第6話 解消
週末が明け、月曜日を迎えた。
忌まわしいNTRの『悪夢』にうなされることもなく、久しぶりに清々しい朝を迎えられた。
結月からは、特に連絡もない。
たぶん、彼女ももう俺に愛想が尽きたんだろう。
不思議なことに、あれだけ好きだったのに、未練は欠片も残っていなかった。
ベッドに寝転がったまま、証券アプリを開いた。
その瞬間——
「れ、蓮……?」
制服姿の結月がドアを細く開け、隙間からおずおずと声をかけてきた。
もう二度と顔を見せないと思っていたのに。
(そうだな、ちゃんと謝っておこう)
今さらながら、訴えられても文句は言えない。
もう俺と彼女は、何の関係もない。
なのにラブホに連れ込んだなんて——軽率どころじゃない。
俺は深く頭を下げた。
「結月、昨日は本当にごめん。反省してる。俺、どうかしてた」
「ほ、本当? 本当に?」
結月がパアッと顔を輝かせ、ドアを大きく開けて中へ入ってきた。
「昨日の蓮、すごくおかしかったんだよ!私、ちょっと怖かったんだからね?」
「二度としない。本当にごめん」
「うん、約束だよ?」
幼い頃のように、彼女と指切りをした。
俺はこの約束を、絶対に守る。
今後、彼女を抱くことも、再び心を許すことも——もう、ない。
徹底的に赤の他人として接していくつもりだ。
「それに、私だって……蓮の子ども、別に産みたくないわけじゃないよ?責任を持てるようになったら、ちゃんと産むから。蓮にだけ全部背負わせるなんて不公平だよね? 私たち二人で一緒にやっていこうよ」
結月が耳まで真っ赤にして、小さな声で言った。
昔の俺なら、可愛いとか愛おしいとか思っていただろう。
だが今の俺には、ただ取り繕ってるようにしか見えない。
(まだ俺と付き合っていると勘違いしているのか)
やっぱりちゃんと別れ話を切り出さないとな。
そう思って、口に出しかけた瞬間——
「じゃあ、私もう行くね!ごめん、今日は写真部の用事があって、一緒に行けそうにないの!」
「あ、ああ」
俺はむしろ安堵した。
このまま結月と手を繋いで登校するなんて、途中で吐くかもしれない。
正直、こうして顔を合わせているだけで、『悪夢』が何度もフラッシュバックしてきて、吐き気がこみ上げてくる。
結月が帰った後、俺は登校の準備を済ませて一階へと降りた。
母さんが朝食を食卓に並べながら言った。
「今日は結月ちゃんと一緒に行けなくて残念ね」
「あ……。母さん、結月のことなんだけど、俺、今日中に別れるつもりだ」
「え? そうなの?」
「詳しいことは話しにくいんだけど……。これから結月が家に来ても、家に上げずに追い返してくれないか?」
うちと結月の家は、家族ぐるみの長い付き合いだ。
だから母さんも困るだろうと思っていた。
結月を実の娘みたいに可愛がっているし、むしろ俺が怒られるだろう——そう覚悟していた。
「わかったわ。蓮がそう決めたなら、そうするわ」
「……いいの? いつも母さん言ってたじゃん。俺には結月がもったいないって」
「蓮はずっと隠してるつもりかもしれないけど……」
母さんがニコッと笑って言葉を続けた。
「蓮の勘がどれだけ鋭いか、分かってるのよ?そんなあなたが自分から結月ちゃんと別れるって言うんだから、きっと何か理由があるんでしょう。たぶん、またそういう夢でも見たんじゃない?」
「母さん……。いつから気づいてたの?」
「正確なことは分からないわ。でも、あなたが小学生の頃かしら。みんなで車に出かける日だったわね。あなたが『お父さんが自転車を轢いて人を殺す』って泣き喚いて、行くのを拒んだ……あの時からよ」
あ、俺もかすかに覚えている。
あの頃はまだ幼くて、自分の能力を隠すなんて頭はなかった。
だから俺は、父さんが人身事故を起こすのを防ごうと、当時なりに必死だったのだ。
「あの時は、私もお父さんもただの悪い夢だろうと思ってたんだけど……本当に急に自転車が飛び出してきて、間一髪で避けられたじゃない。お父さんがあなたから話を聞いて、ずっと注意して見てたおかげだったのよ」
「……そうだったんだ」
うちの家族は、それでも俺の味方なんだな。
その事実が、鼻の奥をツンとさせた。
◇
教室に入ると、高木が、
「おっす」
と軽く挨拶してきた。
「今日、お前ちょっと顔色がよくなったな」
「そうか?」
「最近のお前、マジで死にそうな顔してたじゃん。本当にどこか大病でも患ってるのかと思ったぜ?」
まあ、病気といえば病気か。
高木がこんなに心配するくらいだから、よっぽど酷かったんだろう。
「ある程度、解決したんだ」
「そうか?それならよかった」
本当にいい奴だ。
中学の時、頭上に落ちてきた植木鉢からこいつを救った。
あれが、仲良くなるきっかけだった。
結月とは破局だが、それでもこの予知能力が結んでくれた縁は、大切に思えた。
そうして午前中の授業をこなし、気づけば昼休みになっていた。
「結月」
別れを切り出すために彼女に近づいた。
だが、彼女は急いでどこかへ行こうとしている様子だった。
