第93話 夏祭り②
午後になり、そろそろ夏祭りの支度を始めた。
心愛さんとは合流場所も決めておいた。
心愛さん、本当に大丈夫なんだろうか……。
「和花さん」
愛理が宅配の段ボールを抱えたまま、俺の部屋のドアの隙間からひょっこり顔を覗かせた。
「ごめん、浴衣着るの、ちょっと手伝ってくれない?」
「あ、はい」
俺の膝の上から和花がすっと立ち上がり、隣の部屋へ向かった。
部屋には俺と結月だけが残った。
気まずい沈黙の中、結月がぽつりと呟いた。
「その……いってらっしゃい。ちゃんとお留守番してますから」
「ん? 何言ってるんだよ。ゆいも当然、行くんだぞ」
「え? わ、私も行ってもいいんですか?」
まさか、自分だけ置いていかれると思っていたのか。
……そう思ってしまうのも、無理はないか。
「ゆいも浴衣着て――」
言いかけた瞬間、一枚の写真が脳裏をよぎった。
例の夏合宿で、浴衣姿の結月が長澤先輩に抱かれている――あの写真だ。
俺はすぐに首を横に振った。
あの写真とは違う浴衣だ。
それに今の彼女は、髪型もメイクもすっかり変えている。
そうだ。今、俺の目の前にいるのは結月じゃない。ゆいだ。
「浴衣、着てこれるか?」
「あ、は、はい……! ちょっと家に戻らないといけませんけど」
「じゃあ予定より少し早く出て、ゆいの家に先に寄ろう」
「はい」
結月が嬉しそうに微笑んだ。
いや、結月じゃない。ゆいだ。
これ以上トラウマを刺激しないためにも、目の前の彼女を『ゆい』として徹底的に上書きしておく必要があった。
◇
うちから歩いて五分もかからないところに、ゆいの家――北山家がある。
ここに来るのはずいぶん久しぶりな気がした。
実際、付き合っていた頃もそんなに頻繁には来ていなかった。
いや、正確には、ゆいの父親が家を出ていってから来なくなった。
あゆみさんがバーテンダーとして働き始めてから、ゆいは家に帰っても一人きりだった。
だから放課後になると、決まって俺の部屋に入り浸るようになった。
「それじゃ、ささっと浴衣着てきますね」
「ああ。ゆっくりでいいぞ」
ゆいが玄関のドアを開け、中へ入っていった。
俺と愛理と和花は、ゆいを待ちながら他愛ない話をしていた。
「さっきも言ったけど、二人とも浴衣すっごく似合ってるよ」
「そ、そう? あんたがそうやって何度も言ってくれるから、着てきた甲斐があるわね。ま、まあ! そう言ってくれないと困るんだけど!」
「蓮くん、意外と浴衣好きなのね」
正直、俺自身も少し驚いていた。
昔は浴衣でこんなに浮かれるタイプじゃなかったはずなのに。
……もしかして、長澤先輩の一件で、俺の好みまで変わってしまったのか。
愛理が俺の腕に抱きついたまま、言葉を続けた。
「今日は絶対、最後までいくから覚悟してね。私も和花さんも、そのつもりで来てるんだから。ね、和花さん?」
「え? そ、そうよ! 逃げないでよね!?」
「逃げないってば」
……というか、初めてでいきなり三人ってことか。
いやまあ、俺としては嫌なわけじゃない。
むしろ嬉しいと言えば嬉しいのだが……。
「その……俺はともかく、二人とも初めてなのに大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。ちゃんと和花さんと相談して決めたんだから」
「あんたはただ天井のシミでも数えていなさいよ!」
「……」
もしかすると、一番覚悟が足りていないのは俺の方かもしれない。
どのみち二人から逃げ切れるはずもないし、そもそも逃げる気もない。
傍から見れば、結局一番得をするのは俺だし。
その時、玄関のドアが開く音がした。
ゆいかと思い、振り向く。
「あら、蓮くん」
だが、そこに立っていたのは彼女ではなかった。
「あゆみさん、今日は休みなんですか?」
「ええ。久しぶりに友達とお酒を飲みながら、花火でも見ようと思って」
たぶん、その友達にはうちの母さんも含まれているのだろう。
二人は昔からかなり親しい仲らしいから。
「結月――いや、ゆいが出てくるまで、ちょっと私と話さない?」
「……ゆいって呼んでるんですね」
「あの子が、どうしてもそう呼んでほしいって頼むからね。それに、蓮くんがつけてくれたあだ名だって、すごく喜んでたわよ?」
ふふ、とあゆみさんが小さく笑った。
「やっぱり蓮くんがいないと、ゆいは元気が出ないみたいね」
「そうですか……?」
