第5話 疑心暗鬼のデート
不快な汗が肌をじっとりと濡らし、俺は目を覚ました。
今回の悪夢は――結月が長澤先輩の子を身ごもり、その責任を俺に押し付けてくる。
破滅を回避しようと足掻けば足掻くほど、事態は泥沼へと沈んでいく。
(俺にどうにかできる方法なんてないんだ)
まさにお手上げだ。
こんなことになるくらいなら、最初から付き合わなければよかったとさえ思う。
考えようによっては、この予知能力のおかげで他人の子を育てさせられるっていう最悪の展開だけは避けられそうだ。
(……そうだな、前向きに考えよう)
結月は俺と結ばれる『運命』じゃなかったんだ。
俺なんて、ただの通りすがりに過ぎない。
彼女は俺じゃない男を選ぶ。
今の俺にできるのは、諦めることだけだ。
(初恋は実らないってよく言うけど……)
まさかこんな形で幕を下ろすことになるとはな。
自然とため息が漏れた。
それでも、重荷を下ろしたような解放感が、じわりと込み上げてきた。
結月がどうなろうと、もう俺には関係のないことだ。
そう思って、日課の証券アプリを開こうとした――そのとき。
「蓮!今日、私とデートする約束忘れてたでしょ!?」
突然、結月が部屋のドアを開けて入ってきた。
腰に両手を当てて、ぷりぷりと怒っている。
そういえば今日は週末。
デートの約束……だったっけ。
正直、気が進まない……。
「ああ、忘れてた」
「堂々と言い過ぎ!ほら、私はもう準備できてるんだから、早くして!このままじゃ映画館に遅れちゃう!」
「いや、もう――」
今日のデートはやめよう。
そう口にしかけたのに、結月はバタンとドアを閉めて出ていった。
仕方なく、出かける準備を始める。
気乗りなんて、もう欠片もない。
身なりは適当でよかった。
以前なら俺なりに気合いを入れてお洒落をしたものだが、今はそんな気力すら残っていなかった。
「なんか今日の蓮、全然気合い入ってなくない?」
一階へ降りると、結月が俺の格好を見て不満を漏らした。
確かに、彼女はメイクも髪のセットも服も、すべてに気合が入っていた。
白のシャーリングブラウスにライトブルーのデニムミニスカート。
そしてパステルカラーのカーディガンを軽く羽織っている。
「うっ……」
思わず呻き声が漏れる。
俺の脳裏に、あの忌まわしい写真が一瞬で蘇った。
長澤先輩が、デート中の結月を呼び出し、服装を乱した彼女を抱え込んでいる――あの写真が。
あの写真の中の私服が、今の格好と酷似していたのだ。
もちろん、元々彼女がこういう系統の服を好むことは知っているが、どうしてもあの光景を連想せずにはいられなかった。
急に吐き気がこみ上げた。
……やっぱり、結月とはもう一緒にいられない。
「……ごめん、やっぱり今日のデートはやめにしよう」
「え?え、映画のチケット代、私が払ったんだけど?」
「俺が返すよ」
財布から紙幣を抜き、結月の手に押しつけるように握らせた。
そのまま、再び二階へ上がろうとした。
だが、結月が俺の腕を掴んだ。
「ご、ごめん!私、言い過ぎたかな?別に本当に怒ってたわけじゃなくて……。映画代がもったいなくて言ってるわけじゃないよ。私は蓮とデートがしたくて……。その時間が大切だから……、ね?」
「……俺が、大切?」
「当たり前じゃん!私、蓮一筋なんだよ?」
以前なら嬉しくて可愛いと思えたこの言葉が、今ではただの汚い嘘にしか聞こえない。
ただ冷静に考えれば、今の彼女に“まだ”罪はないのかもしれない。
あまりにも冷たく突き放すのは、人としてどうなのだろうか。
「俺の方こそごめん。最近ちょっと、なんて言うか……。すごく気がかりなことがあって、一ヶ月近くまともに眠れてないんだ」
「どうりで最近、やつれて見えると思った!ちゃんと寝ないと体に悪いよ?今日のデートは、蓮がリラックスできることをメインにしよう」
「……ああ」
結月が俺の腕に絡みついたまま、家を出た。
映画館に到着し、彼女が予約していた映画を観た。
だが、内容はまったく頭に入ってこなかった。
途中、彼女がそっと俺の手の甲に触れてきた瞬間――鳥肌が立った。
それでも、できるだけ平静を装うよう努めた。
「あー、面白かった!蓮はどうだった?」
「ああ、まあ、面白かったよ」
「じゃあ、次はお昼ご飯にしようか?30分くらい並ぶみたいだけど、平気?あ、待ち時間用のベンチはあるって! 」
結月の明るい声が、やけに耳障りだった。
正直、長く会話をしたい気分ではまったくなかった。
「わかった」
適当に相槌を打ちながら、機械的に昼食をとった。
ほとんど彼女が一方的に話し、俺は心ここにあらずで返事をするだけの繰り返し。
これはもうデートではなく、ただの苦行だった。
昼食を終え、会計を済ませた。
「あ、私ちょっとお手洗いに行ってくるね!」
その一言に、俺の心臓は凍りついた。
まさか、この隙に長澤先輩のもとへ走るつもりか?