「ごめん! 今日、写真部の用事がまだ終わってなくて!急ぎの用?」
「いや、そこまで重要なことじゃない」
「本当? じゃあ私行くね! 後で話そう!」
付き合う前から、いつも一緒に昼を食べていた。
けど、別に寂しくはなかった。
むしろ、吐き気に邪魔されずに昼飯を食えそうで安心した。
高木が俺に近づいて声をかけてきた。
「フラれたか?」
「だな」
「今日は俺と学食でも行くか?」
「ああ」
久々に彼と昼食をとり、午後の授業を受けた。
そして放課後になり、再び結月に近づいた。
「ちょっと話があるんだけど」
「え?写真部の用事でちょっと急いでるんだけど……後で家じゃダメ?」
「そうか?今日の写真部、そんなに忙しいのか?」
「今日誕生日の人がいて、みんなでサプライズすることになったの! だからバレる前に早く準備しなきゃいけなくて」
「……ふーん、そうなんだ。その誕生日の人って誰?」
「長澤先輩!」
なるほど。
こういうふうに、奪われていくのか。
無理やり押し倒すとか、そういうのではなく、日常の隙間に忍び込んでくる――ただ、それだけのことだ。
「それなら仕方ないな。用件だけ短く言うよ」
「わかった! なに?」
「俺たち、別れよう」
「……え?」
「言いたいことはこれで全部だ。じゃあな。もう俺たちは他人だ。部活が終わっても家に来るなよ。朝も迎えに来なくていい」
結月だけでなく、周囲のクラスメイトたちも驚きに凍りついていた。
俺と結月はクラスの公認カップルだったのだから、無理もないだろう。
俺は鞄を持って教室を出た。
「ま、待って!」
廊下で結月が俺の腕を掴んだ。
「ど、どうしてそんなこと言うの? 私が何か悪いことした……?」
「別に結月が悪いわけじゃない。ただ、俺が勘違いしてただけなんだ」
結月と結ばれる『運命』の男は俺だと思っていた。
だが、俺ではなく長澤先輩だった。
ただそれだけの話だ。
「じゃ、じゃあなんでこんなこと言うの! やっぱりラブホの件のせいだよね!?」
「まあ、そういうことにしておいてくれ」
「なによ、その言い方……。はっきり言ってよ!!」
「俺、何度も言っただろ」
なんなら俺の能力についても週末に教えた。
だが、信じなかった。
何度も長澤先輩について警告したが、すべて無駄だった。
「結月、お前にふさわしい男がいる。今から連れてってやるよ」
「え?何……?」
俺は足早に歩き出した。
結月が俺の腕を掴んだまま、必死についてきた。
たどり着いたのは、写真部の部室。
「どうして、ここに……?」
俺は答えず、ドアを開けた。
中にはバースデータペストリーやロウソクを立てたケーキ、いくつかのプレゼント箱が飾られていた。
そして、サイズの合っていない小さな三角帽子を被った長澤先輩の姿があった。
和気あいあいとした雰囲気の中に俺が乱入したことで、部員たちの動きが一瞬止まった。
「長澤先輩、誕生日おめでとうございます」
「お、おう……。お前は北山の彼氏だったか?」
「はい。誕生日プレゼントを渡しに来ました」
「俺に?」
俺は無言で頷き、背後にいる結月の腕を掴んで強引に前に引きずり出した。
そのまま両手でその背中を押し——全力で突き飛ばした。
「きゃっ!」
結月が長澤先輩の胸へと倒れ込んだ。
先輩は慌てて彼女の肩を掴み、受け止めた。
「俺からの誕生日プレゼントです。あ、ちなみに今日から俺は結月の彼氏じゃありません」
「れ、蓮!?」
彼女の声は無視した。
どうせ俺が何を言っても無駄なのだから。
「結月のことは、もう先輩の好きにしてください。もう先輩のものですから。その代わり、返品は禁止です。それじゃあ、これで——」
俺は部室のドアを閉め、立ち去ろうとした。
その時、ふと思いつき、最後に一言だけ付け加えた。
「ああ、そうだ。誕生日記念に、そのライカのカメラに入ってるデータで、みんなで鑑賞会でもしたらどうですか?先輩、女の子の写真を撮るのがすごくお得意らしいじゃないですか」
俺の言葉に、長澤先輩と部長が同時にビクッと肩を震わせた。
結月の「蓮!? 蓮!!」という叫びと、床に崩れ落ちる音が背後から聞こえた。
それでも、俺は振り返らなかった。
廊下を歩きながら、俺は大きく背伸びをした。
(ああ……清々しい)
背中にのしかかっていた重しが、すっかり取れたような気分だった。
◇
その日の夕方、結月は俺の部屋に来なかった。
母さんが追い返したのか、それとも最初から来なかったのかは分からない。
ともかく、久しぶりにゆったりとした夕方の時間を過ごせた。
やがて夜も更け、証券会社のアプリを開いて確認した後、眠りについた。
もう何の関係もない結月が、せめて夢には出てきませんようにと、静かに目を閉じた。
だがその夜、俺は再び『悪夢』を見た。
結月ではなかった。
金髪のショートボブをした少女が、夢の中に現れた。
ただ、その少女が――俺の目の前で車に撥ねられ、頭から血を流して倒れ込む姿だった。




