第83話 膝を突き合わせて②
俺はしばらく黙ったまま、じっとしていた。
思い返せば、結月と別れて以来、彼女の話を真面目に聞いたことはなかった。
すでに俺の心は決まっていた。
どうせ彼女だって、そのうち俺のことなど忘れるだろう――そう思っていたからだ。
(以前とは確かに変わったな)
たぶん、俺にとってはいい意味で。
少なくとも、あの『悪夢』の中にいた結月とは違う。
それだけは確かだった。
さっき、隣の部屋で和花と話す声を耳にしただけでも、そう思えた。
(それに、吐き気もだいぶマシになったしな)
結月が変わったからなのか、それとも俺のトラウマが和らいだだけなのか、自分でも分からない。
もちろん、今でも顔が近づけば、『悪夢』の記憶が蘇ってめまいがする。
それでも今は、会話くらいならできるようになっていた。
俺は一つ頷き、口を開いた。
「分かった。北山さん、今大丈夫か?」
「え、え? も、もちろん私はいつでもいいけど……」
さっき和花と話しながら泣いたせいか、結月の目元が赤かった。
まだ感情の整理がついていないようで、話を切り出すのはもう少し後にすべきだったかもしれない、とも思った。
愛理がベッドから起き上がり、和花の隣へ歩み寄った。
「蓮くん、じゃあ私たちは夕飯の準備してるね」
「あ、ああ。頼む」
「もし具合が悪くなったら、無理しないでね」
「ああ」
二人が部屋を出ようとドアノブに手をかけた、そのとき――。
「あ、あの……蓮の具合が悪くなるって、どういうことですか……?」
結月が戸惑った顔で、俺と愛理を見比べた。
愛理は呆れたようにため息をひとつ吐き、口を開いた。
「知らないの? 蓮くんのトラウマ」
「え……?」
「本当に鈍感ね。蓮くんはね――」
「ちょ、ちょっと待て、愛理」
俺はとっさに立ち上がり、愛理の口を手で塞いだ。
いくらなんでも、本人に直接そんなことを言わせるわけにはいかなかった。
顔を見るだけで吐き気がする、なんて。
女の子に突きつけるには、あまりにも残酷すぎる。
(だからわざと黙ってたのに)
林間学校で実際に吐いたときも、胃の調子が悪かったとか、急に慣れない運動をしたせいだとか、そうやって誤魔化してきた。
人を傷つける言葉をわざわざ口にして、これ以上彼女を苦しめる必要はないと思っていた。
「蓮くん、でも北山さんも知っておくべきよ」
「いや、わざわざ知る必要はないと思う」
傷つけるだけだ。
知ったところで結月のためになるわけでもなく、ましてや俺のためにもならない。
だからこそ愛理を制したのだが、彼女は少し不満そうに息を吐いた。
「分かったわ。蓮くんがそう言うなら、私は何も言わない」
「ま、待ってください!」
結月が深々と頭を下げた。
「私に関することなら、どうか教えてください。私には、知っておくべきことだと思います」
「蓮くん、北山さんもここまで言ってるんだから、教えてあげるのが筋ってものじゃない?」
本当にいいのだろうか。
俺は結月を見据え、念を押すように低く言った。
「北山さんが傷つくだけだぞ」
「私のことなら心配しなくていいよ。蓮が心配してくれただけで、もう十分うれしいから。だからお願い。私、本当に空気を読むのが下手で、直接言ってもらわないと分からないの。ううん、言われたって分からないかもしれない。それでも……ちゃんと教えて」
ついに、結月は俺の前で膝をついてしまった。
いや、こんなつもりじゃなかったんだけど……。
困って後頭部を掻いていると、和花も口を挟んだ。
「蓮、私も結月は知っておくべきだと思う。それが結月のためにもなるから」
「……それが?」
「うん。一種のお仕置きってわけよ。ちゃんとお仕置きされてこそ、更生する余地もあるじゃない?」
本当にその通りになるのか、疑問は残る。
だが、三人とも教えるべきだと言っているのだ。
ここで俺一人が意地を張ったところで、意味はないだろう。
「分かった。じゃあ、俺から直接話す。それから、愛理」
「何?」
「……勝手に言おうとしたこと、お仕置きだからな」
わざと低い声で告げたのだが、それがかえって愛理を刺激したらしい。
彼女は体を小さく震わせ、じわりと頬を染めた。
「は、はい……。ご主人様がお仕置きしやすいよう、色々と買ってありますので、ぜひ使ってください……」
「……」
何でもプレイに持ち込む愛理には、一生敵わない気がした。
◇
和花と愛理が部屋を出ていった後、俺は結月と並んでベッドに腰を下ろした。
それから、俺のトラウマの症状を淡々と説明した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
案の定、結月は泣きじゃくりながら、しきりに謝った。
「そんなことも知らずに、私、ずっと蓮に近づいて……」
「まあ、それは北山さんのせいじゃないから」
「ううん。私、幼馴染なのに、こんなことにも気づけなかった……一体、何を分かったつもりでいたんだろう……」
まるで懺悔するように、結月は自分の過ちをひとつずつ数え上げていった。
