第82話 膝を突き合わせて①
蓮の家の一室――主に愛理が使っている部屋で、和花と結月は向かい合って座っていた。
和花の目には、向かいに座る結月の姿が、一学期に体操服姿で怒鳴りつけてきたあのときの彼女と重なっていた。
――人の彼氏にお弁当作ってあげるのが、どうして私のためになるのよ!?
――そういうのを泥棒猫って言うのよ!!
――私にそんなことしておいて、よく友達だなんて言えるわね!?
――少なくとも私は、あんたみたいなやつ、もう友達だなんて思ってないから!!
結月を活発で優しい子だとばかり思っていたから、あのとき向けられた激しい怒りはあまりに唐突で、和花はただ戸惑うしかなかった。
けれど、あとから振り返ってみれば、結月があれほど激高した理由も理解できた。
何もかもが初めてだったあのころの和花には、自分のしたことがどれほど大きな誤解を招くのか、想像もつかなかった。
(いや、ただの誤解じゃない、か……)
友達も恋人もいたことがなかった和花は、友情と恋心の境目さえ分かっていなかった。
もし蓮をただの男友達としか見ていなかったなら、手作りのお弁当を作ってあげようなど、思いもしなかっただろう。
すでにその時点で彼に惹かれていたのだと、後になってようやく気づいた。
先に口を開いたのは、和花だった。
「結月。先に謝るね。ごめん」
結月に向かって、和花は深く頭を下げた。
「無責任に、ヨリを戻せるようにするなんて大口を叩いたこと。そのくせ、私が蓮を好きになってしまったこと。結果的に、蓮と結月の距離をもっと遠ざけてしまったこと……その全部」
この謝罪を、結月が受け入れてくれるかどうかは分からなかった。
いや、そもそもこれは自己満足のための謝罪なのだと、和花自身も分かっていた。
結局のところ、結月がどんな態度に出ようと、和花には蓮を諦める気など微塵もないのだから。
「……一つ聞きたいんだけど。いつから蓮を好きになったの?」
「自覚したのは、林間学校が終わったあとくらい。でも、たぶん好きになったのはその前。決定的だったのは、やっぱり蓮が私を助けてくれたときだと思う」
和花は包み隠さず答えた。
結月はゴクリと唾を飲み込み、震える声で質問を続けた。
「どれくらい蓮のことが好きなの?」
「ハーレムも許しちゃうくらい」
「……本当に、すごく好きなんだね」
そもそも和花は、ハーレムが何かさえよく分かっていなかった。
愛理の提案がなければ、思いもしなかっただろう。
恋心を自覚できたのも、今こうして蓮と深い関係になれたのも、愛理のおかげが大きい。
だからこそ和花は、今さら愛理を仲間外れにするなんて筋が通らないと思っていた。
「菅原先輩から聞いてると思うけど……。私も蓮のハーレムに入りたいの。和花は、その……どう思う?」
「正直に言うと、私は反対しない。いや、反対できない」
初めてできた友達が、たまたま結月だった。
しかも、その彼氏が蓮だったからこそ、和花は彼に惹かれていった。
つまり、結月がいなければ、和花の恋心は芽生えもしなかった。
愛理とは、そこが決定的に違っていた。
「でも、最終的に決めるのは蓮だからね」
あくまで反対はしない。
言い換えれば、積極的に賛成もしない。
ただ、それは蓮のそばに別の女の子が増えるのを警戒しているからではない。
以前、長澤のことを直接警告したとき、結月は強く否定し、和花の言葉にまったく耳を貸さなかった。
その記憶が、まだ胸の奥に残っているからだ。
「……分かってる。でも、それだけでもありがとう」
「ねえ、結月。正直、蓮にずっとあんなふうに拒絶され続けて、辛くない? 私なら、とっくに諦めてたと思うけど」
「じゃあ逆に、どうして和花はハーレムまで受け入れて、蓮と今みたいな関係になれたの?」
「え? そりゃ……。優しいし、一緒にいて楽しいし、他人のために動けるくらいお人好しだし、顔もタイプだし、お金もたくさんあるし……。挙げたらキリがないけど」
和花は、これまで多くの男の子と接してきたわけではない。
だが、一つだけ確信はあった。
「私の人生に、蓮ほどの男の子はもう二度と現れない」
宝くじなら、蓮は間違いなく大当たりだ。
結月が小さく笑った。
「私も同じだよ」
「……!」
そもそも愚問だったのか。
和花は、結月の雰囲気がどこか変わったように感じた。
少なくとも、別れた直後にあった、人を刺すような険しさはずいぶん消えていた。
「正直、和花のこと、すごく恨んだりもした。でも、そもそも和花は何も悪くなかった。蓮と親しくなったのも、好きになったのも、ちゃんと蓮が私を振ったあとだったんだし」
うつむいた結月の肩が、小さく震え始めた。
「全部、私が悪かったのに……私はただ、それを和花にぶつけただけだったんだ」
もし、あのとき結月が蓮の願いを聞いて、写真部の夏合宿に行かなかったら?
