第80話 メイド①
俺は愛理の言葉に、思わず目を見開いた。
メイドだなんて、まさか……。
だが、俺が何か言うより先に、心愛さんが声を上げた。
「そりゃあ想像したことはありますよ! え、何ですか? 秘書さんがあたしのメイドになってくれるんですか?」
「まさか。蓮くんのメイドならともかく、美代子さんのメイドなんて願い下げよ」
「そこまで全否定されると、心愛、少し傷つきますよ!?」
俺はスマホを取り出そうとする愛理の手首を掴み、耳打ちした。
「どういうつもりだ?」
「一度、試してみるのよ。本当に私たちの言う通りにするかどうか」
「いや、でも……」
「心愛さんの命を救うためなら、人手は多いほうがいいでしょう?」
愛理の言うことにも一理あった。
少なくとも今の結月は、俺の予知能力を知っているし、信じてもくれている。
心愛さんの件も話せば受け入れてくれるはずだ。
「もちろん、蓮くんがどうしても嫌ならやめるわ。でも、どうせ北山さんと顔を合わせるしかないのなら、こうして手を貸してもらうほうが、北山さんにとってもいいんじゃない?」
確かに、俺が愛理を止めようとしている一番の理由は、結月に会うのが気まずいからだった。
結月の提案をある程度受け入れた以上、俺も前に進まなければならない。
「……分かった。じゃあ俺から連絡する。心愛さん、もう一人呼びたいんですけど、いいですか? 俺の、その……同級生なんです」
「構いませんけど、女の子ですか?」
「まあ、そうですね」
「へえ、やっぱり!」
心愛さんが手で口を覆いながらくすくす笑った。
「本当にモテモテですね、蓮様」
「別にそんなことは……」
「婚約者がいて、愛人がいて、そのうえ今すぐ呼べる同級生の女の子まで。さらには天に選ばれしスーパーアイドル心愛まで!」
「最後のは外してもいいでしょう」
「どうしてですか!? 現役アイドルですよ!? むしろ一番メインじゃないですか!?」
いや、アイドルだろうが何だろうが中学生じゃないか。
それに、俺以外に好きな男の子もいるみたいだし。
いちいちツッコミを入れるのも億劫になって、俺はスマホを取り出した。
(……俺から結月に電話かけるの、かなり久しぶりな気がする)
通話アイコンを押そうとする指先が、わずかに震えた。
旅行で顔を合わせた時はそれなりに平気だったから、もうトラウマも薄れたと思っていた。
どうやら、気のせいだったらしい。
そんな俺の様子に気づいたのか、愛理がそっと手を握ってきた。
「ごめん、蓮くん。私、自分の考えを少し押しつけすぎちゃったみたい」
「いや、俺のために言ってくれたんだろ。別に、愛理は間違ったことを言ってないよ」
「あくまで蓮くんの体が最優先よ。私の言葉を聞き入れてくれるのは嬉しいけど、絶対に無理はしないでね」
「うん、もちろんだ」
愛理のおかげか、手の震えが収まった。
俺は一度深呼吸をして、思い切って通話ボタンをタップした。
呼び出し音が鳴るか鳴らないかのうちに、通話が繋がった。
「れ、蓮……? 蓮だよね……!?」
「あ、ああ……」
誰が聞いても舞い上がっているとわかる、弾んだ声。
俺の胸の内に、様々な感情が渦巻く。
正直、別れると決めて以来、二度と俺のほうから連絡することはないと思っていた。
「今、忙しいか?」
「ううん、全然。どうしたの?」
「実は頼みたいことがあってさ。今から、ちょっと来てくれないか?」
「今すぐ?」
「あ、やっぱり無理か?」
「ううん、すぐ行く。どこに行けばいい?」
「住所送るよ。あ、絶対に他の人には教えないでくれ。タクシー代は俺が出すから、タクシーで来てくれ」
「分かった」
電話を切ると、心愛さんがまたニヤニヤと笑った。
「え〜何ですか、その会話。もしかして元カノ、とか?」
「うっ……」
この子、密かに勘が鋭いんだよな。
それともバレバレだったか。
「え、本当ですか? 名探偵心愛の推理によれば、絶対に蓮様が振ったんですよね! その元カノさんが今すがっている感じで」
「すがっているという表現が合っているかは分かりませんけどね」
「そうでもなきゃ、どこの女の子が元カレの電話一本ですぐ来るんですか〜?」
「……」
なんだか、知られなくてもいいことまで筒抜けになった気分だ。
秘密を共有すれば親しくなれるとは言うが、果たしてこういうのも含まれるのだろうか。
とにかく心愛さんは面白がっているだけのようだし、こんなことで噂されたところで、俺は有名人でもない。
別に構わないと思った。
「じゃあ、もう本当に宿題始めましょう。このままだと何一つ終わらないまま日が暮れちゃいますよ」
「「うっ……」」
和花と愛理は、そろってすっと顔を背けた。
まさか狙ったわけじゃないよな。
俺たちはリビングの広いテーブルを囲んで座った。
