第91話 彼の本質
「は、初体験……」
和花はごくりと生唾を飲み込んだ。
確かに、これで条件はすべて揃った。
今さら蓮が躊躇うはずもない。
「一応聞くけど、初体験はやっぱり蓮くんと二人きりがいいとか思ってる?」
「正直そういう気持ちもないわけじゃないですけど……。むしろ先輩と一緒の方がいいと思います」
「どうして?」
「……旅館の時みたいに、また逃げ出さないためです」
和花は、蓮と最後まで進みたかった。
いっそ蓮が相手なら、妊娠しても構わないとさえ思っていた。
だが、初めてだからこその恐怖も拭いきれずにいた。
せっかくのチャンスを前に逃げ出してしまったあの夜の記憶は、いまだに和花の中で鮮明に刻まれていた。
「それなら大丈夫。いい考えがあるの」
「そ、そうですか……?」
「聞きたい?」
和花が頷くと、愛理がそっと耳打ちした。
その瞬間、和花の顔は耳まで真っ赤に染まった。
「は、初めてをそんな風に……!」
「でも、そうすれば逃げられないでしょ?」
「そ、そうですね。でも蓮、そんなプレイ好きでしょうか……?」
「たぶん、口ではあれこれツッコミを入れながらも、身体は正直に反応するんじゃない?」
「……確かに。なんだかんだ言って蓮、Sっ気が強いですからね」
初めてラブホに行った日、蓮に猫の首輪をつけられたことを、和花はきっと一生忘れないだろう。
おまけに、蓮はリードの持ち手を最後まで手放そうとしなかった。
しかも彼は、何もかも初めての和花にわざと意地悪をさせ、まるでペットを躾けるように、ひとつひとつ言い聞かせた。
「そして私たちは、そんな蓮くんのSっ気を喜んで受け入れるドMのド変態ってわけね」
「せ、先輩はともかく、私はそこまでは!」
「へえ、そう? じゃあドMのド変態でもないのに、自分から蓮くんのペットになるって言ったのね」
「うっ……」
だが、和花も愛理も、そんな蓮の調教が嫌いじゃなかった。
いや、むしろ望んでいたとさえ言えた。
名ばかりではなく、本当の意味で蓮の女になれた気がしたからだ。
「でも和花さん、考えたことある? どうして蓮くんがあんなにSっ気が強いのか」
「さ、さあ? 何というか……天性とか、性格とか、趣味とか。そういうものじゃないんですか?」
「もちろんそうかもしれない。でもね、私は蓮くんの成長過程にヒントがあると思うの」
「成長過程ですか?」
「正確にはトラウマよ」
和花は小首を傾げた。
蓮のトラウマといえば、結月と別れる原因となった長澤絡みの件くらいしか思い浮かばない。
成長過程という言葉とは、どうにも結びつかなかった。
「私はね、蓮くんのトラウマをもっと広い視点で見てるの」
「広い視点、ですか? 実は、ゆい関連だけじゃなかったり……とか?」
「直接的な引き金はゆいさんが寝取られた件で間違いないわ。でも私の勘だけど、その件がすべてじゃないはずよ」
「……!」
愛理の言葉に、和花は蓮が以前話してくれたことを思い出した。
彼が愛理の件を解決するために必死に動いていた時のことだった。
「そういえば、蓮が言ってました。子どもの頃、野良猫がトラックに轢かれて死ぬのを見てしまって、それから眠れなくなったって。頭の中で、その光景がずっと繰り返し再生されるんだって……」
「それも立派なトラウマよ。『寝覚めが悪いから』『ヒーローごっこをするつもりはない』――そういう言葉だって、みんなその傷を無意識に避けようとして出てきたものなの」
そんな蓮に、神様は予知能力を授けた。
だが、悪い未来を知る力は与えても、それをすべて防ぐ力までは与えてくれなかった。
だからこそ彼は、せめて手の届く範囲だけでも、身を挺して悪い未来を変えようとしているのだ。
「和花さん、自分が蓮くんだったらって考えてみて。たとえば、家族が死ぬ未来を知ってしまった。でも、周りは誰も信じてくれない。頭がおかしくなったとまで疑われる。それでもどうにか家族を救おうと孤軍奮闘して――結局、死んでしまった。どう思う?」
「……むしろ前もって知ってしまったからこそ、余計に苦しい面もありそうですね」
「でしょ。蓮くんに能力が目覚めてから、そんなことが一度や二度で済んだと思う? きっと、そんな程度じゃなかったはずよ。蓮くん自身はそれを、自己客観視と呼んでいるのよ」
極度の無力感と理不尽さを、蓮は誰にも理解されないまま、ひとりで飲み込むしかなかった。
和花はそんな彼の気持ちを想像し、彼がいかに深い孤独の中で生きてきたかを感じ取った。
誰の目にも映らない、自分自身との静かな戦いを、彼はずっと続けていたのだ。
「蓮の立場からすれば、成功したことより、失敗したことばかりが頭に残ってしまう。だから絶対に、自分自身を高く評価できないんですね」
「そうね。その失敗の重さが並大抵のものじゃなかったなら、なおさらでしょうね」
これ以上、失敗したくない。
少なくとも自分の手の届く範囲にいる人だけは守りたい。
幾度もの失敗の果てに、蓮が辿り着いた精一杯の答えなのだと、和花には理解できた。
「ところで先輩、それが蓮のSっ気とどう繋がるんですか? むしろ、かなり遠い話に聞こえるんですけど」
「そうでもないわ。和花さん、考えてみて。悪い未来を知ってしまったとして、現実的な制約が何もなければ、一番手っ取り早い解決方法は何だと思う?」