いっそ写真部を辞めていたら?
いや、せめて長澤を警戒していれば?
意味のない仮定だ。
けれど、予知が本当だったかどうかはともかく、蓮の言葉に本気で耳を傾けなかった、その時点で二人の破局はもう始まっていた。
気づいたときには、もうあまりにも遅かった。
「ごめんね、和花……。私を助けようとしてくれたのに、思い通りにならないからって、怒ってばかりで……」
結月の膝に、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
それが嘘泣きではないことくらい、和花にも分かった。
涙には、深い後悔が滲んでいた。
「私、これから絶対に変わってみせるから……こんなダメなままじゃなくて、和花みたいに蓮にふさわしい、いい女に……」
「別に私だって、言うほどいい女じゃ……」
「ううん、少なくとも私よりはずっといい女だよ。前に高木くんが言った通りだった。私は蓮を幸せにできない」
そんなことない、と言いかけて、和花は口をつぐんだ。
下手に慰めたところで、今の結月にはただのきれいごとにしか聞こえないだろう。
だから和花はそっと距離を詰め、何も言わずに結月を抱きしめた。
結月が和花の腕の中でむせび泣いた。
「私、図々しいけど、まだ和花の友達でいられるかな……?」
「うん、もちろん」
「私、和花にあんなにひどいことしたのに……」
「私も悪かったんだから気にしないで」
和花はぽんぽんと、優しく結月の背中を叩いた。
◇◇
「上手くまとまったみたいね」
愛理は壁に耳をぴったり押し当て、隣の部屋の会話を盗み聞きしていた。
実のところ、ベッドに腰掛けている俺の耳にもかすかに届いていたが、わざと聞こえないふりをした。
正直、二人が仲違いする原因を作った俺としては、色々と複雑な思いがあった。
「これで和花さんの負い目もある程度消えたかしら」
どうやら愛理は、結月よりも和花のほうを気にかけているらしい。
考えてみれば当然だ。
愛理にとって結月は、ただの俺の元カノにすぎない。
一方で和花は、辛い時にそばにいて助けてくれた人の一人なのだから。
「それじゃあ蓮くん、私たちはさっき言ってた通り、エッチなことでもしよっか」
「いやいや、その流れはおかしいだろ」
「私には自然な流れよ」
愛理は壁から耳を離すなり、俺をベッドに押し倒した。
そして俺の上に跨がり、上半身を密着させて唇を重ねた。
「あ、本当にこの二人、エッチなことしてるじゃない!」
隣の部屋から戻ってきた和花が、頬を膨らませて叫んだ。
一緒にいる結月は、顔を赤く染めたまま目を丸くしていた。
「やるなら私も混ぜてよ!!」
挙句の果てに和花もベッドに飛び乗ってきて、舌をペロッと出してみせた。
……結月という他人の目があるのに、本当に二人とも平気なのか。
もしかして、むしろ余計に興奮してたりしないだろうな?
和花の舌を見て、そっと人差し指を近づけてみた。
すると和花は躊躇うことなく、俺の指先に軽く口づけした。
「うっ……」
結月が体を縮こまらせて太ももをこすり合わせた。
それでも視線だけは、俺たちから外せずにいる。
普通なら、自分の好きな人が他の誰かとこんなことをしている場面なんて、目を背けたくなるはずなのに。
もしかすると結月も、方向性が違うだけで、とんでもない変態なのかもしれない。
「ねえ、蓮。今度は蓮も、結月と二人きりでちゃんと話してみたら?」
「え?」
まさか和花がこんな提案をしてくるとは、想像もしていなかった。
それは結月も同じだったのか、「の、和花?」と戸惑ったような声を上げた。
「どんな結論になるにせよ、私の好きな二人がこのまますれ違ったままなのは、見ていたくないの」