心愛さんは向かい側に、和花と愛理は俺の隣に。
「ちょっと、これじゃあわざわざ一緒にやる意味がないじゃないですか! のどさんと秘書さんだけずるいです!」
「「だって私たちはバカだから」」
「堂々としすぎ!!」
「三人とも、本来、宿題はそれぞれ自分でやるものだぞ……。本当に分からないところだけ聞いて」
「はーい」
その後は雑談もなく、意外にもみんな真面目に宿題に取り組み始めた。
和花や愛理がちょくちょく質問してきたが、どれも本当に手が止まってしまったところばかりだった。
愛理は根っこの理屈をつかむのが少し苦手で、そこさえ教えれば応用は自分でこなせるタイプだった。
一方、和花は正反対で、公式や理屈はしっかり覚えているものの、応用問題で手こずるタイプだった。
(20位っていうの、本当みたいだな)
心愛さんはつまずくこともなく、すらすらと問題を解き進めていった。
ごくたまに聞いてくるのは、こちらも少し迷うくらい難しく、厄介な問題ばかりだった。
俺がわざわざ気にかける必要はなさそうだった。
こうして、平和に夏休みの宿題を進めていた最中のことだった。
ピンポーン——
インターホンの音が鳴った。
心愛さんがすぐに立ち上がり、インターホンのモニターを確認した。
「へえ、この人が蓮様の元カノ? 可愛いですね! しかもおっぱいすっごく大きい!」
画面越しとはいえ、初対面の相手に失礼なことを……。
まあ、結月のいちばん目を引くところだから、そう言われるのも無理はないが。
心愛さんがドアを開け、すぐ玄関先へ出ていった。
俺たちも続いて出ると、ほどなく、エレベーターから降りてくる結月の姿が見えた。
「は、初めまして。北山結月です」
結月が丁寧にお辞儀をして心愛さんに挨拶した。
本物のアイドルを前にしているせいか、結月にしては珍しく緊張しているようだった。
心愛さんはにっこり笑って応えた。
「あたしは地雷ちゃんシンドロームの心愛だよ! よろしくね、ゆずさん!」
「ゆ、ゆずさん?」
「可愛いじゃないですか」
「はあ……」
なんだか既視感のある会話だった。
やがて、結月が俺の方をじっと見つめた。
彼女は何か言おうと口を開きかけたものの、結局、そのままうつむいてしまった。
「急に呼び出してごめん、北山さん」
「う、ううん。むしろ呼んでくれてありがとう……」
「タクシー代、いくらかかった?」
「大丈夫。最近お小遣い使うことがほとんどなくて、結構余ってるから」
結月は、以前より少し痩せたように見えた。
……もしかして俺のせいか。
胸の奥が、静かにざわついた。
そのときふと、結月が手に提げているドンキの袋が視界に入った。
(何か買ってきたのか?)
ああ、お菓子か。
確かに、これも一応は勉強会だしな。
結月はもともと甘いものが好きだったし。
俺がそんなふうに勝手に納得していると、結月が今度は和花のほうへ視線を向けた。
「……なんだか久しぶりな気がするね」
「う、うん……」
この前の海旅行でも出くわしたが、あの時結月は俺のことばかり気にしていて、和花とは一言も言葉を交わさなかった。
まあ、そもそも和花がパニックに陥っていたのが大きかったが。
続いて愛理が声をかけた。
「私とは二日ぶりかしら」
「……はい、そうですね。私の無理なお願いを聞いていただいて、ありがとうございます」
「いいのよ。最終的に決めたのは蓮くんだから」
堂々としている愛理とは対照的に、結月はひどく萎縮していた。
そのせいで、場の空気は一瞬にして凍りついた。
そのとき、心愛さんがぱっと結月の手を取った。
「さあさあ、ゆずさん、早く入ってください! ゆずさんのために綺麗に掃除したマイホームですよ?」
「それ、私たちが全部片付けてあげたんじゃないですか!! 何をさりげなく自分がやったみたいに言ってるんですか!!」
「えへっ」
気まずい空気が、嘘みたいに消えた。
おそらく、心愛さんがわざと割って入ってくれたのだろう。
結月は恐る恐る「お邪魔します……」と言って、家の中へ足を踏み入れた。
リビングに入るなり、テーブルに目を留めた。
「宿題してたの?」
「ああ。北山さんはもう全部終わらせてるだろ? いつも休みに入ったら、すぐ終わらせちゃうタイプだし」
「う、うん……。覚えててくれたんだ」
嬉しかったのか、結月の口角がわずかに上がった。
なんだか、付き合い始めたばかりの頃に戻ったみたいな、初々しい空気が流れた。
——その時だった。
心愛さんが、結月の持つドンキの袋を指さした。
「お菓子買ってきたんですか? あたしも食べていいですか?」
「え? お菓子じゃないんですけど……」
「え? そうなんですか? じゃあ何ですか?」
「そ、それが……」
結月はちらりと俺を見てから、答えた。
「メイド服……」