「さあ……」
「逆に聞くわ。現実的に一番大きな制約は何だと思う?」
「それは簡単ですよ。普通の人は蓮の言葉を簡単には信じられな——」
和花は答えかけて、目を丸くした。
「でしょ? 未来を変えるのが難しいのは、蓮くんの言葉を信じて従う人が極めて少ないからよ。だったら、蓮くんの中に自然とある欲望が生まれてもおかしくないと思わない?」
「……無条件に自分の言葉を信じて従ってくれる人がいればいいのに、って」
「そうよ。それが叶わないと分かっているから、表では意識しないようにしているだけ。心の底では、ずっと望んでいたのよ」
もし世の中の人が全員、蓮の言葉に従って動く駒なら、感染症だろうが大地震だろうが、どんな災害からもすべての人を守り抜けるだろう。
だが、それはただの妄想に過ぎない。
「この観点から、ゆいさんの件を考えてみて」
「……誰よりも蓮の傍にいて、蓮が何より信頼していたはずのゆいが、自分の言葉をひとつも聞いてくれなかった。そのせいで、最悪の未来を回避できなかった。ただ、自分の言うことさえ聞いてくれていれば、回避できた未来だったのに」
「そうよ。少なくとも蓮くんは、無意識のうちにそう感じてしまうはずなの。あくまで私の考えだけど、蓮くんはゆいさんの件で、性癖そのものまで大きく変わったんじゃないかしら」
「自分がすべてを支配して、所有できる女の子を好きになった、ってことですね」
愛理が黙って頷いた。
和花にとっては、まったく考えたこともない視点だった。
ただ、唖然とするしかなかった。
旅館で「妊娠させてもいい」と口にしたとき、蓮がはっきり反応した理由も、ようやく腑に落ちた。
あれは、そうした深層心理から湧き上がる征服欲の表れだったのだ。
「……でもそれなら蓮は、天性のヒーローなんですね」
「そうね。野良猫が死のうが人が死のうが、自分の知ったことじゃないって割り切れれば、あんなに苦しむ理由もないんだから。言ってみれば、蓮くんは歪んだヒーローってわけね」
「歪んだヒーロー……」
「蓮くんは神様じゃなくて、欲望を持った人間なんだから。歪むしかないのよ」
そして、その歪んだヒーローに、ここにいる二人は間違いなく救われていたことを、はっきりと自覚していた。
「なんだか、今すぐ蓮に会ってキスしたい気分です」
「そうね。だから明日、浴衣姿で蓮くんの征服欲をたっぷり満たしてあげましょ。私たちは私たちで、支配される快感をとことん味わって気持ちよくなるのよ」
「なんだか急展開すぎませんか!?」
「最初に言ったじゃない、私たちの初体験をどうするか相談するって」
「……」
和花は呆れながらも、愛理に感謝した。
もし愛理がいなかったら、蓮のそんな一面にまったく気づけなかっただろう。
愛理の冷静な分析があったからこそ、和花は素直に思えた。
蓮をもっと好きになった、と。
◇◇
翌日。
和花は今日も朝早くやって来て、俺の膝の上にちょこんと座った。
普段よりさらに甘えているのか、まるで猫がマーキングでもするみたいに、俺の身体中に自分の身体を擦りつけてくる。
俺は和花の頭を撫でながら、冗談めかして言った。
「可愛いのどちゃん、ニャンって言ってみようか」
「にゃ、にゃあん……」
「……本当にやるんだな」
「あ、あんたがやれって言ったんでしょ!?」
てっきりいつものようにツッコミが返ってくると思っていたから、少し面食らった。
「蓮くん」
愛理がスマホを片手にドアを開け、ひょいと顔を覗かせた。
どうやら誰かと通話中らしかった。
「美代子さんが『蓮様と直接通話したいです!』って言ってるんだけど、どうする? 連絡先、教える? 断る?」
「……モノマネうまいな」
俺は少しだけ考え込んだ。
現役アイドルとスポンサーが連絡先を交換して、本当に問題ないのだろうか。
後で変なスキャンダルになるんじゃないかと心配になった。
「直接教えるのはちょっとアレだから、今俺が代わるよ」
「分かったわ。はい、これ」
愛理が自分のスマホを俺に渡してくれた。
スマホを耳に当てると、心愛さんの声がすぐに飛び込んできた。
「どうしてあたしには蓮様の連絡先教えてくれないんですか! 他の人はみんな知ってるみたいなのに!」
「そりゃ心愛さんはアイドルですからね」
「何ですかそれ!? アイドル差別ですよ、それ!!」
ぶーっ!
心愛さんが変な声まで出した。
これがアイドルの拗ね方か……?
「それで、何の用ですか?」
「とりあえず報告があります! パパに聞いたんですけど、マンションに空き部屋あるそうです! 来週にでもすぐに入れるって言ってました」
「あ、そうですか?」
早くても、あと数週間はかかると思っていたのに。
バーンさんが色々と手を回してくれているのだろうか。
……そういえば、心愛さんは俺のことを、いったいどう説明したのだろう。
「それじゃあ、よろしくお願いしますって伝えてください。あ、それから、ありがとうございます、とも」
「はい! その代わりと言ってはなんですけど、今日あたしも一緒に行ってもいいですか?」
「え? どこにですか?」
「そんなの決まってるじゃないですか!」
心愛さんがふふっと笑いながら言葉を継いだ。
「夏祭り!」




