第73話 プライドの主導権②
結月は夏合宿での映像を見て以来、食事も喉を通らず、部屋に引きこもっていた。
(私、このまま蓮と別れなきゃいけないの……?)
幼稚園の頃から笑い合い、泣き合い、時には喧嘩もした——そんな彼との日々が、走馬灯のように脳裏をよぎった。
もはや、彼のいない人生など考えられなかった。
なのに、その彼を、自分から裏切ってしまうなんて。
蓮がどれほど大切だったのか、こんな形でしか気づけないなんて。
振られて初めて、その重さを思い知った。
「蓮、蓮……」
会いたい。
彼の温もりを直接感じたい。
彼に求められたい。
彼のためなら、本当に何だってできる気がした。
結月は顔を枕に埋めたまま、むせび泣いた。
その時、部屋のドアがかすかに開いた。
「結月……?」
泣き声を聞きつけた母のあゆみがそっと近づいてきて、背中に手を置いた。
「まだ蓮くんのこと、諦めきれないのね……」
「無理だよ、そんなの。これから先、蓮のいない人生を送るなんて、到底耐えられない。私には絶対に蓮が必要なのに……なのに私自身が蓮にひどいことばかりして……!」
「落ち着きなさい。蓮くんを裏切るのは、今のあなたじゃないでしょう」
「でも未来の私じゃん……! 私はそんなことをしてしまう女なんだから……!!」
結月は、生まれて初めてこれほど深い自己嫌悪に沈んでいた。
ずっと勘違いをしていたのかもしれない。
彼氏も、夢も、友達も。自分はすべてを手にした側の人間なのだと、疑いもせず信じていた。
あゆみはわざと厳しい口調で言った。
「しっかりしなさい、結月。今こうして泣いたところで何も変わらないわよ」
「それはそうだけど、今の私にできることなんてある? 何もないじゃない」
「ないわけないでしょ。蓮くんが死んだとでも言うの? それとも遠い外国へでも行っちゃったの? 違うでしょ? まだ近くにいるんだからチャンスはある。大事なのは、あなたが蓮くんの立場で考えてみることよ」
「蓮の立場で……」
「そう。よく考えてみなさい。一学期の間、自分の感情ばかり蓮くんにぶつけていたんじゃない? ちゃんと蓮くんの立場になって考えたこと、あった?」
「そ、それは……」
結月は言葉に詰まった。
突然、彼らしくない要求を突きつけられた上に、別れまで告げられた。
そのショックが大きすぎて、彼にすがるだけで精一杯だった。
蓮が本当は何を望んでいるのか、そこまで考えが及ばなかったのだ。
あゆみは結月の肩を掴んで、そっと上半身を起こさせた。
「よく聞きなさい。本当にどんな手を使ってでも蓮くんと一生を共にしたいなら、今考えるべきなのはヨリを戻すことなんかじゃない」
「じゃ、じゃあ……?」
「口実は何だっていい。まずは、とにかく蓮くんのそばにいなきゃダメ。予定も全部、蓮くんに合わせるの。自分が変わったってことを、見せ続けなさい。理不尽だと感じても、献身的に尽くすのよ。当然だけど、その時も蓮くんの気持ちを絶対に優先して」
「う、うん……。でも、どうやってそばにいればいいのかすら分からないよ」
蓮は結月を避け続けている。
それどころか、顔を合わせるだけで、あからさまに気まずそうだった。
変わった姿を見せる以前に、すでにマイナスからのスタートなのではないか――結月はそう思わずにはいられなかった。
「今、蓮くんの周りに他の女の子が二人いるでしょ?」
「うん……。和花と菅原先輩……」
「まずはその二人に認めてもらいなさい」
「え? で、でも、私ってその二人からすれば恋敵なんじゃないの? 認めてもらえるのかな?」
「恋敵だとしても、その二人はよく一緒にいるじゃない? なら、あなたも上手くやればその中に入れるはずよ。もちろん、大事なのは下手に嫉妬しないこと」
あゆみの言いたいことは、結月にもある程度わかった。
だが、言うのは簡単でも、実際にそう振る舞うのは容易ではないと感じていた。
「別にその子たちと仲良くしなさいって言ってるわけじゃないの」
「それなら……?」
「とにかく、まずはその二人と話す機会を増やしなさい。あなたが変わったってことを見せるの。そうすれば、蓮くんの耳にも入るかもしれないでしょ?」
急がば回れ。
あゆみの言葉を、結月はようやく理解した。
「分かった、お母さん。私、もう一度だけ努力してみる。今度こそ、本当に蓮だけのための女になってみせる」
「そうよ、結月。あなたは私譲りの容姿なんだから、絶対に蓮くんとまたうまくいくはずよ」
「うん! 私、絶対に蓮の赤ちゃんを身ごもってみせる!」
あゆみは母親として、その宣言に複雑な思いを抱いた。
それでも、再び目標を得て活気を取り戻した娘を見て、小さく微笑むだけだった。
◇
愛理は結月の提案に目を見開いた。
「北山さん、今自分が何て言ってるか分かってる?」
「分かっています。私みたいな最低の女に、蓮の彼女でいる資格なんてないと思っています」
「言ってること、矛盾してない? ヨリを戻したくて、ハーレムに入れてほしいって言ってるんじゃないの?」
愛理から見て、結月の独占欲は相変わらず強いように見えた。
和花とは違い、自分の男が他の女と関わるのを見た瞬間、怒りを抑えられないタイプだろうと。
「私はただ、そばにいたいだけなんです。ハーレムなんですから、もう一人くらい増えてもいいんじゃないですか?」
「北山さん。私は個人的に、ハーレムは量より質だと思ってるの」
「え……?」
「単に人数が多いからって、蓮くんが喜ぶとは思わないわ。いや、むしろ嫌がるはずよ」
そもそも蓮は、ハーレムなんて現実では不可能だと考えている人間だ。
だからこそ、今こうして愛理と和花を受け入れてもらうだけでも、かなり骨を折っているのだ。
なのに、ここで結月まで受け入れる?