「あの子はね、蓮くんとあっさり付き合えたのが、かえって良くなかったのよ。むしろ今みたいに、少しだけ希望を見せて自分で努力させるくらいがちょうどいいのかもしれないわね」
返す言葉が見つからなかった。
正直、俺自身も感じていた。
俺は今、ゆいに酷いことをしているのではないか、と。
「そうそう、あのクズ男のことで伝えておきたいことがあるの。そこのお嬢さんたちも、事情は知ってるわよね?」
愛理と和花が同時に頷いた。
……それにしても、前は『クズみたいな男』って呼んでいた気がするんだけど。
「新学期が始まったら、学校側があのクズ男の件で動いてくれるはずよ」
「何か証拠でも掴んだんですか?」
「犯罪とまでは言えないけどね。でも世の中、法律だけで回ってるわけじゃない。特に学校は、親やマスコミの圧力から絶対に逃れられないし」
「マスコミですか?」
あゆみさんがニヤリと笑った。
「うちのバーには記者さんの常連も何人かいてね。お酒を少しサービスして、ちょっとお願いしておいたの〜」
なるほど、これが大人のやり方というわけか。
俺はただの学生だから、大人のやり方までは考えが及ばなかった。
動画のような直接的な証拠があるわけでもなかったし。
おそらく、あのときの俺は、周りが見えなくなっていたのだろう。
「以前依頼していた探偵の報告書もあります。あとでお渡ししますから、あゆみさんの方でうまく使ってください」
あゆみさんが目を丸くした。
「蓮くんがかなりお金を持ってるってことは知ってたけど……探偵にいくら使ったの? 百万円くらい?」
「いえ、百万円は軽く超えますよ」
業界トップの探偵事務所に、他の依頼より優先してほしいと頼み込んだから。
和花も初耳だったらしく、「え!? それ、そんなに高いものだったの!?」と驚いていた。
「……本当に蓮くんは、うちのゆいのために努力してくれたのね。そのお金がどれほど重いものか、大人だから嫌でも分かっちゃうのよ」
「まあ、結局何の役にも立ちませんでしたけどね。お金を無駄にしただけです」
あゆみさんが冗談めかして言った。
「そのお金、ゆいに体で返しなさいって言ってやりなさい」
「……」
やっぱりこの人は変わっている、と改めて思った。
◇
ゆいが浴衣姿で出てくると、俺たちは心愛さんとの待ち合わせ場所――駅前へ向かった。
ところが、人混みが増えるにつれて、和花と愛理は俺の両腕にますます強くしがみついてきた。
「あのさ、念のため言っておくけど、夏祭りにはうちの学校の奴らもかなり来るぞ」
「「分かってる」」
「……誰かに見られたら、そういう噂なんてあっという間に広まるぞ?」
「変なこと言うわね、蓮くん。そのためにやってるのよ」
「え?」
噂になったら、俺はともかく二人のほうが困るんじゃないか?
「蓮にはもう新しい女がいるってことを、わざと見せつけるのよ!」
「いや、わざわざそんなことしなくても……」
「蓮くんは自分がモテないと思ってるんでしょ?」
「そりゃあ当然だろ?」
俺の言葉に、二人は同時に目を細めた。
呆れたような、冷たい視線だった。
なんだ。俺、何か言い間違えたか?
「モテない男が女の子三人に告白されるのね」
「しかも女の子のほうがこうやってリードしてるのに」
「これじゃあ、蓮がまた別の女の子をたぶらかすのも時間の問題ね!」
「蓮くんがハーレムを増やすこと自体は反対しないけど、前もって私たちに相談してよね?」
「……」
二人の中で、俺は一体どんな男になってるんだ。
そんなやり取りをしているうちに、俺たちは駅前に到着していた。
地域最大の夏祭りだけあって、駅前はすでに人でごった返していた。
「あ、皆さん~!」
そのとき、横から聞き慣れた声が飛んできた。
声のした方へ一斉に振り向くと――
「え? だ、誰……?」
和花がさっと俺の背中に隠れた。
こうして人見知りするところまで、猫みたいで妙に可愛い。
……何をしていても可愛いと思えるようになったら、本気で好きになった証拠だって、よく言うけどな。
(それにしても、この人は……)
心愛さんは、たしかにそこにいた。
――ただし、一人の男におぶわれた姿で。
その男を、俺はたった一度だけ見たことがある。
茶色の髪。緑がかった瞳。すらりとした長身に、蒼白なほど白い肌。
心愛さんは男の背中の上で、ワニが口を開くみたいに両腕をぱっと広げた。
「あ、紹介しますね! うちのパパです!」
『悪夢』の中で見た、心愛さんの父親――バーンさんだった。




