第79話 アイドルのきっかけ
翌日。
みんなで夏休みの宿題をするため、心愛さんのマンションへ向かった。
さすがに俺の部屋じゃ手狭だし、アイドルが男のスポンサーの家に長居するのも、いろいろまずい気がした。
……もっとも、男のスポンサーがアイドルの家に上がり込むのも、十分おかしいのかもしれないが。
「蓮様~」
エレベーターを降りた途端、今日も心愛さんは、遠くの誰かを呼ぶみたいに両手をぶんぶん振っていた。
この子は客が来るたび、いつもこんなふうに大げさなくらい出迎えるんだろうか。
それにしても、様付けはすっかり定着してしまったらしい……。
「今日、心愛のために宿題を代わりにやってくれるって聞いて、心愛、大感動です!」
「代わりにやるとは言ってませんよ? 手伝うとは言いましたけど」
「冗談ですよ、冗談~。でも本当にびっくりしました! まさか蓮様がまだ高校生だなんて」
「内緒でお願いしますね。どうやらこの業界じゃ、年齢のせいで舐められることも多いので」
「もちろんです! 心愛くらい口が堅い女はいませんからね!」
そういう奴に限って、本当に口が堅かった試しがないんだけどな。
「さあさあ、入ってください。皆さんは、あたしの家に二度も来てくれた、記念すべき初のリピーターさんですよ!」
どうやらマネージャーは一度来て、ドン引きしたまま二度と来ていないらしい。
そりゃあ、あのゴミの山を見たら、二度と足を踏み入れたくないだろう。
ところが、家の中に足を踏み入れた俺たちは、思わず目を丸くした。
真っ先に叫んだのは、やっぱり和花だった。
「ち、ちょっと、数日しか経ってないのに、なんでまたこんなに散らかってるんですか!?」
そう。たった三日で、心愛さんの部屋はまたひどい有様になっていたのだ。
もちろん、前のようなゴミ屋敷レベルではない。
それでも、脱ぎっぱなしの服や、食べ終わったコンビニ弁当の空き容器があちこちに転がっていた。
「あ、いや~」
心愛さんは気まずそうに笑って、ぽりぽりと頭を掻いた。
自分でも恥ずかしいのだろうか。
忙しいのもあるんだろうが、ここまでくるともはや性分なんだろう。
「なんでその都度片付けないんですか!? せめて洗濯物くらいはちゃんとカゴに入れてくださいよ!!」
「い、忙しくて……」
「ゴミをゴミ箱に捨てて、洗濯物をカゴに入れるだけなら、十秒もかからないでしょう!? 言い訳しないでください!!」
「はい、すみません……」
主婦モードに切り替わった和花が、即座に服やゴミを片付け始めた。
……一人暮らしを始めたばかりの子どもの部屋に乗り込んで、小言を並べる母親みたいだった。
もっとも、量自体は大したことなかったので、あっという間に片付いた。
「分かりましたか、心愛さん!? アイドルは見えないところでも綺麗にしなきゃダメなんですよ!」
「は、はい、すみません……。精進します……」
「和花、もうそのくらいにしておけ。心愛さん、目が死んでるぞ」
「え?」
心愛さんは魂の抜けた目をして、「すみません、精進します……」と呪文のようにつぶやき続けていた。
「わ、私、ちょっと言いすぎたかな?」
「いや、いい薬になったと思うぞ」
「そ、そう?」
たぶん、誰かに見られる機会がないからこそ、掃除する気になれないのだろうな。
心愛さんを救うためにも、もっと彼女と距離を縮めなきゃいけない。
今後もこんなふうに、彼女の家へ立ち寄る機会は増えるだろう。
……現役アイドルと親しくなる、というミッション自体、なかなかハードルが高い気がするけど。
「そういえば、心愛さん。ひとつ気になっていたことがあるんですけど」
「はい?」
「少し失礼な質問かもしれないんですけど……。お父さんとは一緒に住んでいないんですか?」
実は、前に来たときから少し気になっていた。
この家には、心愛さん以外の誰かが住んでいる気配がまるでなかった。
「あ……。実は、あたし一人暮らしなんです」
「え? そうなんですか?」
高校生の一人暮らしだって簡単じゃないのに、中学生が?
「はい。両親が離婚したあと、パパはあたしをアイルランドに連れて行こうとしたんです。でも正直、あたしは日本生まれの日本育ちなので、アイルランドのことも、言葉もよく分からなくて……。それに何より、日本には会いたい人がいるんです」
「会いたい人ですか?」
「はい。だからパパに何度も頼み込んで、あたしだけ日本に残らせてもらったんです」
どうやら心愛さんの父親はアイルランドで仕事をしているらしい。
事情は分からないが、離婚で傷ついたであろう娘の願いを、父親なりに受け止めたのだろう。
ただ、それなら……。
「もしかして、アイドルをやっている理由って、その会いたい人なんですか?」
「はい! この話、実はマネージャーにもしたことがないので、秘密ですよ?」
心愛さんは「ふふっ」と笑い、人差し指を立てて唇に当てた。
「なるほど、そういうことね」
愛理がコクコクと頷いた。
「つまり、その会いたい人って、美代子さんの好きな人ってこと?」
「えっ!? そ、それは皆さんにも言えない、心愛のとっても大事なプライバシーです!!」
「ふーん……。初恋の相手ね」
「だ、だ、だからプライバシーですってば!!」
心愛さんの顔が真っ赤になり、両腕をぶんぶんと振り回した。
これ、どう見ても図星だよな。
和花がニヤニヤと笑った。
「えー、なにそれ。初恋の男の子を探すためにアイドルやってるの? すっごく純情じゃない!」
「だ、だからノ、ノーコメント……」
「でも、星の数ほどある選択肢の中で、なんでアイドルなの?」
「実は、その人の顔は覚えてるんですけど、名前がうろ覚えで。昔、隣に住んでいた子なんです」
「へえ、幼馴染ってことですか?」
「ま、まあ? 小学校の頃に半年くらい仲よくしていたので、幼馴染って言ってもいいんじゃないですかね?」
そうか……?