愛理は、すべてが台無しになってしまう気がした。
(北山さんのせいで崩壊することだけは避けなきゃいけないわ)
結月はすでに、蓮を巡って和花と大喧嘩をしたことがある。
同じことが再び起きない保証はない。
いったんハーレムに入り込んで、そこから蓮を独占しようとしているのではないか、と愛理は疑っていた。
「……先輩が私を信じられないのも当然だと思います。特に先輩は、蓮の家で私がヒステリックになっていた姿を見ていますし」
「北山さんが蓮くんのことを本当に好きだってことは分かるわ。でも、正直に言って蓮くんの予知が気になるのよ。もちろん北山さんは、絶対にそんなことしないって言うだろうけど」
愛理がこれまで見てきた限り、蓮の予知は想像以上に強力だ。
今までのところ、予知された出来事は必ず起きている。
回避と言っても、実際には、起きる出来事の影響を最小限に抑えているだけ――そう表現した方が近い。
「長澤先輩のことは、私が必ず学校から追い出してみせます!」
「問題は、あの気味の悪い男だけじゃないわ。あの男も悪いけれど、一番の問題は北山さんが自分から浮気をしたという点よ。無理やりされたわけでも、脅されたわけでもないのに、体を許してしまうってことでしょ?」
「うっ……」
「こっそり浮気するかもしれない相手、なんてそれだけでもストレスでしょ? だから信頼が大事なのよ」
もちろん、まだ結月が実際に浮気したわけではないことは愛理も分かっている。
結月の立場からすれば、多少理不尽に感じても無理はない。
だが蓮からすれば、一ヶ月もの間、ずっと結月が寝取られる光景を見せつけられ続けたのだ。
それが、深刻なトラウマとして残ってしまうほどに。
もはや蓮の心には、彼女に対する一種のアレルギー反応が芽生えてしまったと言える。
どれだけ好物だった食べ物でも、アレルギーが出てしまえば、もう口にするのをやめるしかない。
「れ、蓮が私を彼女みたいに可愛がってくれたり、優しく接してくれるなんて期待していません。雑に扱ってくれても構いません。ただ、そばにいさせてほしいんです」
「ふーん……。私や和花さんが蓮くんとキスしたり、それ以上のことをしているところを見ても、平気だっていうの?」
「む、むしろ私が手伝います。後片付けも全部、私がやります。私をただのメイドみたいに使ってください。だから、お願いです。そばにいさせてください」
結月はもう一度、深々と頭を下げた。
愛理は何も言わず、コーヒーを一口飲んだ。
「メイドね。確かに蓮くんなら、メイドが一人くらいいてもおかしくないわね」
「そ、そうですよね? メイドならご主人様や奥様の言葉に絶対服従ですから安心じゃないですか?」
「まあ、小説とかでは主人を裏切るメイドもよく出てくるけど」
「うっ……」
「でも、ひとまず蓮くんには話しておくわ」
結月が、はっと目を見開いた。
「ほ、本当ですか!?」
「あくまで話を通しておくだけよ。説得まではしないわ」
「ありがとうございます、ありがとうございます……!」
愛理は、カップを置きながら考えた。
今の結月は、どうにかして蓮と再び接触しようとするだろう。
だが、そのたびに蓮のトラウマは蘇るはずだ。
その余波は、結月だけでなく、自分や和花にも及ぶ。
(北山さんを上手くコントロールするのよ)
みんなにとって、プラスになる形で。
◇◇
ラブホに着くなり、和花は見るからに身がこわばっていた。
初めて俺の部屋に来たときと、まったく同じ顔だ。
「い、意外と綺麗ね。ぱっと見は普通のホテルみたい」
「まあ、ラブホもピンキリだからな。でも、こういうところに差が出るんだよ」
ベッドヘッドの棚に手を伸ばした。
スマホの充電器や照明の操作パネル、電話機などが並ぶ中から、ラブホならではの物を手に取る。
つるりとしたビニールに包まれた、小さく平たい四角いあれだ。
和花に見せると、彼女の顔はたちまち真っ赤に染まった。
「ふ、普通はこういうところに来たら、これが必要よね?」
「まあ、そうだな。もちろん別の用事で来る人もいるみたいだけど」
「ふ、ふーん……。でも、私たちにはこれ必要ないじゃない」
「そうか?」
確かに、今日はディープキスだけのつもりだった。
そう思っていた俺に、和花は思いがけない答えを投げかけてきた。
「か、勘違いしないでよ! あ、あんたになら、その……。これを使わなくても、全部受け止めてもいいって意味だから!!」
ラブホでそのセリフは、さすがに反則だと思った。