もちろん、別れた後も謝罪の言葉がなかったわけではない。
だが、今のそれはあの頃とは違った。
昔に戻りたい一心で繰り返していた、うわべだけの謝罪ではなかった。
「蓮のあの予知がなくても、私なんか振られて当然だったんだよ。むしろ今まで、私のために蓮が犠牲になってくれていたんだね。私なんて、蓮に好かれる価値もない女だよ」
「あんまり自分を卑下するな。そう言われると、惚れて告白した俺の立場がないだろ」
俺はティッシュを数枚取り、そっと結月に差し出した。
結月はそれを受け取ったまま、涙を拭おうともせず、ただティッシュを見つめていた。
「考えてみれば、いつもそうだった。蓮からもらってばかりで、私が蓮にしてあげたことなんて、何ひとつなかった」
「いやまあ、必ずしもそうとは……」
「ううん、私、全然思い浮かばないもん。蓮に何をしてあげたのか。私は、口では何でもしてあげるって言いながら、結局、何ひとつしてあげられなかった。告白も、好きって言葉も、キスも、エッチも、全部、蓮のほうからしてくれた」
確かにそうだった。
結月は、俺以上に恋愛に奥手だった。そのせいも大きい。
まあ、当時の俺は結月が喜ぶ顔を見ているだけで満足だったから、気にもしていなかったが。
「私には、蓮からもらったこのティッシュを使う資格すらない……」
「いや、使えよ。もったいない」
「……そうだよね。私なんか、泣く資格なんてないよね。ちゃんと泣きやむ。これ以上、蓮に面倒な女だって思われたくないから……」
そんなことは一言も言っていないのに。
どうやら結月の中で、罪悪感が膨らんでしまったようだ。
ひとつだけ確かなのは、今の結月の精神状態が決して健全ではないことだった。
(……まあ、それだけ冷たくあしらってきたから、ある程度俺の責任か)
正直、冷たく突き放せば、俺に愛想を尽かすだろうと思っていた。
だが、実際は逆だった。
冷たくすればするほど、かえって俺に執着していった。
「北山さんは、まだ俺のことが好き?」
「う、うん……。大好きだよ」
「でも俺は、正直に言って、もう前ほど北山さんを好きじゃない」
「っ……」
「それに、和花と愛理のことが好きになった。だから、たとえもう一度北山さんを好きになったとしても、和花と愛理への思いを、諦めるつもりはない」
今の自分の気持ちを、包み隠さず告げた。
結月が以前とは変わった。それは確かだった。
だが、だからといって一度冷めた気持ちがそう簡単に戻るわけではない。
「うん。和花も菅原先輩もいい人だから、当然だと思う。別に、私をまた好きになってほしいなんて思ってないよ。それはやっぱり、自分でも図々しすぎるって分かってるし」
結月はうつむいたまま、言葉を続けた。
「ただ、蓮のそばにいたいだけ。でも、それすら蓮の迷惑になるなら……私なんて、やっぱりいないほうがいいのかもしれない。ううん、ちゃんと空気を読んで消えるべきだよね」
「消えるべきって、何を考えてるんだよ」
「蓮には迷惑をかけないから」
「お前、まさか自殺しようとか考えてないよな?」
結月はびくりと身をすくませた。
すぐにぎこちなく首を横に振った。
「ち、違うよ。そんなこと全然考えたことないもん」
「嘘だな」
「っ……」
「正直に言えよ。俺のメイドだろ。なら、俺の言葉に従え」
結月は唇を小刻みに震わせながら、小さな声で答えた。
「だって、私、蓮を傷つけて苦しめるだけの女だもん。もう本当に諦めるしかないじゃない」
「だからって人生を諦めるなんて……」
ただの脅しじゃない。
直感的にそう思った。
専門家ではない俺が見ても、今の結月はうつ状態――少なくとも、それに近いところまで追い詰められているように見えた
そう、まるで『悪夢』で見た愛理のように。
(本当に自殺するなら、いくらなんでもそんな夢を見るはずだが……)
だが今、明らかにその前兆が現れている。
これ以上、悪い方へ転がるのだけは防がなければならない。
もし本当に結月の心がこのまま壊れてしまったら、あゆみさんに顔向けできない。
俺自身だって、平気ではいられないだろう。
「北山さん。いや――結月」
「え? い、今、結月って……?」
「ああ。俺のメイドだからな」
結月は、ここしばらく見せていなかった満面の笑みを浮かべた。
ここまで喜ぶとは。
「俺のそばにいたいって言ったよな?」
「う、うん……」
「メイドがタメ口か?」
「す、すみません。はい、です……」
「なら、常に俺のそばにいろ」
「え? ほ、本当にですか……?」
俺は頷いた。
「これから結月には、俺のトラウマ克服に付き合ってもらう。こんなものをいつまでも抱えていたら、何かと面倒だからな」
「は、はい……! で、でも、そんなトラウマを作った張本人の私が、本当に役に立てるかどうか……」
「それを決めるのはお前じゃない。俺だ。分かったか?」
「は、はい……!」
俺はわざと芝居がかった仕草で立ち上がり、結月の前に立った。
そして、彼女の顎をくいと持ち上げ、低い声で命じた。
「今日から、お前も俺の家で暮らせ」




