背後に回り、腕の角度や腰の向きを整えてやった。
「そう、そのまま。もう少し腰を落として。ぬいぐるみと銃口の高さを合わせるんだ。腕ももう少し前」
「うぅ……。なんか難しい。それにちょっと緊張する」
実のところ、これで合っているかは俺にも分からなかった。
子どもの頃に少しやったことはあるが、自分で景品を取ったことは一度もない。
それなのに、なぜか帰るころには毎回景品が手元にあった気がする……。
心愛さんが「おお……!」と声を上げた。
「なんか少女漫画みたいです! のどさん、のどさん、ドキドキしてますか!?」
「ちょっと静かに! 今集中してるんだから!!」
「え〜ん……」
そういえば、和花は一度目標を定めると、一点に集中するタイプだったな。
もしかして、ここで意外な才能が開花するのか?
少し期待しながら、和花が引き金を引くのを見守った。
ポン!
銃口から飛び出したコルク弾が、ぬいぐるみに命中した。
「「おお!」」
俺たちは揃って声を上げた。
……愛理を除いて。
だが、肝心のぬいぐるみはびくともしなかった。
何事もなかったかのように堂々と立っていた。
二発目も当たったが、少し後ろにずれただけだった。
「いや、なんで倒れないの!? 底にくっつけてあるんじゃないの!?」
「くっつけてあったら後ろに下がりもしないだろ……。落ち着け、和花」
和花が一瞬で屋台のおじさんを悪徳業者扱いし始めたので、俺は慌てて止めた。
当の屋台のおじさんは「ハハハッ!」と笑い飛ばしていたが。
和花が最後の一発を撃とうと構え直した、その時だった。
「あ、あの……」
俺たちの後ろで見守っていたゆいが、恐る恐る声をかけてきた。
「ちょっとだけ、コツを教えてもいいかな……?」
「ん? ゆい、これ得意なの?」
「す、少しは……?」
あ、思い出した。
子どもの頃、俺が何度挑戦しても駄目だったときは、いつもゆいが代わりに取ってくれていた。
あまりにも取りすぎて、屋台のおじさんが「また来たのか」とゆいに文句を言うほどだった。
「ゆい、これ本当に得意だよ。信じて聞いてみてくれ」
「そ、そう? じゃあ教えて」
ゆいが頷き、俺の代わりに和花の背後に立った。
そして、フォームを一から直していった。
「高さは腰だけをかがめて合わせるより、膝を少し曲げて体全体を低くしたほうがいいよ」
「こ、こう?」
「うん。その状態で、できるだけ銃身がブレないようにして」
どうやら、俺の教え方は少し間違っていたらしい。
「さっき見ていたら、この銃は弾が少し下に落ちるみたい。だから、少し上を狙って」
「そんなところまで見なきゃいけないんだ」
「それにあのぬいぐるみ、少し大きいじゃない? それなら中央より上の角を狙ったほうがいいよ」
和花はすっかり真剣な顔で、銃口をわずかに上げた。
あの集中力、勉強の時にも発揮してくれればいいのに――なんて考えているうちに。
ポン!
最後の一発がぬいぐるみめがけて飛んでいった。
ゆいの指示どおり、ぬいぐるみの上端に正確に命中した。
直後、ぬいぐるみは嘘みたいにころんと後ろへ倒れた。
「「おお!」」
またしても、俺たちから感嘆の声が漏れた。
……相変わらず愛理を除いて。
「二人ともすごいな」
俺は素直に、そう口にした。
コツを見抜いたゆいも、すぐにそれをものにした和花も、大したものだと思った。
意外と和花、射撃の才能があるのか?
屋台のおじさんからぬいぐるみを受け取った和花は、得意げに腰に両手を当てた。
「まあ、私にかかればこれくらい余裕よ!」
「和花さん、いくらなんでもそれは図々しすぎない?」
「かすりもしなかった先輩は静かにしててください!」
俺たちは皆で笑った。
正直、夏祭りなんてありきたりだと思っていた。
だが、このありきたりな日常こそ尊いと、そのとき改めて感じた。
少なくとも今夜、祭りが終わるまでは、この温かさが続いてほしいと思った。
そう――
俺の人生で最悪の人間と出くわす、その瞬間までは。