俺と結月ほどじゃないにせよ、幼馴染って、少なくとも何年か一緒に育ってこそ呼ぶものじゃないのか。
とはいえ、明確な定義があるわけじゃないので、適当に聞き流した。
和花の目がキラキラと輝いた。
「そういうのロマンチックですね! 有名になれば、好きな人が見つけてくれるかもしれない――って、完全に漫画じゃないですか!」
「す、す、好きな人だなんて一言も!」
「それでそれで、その人の特徴とか、何かないの?」
「うーん……。特に特徴ってほどのものはないんですけどね。本当に普通の顔立ちだったので。あたしより年上だったことと、あだ名が『こっくん』だったことくらい?」
『こ』から始まる名前なんて、多すぎないか……。
パッと思い浮かぶだけでも、コウタとかコウスケとか。
そもそも本人だって、いろいろ調べても見つからなかったからこそ、アイドルという手段を選んだのだろう。
(それにしても、かなり意外な動機だな)
正直、きっかけはアイドルへの漠然とした憧れか、あるいは金のためだと思っていた。
まさか恋心が理由だとは思いもしなかった。
和花が質問を続けた。
「どんなところに惚れたんですか!?」
「だ、だからそういうのじゃないですってば!」
心愛さんがここまで恥ずかしがるのを見るのは、本当に初めてだった。
ファンが見たらどんな気分になるだろうかと、ふと思った。
一方で、鼻息を荒くして恋バナに食いつく和花を見ていると、こういうところは年相応の女の子なんだなと思う。
「じゃあ、どうしてその人にもう一度会いたいと思ったんですか?」
「そ、それは……。実はあたし、小学校の頃、時々いじめられていて」
「え? い、いじめ……?」
「あ、そこまでひどいものじゃないですよ! 今思えば、あたしがいろいろ目立っていたから、疎ましかったんでしょうね。でも、あの頃はちょっとつらくて……」
「その人が助けてくれたんですか?」
「はい! たまたま通りかかって、一度だけ大声で相手を叱ってくれたんです。でもあの時、あたしを助けようとしてくれる人は誰もいなかったから。それだけで、すごく救われたんです」
今でこそ、人目を引く容姿も生まれつきの赤髪も、アイドルとしての武器になる。
けれど子どもの頃は、それがむしろ彼女を孤立させる理由だったのかもしれない。
もしかすると、今の中学校でも似たような理由であまり友達を作れていないのかもしれない。
俺は小さく笑いながら言った。
「ぜひ、その人と再会できるといいですね」
「はい! ありがとうございます!」
「でも、もしその人と再会できたら、そのあとはどうするつもりなんですか? 目的達成したから、そのままアイドルを引退するんですか?」
「え? そ、それは……」
「いや、別にそれが悪いってわけじゃなくて、ただ気になっただけです」
俺の目標はあくまで、心愛さんが覚醒剤で命を落とさないようにすることだ。
アイドルを続けさせることじゃない。
むしろ、アイドルを辞めればその未来はあっさり回避できるんじゃないか――そんな考えすらよぎった。
「うーん……。たしかにきっかけはそうだったかもしれません。でも今は、アイドルっていう仕事そのものが楽しいんです。だから、たぶんこのまま続けると思います!」
心愛さんがニコッと笑った。
まあ、せっかくアイドルとして軌道に乗り始めたのに、辞めてしまうのはもったいないだろう。
「なるほど。じゃあ、そろそろ宿題始めましょうか」
「はい! ちなみに、蓮様は勉強得意ですか?」
「まあ、そこそこですかね。少なくとも苦手ではないですけど」
「おぉ~、何位くらいなんですか?」
「一学期は三位でした」
心愛さんだけでなく、和花までもが目を丸くしていた。
ただひとり、愛理だけは知っていたかのように平然としていた。
……俺から話した覚えもなければ、成績個票を見せた記憶もないのだが。
「あたしも20位だから結構できる方だと思ってたのに、蓮様はずっと上をいってるんですね!」
「20位ですか? アイドルの仕事と両立してるのに、勉強する時間なんてあるんですか?」
「学期中は自主練のあと、寝る前に毎日一時間くらい勉強してるんです! でも夏休みに入ってから急に仕事が増えちゃって……。正直、最近はほとんど勉強できてなくて。だから、蓮様が一緒に宿題をやろうって言ってくれて、本当に助かりました!」
話を聞けば聞くほど、少し気の毒になった。
さっき部屋に転がっていたゴミを見る限り、食事もコンビニ弁当で適当に済ませているのだろう。
こんな過酷な日々が積み重なれば、そのストレスがいつか彼女を覚醒剤へ追い込む――そんな気がしてならなかった。
「ふーん……」
すると、愛理が腕を組み、片手を顎に添えた。
「美代子さん、もしかして忙しすぎる時、メイドがいたらいいな、って考えたことない?」