疑念――そのドス黒い感情が、俺の理性を急速に塗りつぶしていった。
結月がお手洗いの方へ小走りで向かい、そして戻ってきた。
どれくらい時間が経ったのか、感覚すらない。
「れ、蓮?どうしたの、顔真っ青だけど……?」
俺は無言で彼女の手首を強く掴んだ。
力加減などできなかった。
そのまま店を飛び出し、足早に歩き始めた。
結月の歩幅に合わせる余裕などない。
「れ、蓮!?な、何、急に!?い、痛いよ!」
「……ラブホ、行くぞ」
「え?もう?まだお昼――」
俺は立ち止まった。
そして、結月を睨みつけた。
「もう今日は、俺とはそういう気になれないってことか?」
「え?な、何言ってんの?」
「分かってるんだよ。そうか、もう長澤先輩とそういう関係になったんだな」
「何言ってるの!?私、浮気なんてしてないよ!ちょっとお手洗いに行ってきただけなのに、どうしてそんなこと言うの!?」
「お手洗い?……いや。長澤先輩に呼び出されて、飛んでいったんじゃないのか?」
「違う!蓮、どうしてそんなふうに考えるの!?」
「なら証明してみろよ。何しに行ってたのか」
「しょ、証明……?」
自分でも無茶な要求をしているのは分かっていた。
だが、理性よりも感情が先走ってしまう。
冷静でなどいられなかった。
「うがいをしてきただけだよ……。口の匂いが気になったから……」
「じゃあ、口、開けてみて」
「え?」
「嫌なのか?」
「わ、わかった!」
結月がおずおずと口を開けた。
俺は顔を近づけ、息の匂いを確かめる。
彼女は驚いたように一瞬体を震わせたが、じっとしていた。
「……確かに、マウスウォッシュの匂いがするな」
「蓮、最近ちょっとおかしいよ……。どうしてそこまで疑うの?」
「言ったって、分からないだろ」
俺が予知能力を持っていることは、誰にも話していない。
いや、そもそも話したところで信じてもらえるとは思えない。
「そんな言い方されたら、本当に意味わかんないよ!一体何なの!?」
「俺には未来が見えるんだ。そしてその未来で、お前は長澤先輩と浮気をする――そう言ったら、どうする?」
「何それ……?蓮、もしかしてどこか具合悪いの……?」
やはりまったく信じてくれない。
むしろ俺を怖がるように、体を少し後ろへ引いたくらいだ。
そりゃそうだ。頭のおかしい奴に見えるだろう。
「もう俺のこと嫌になっただろ?タクシー代出すから、今日のデートはここまで――」
「ち、違うよ!私、蓮のこと好きだよ!大好き!そ、そう、ラブホ行こう、ね?今日は私が何でもしてあげるから」
何でも。
その言葉に、俺は鼻で笑ってしまいそうになった。
何でもじゃないくせに、何でも。
うんざりだった。
こんなに退屈で、苛立たしいデートは、人生で初めてだった。
◇
ラブホの客室に入るなり、俺はすぐに結月をベッドの端へ追い込んだ。
「え!?れ、蓮、そんなに急いでるの!?」
「……じっとしてて」
ここにはもう、誰かの手が及んだ痕跡が残っているのではないか――。
震える手で、目に見える違和感を確かめようとした。
まるでパンドラの箱を開けるかのように。
だが、目に見える異変はなかった。
(まだ寝取られてはいないのか……?)
一瞬そう思ったが、断定はできない。
まだデート中に呼ばれたらすぐに飛んで行くほど、長澤先輩の言いなりになっているわけではないのかもしれない。
果てしない疑念が、俺の頭の中を渦巻いた。
(それでも、まだ奪われていないのなら……)
俺は結月を引き留めたかった。
彼女を、今度こそ俺のそばに繋ぎ止めたい。
そうだ。長澤先輩の言いなりになる前に、俺が先に手を伸ばせばいい。
もしかしたら、それで最悪の未来を回避できるかもしれない。
「結月。何でもって言ったよな?」
「う、うん……」
「なら、今日は俺のわがままを聞いてくれ」
「え、え?で、でも……それは、急すぎるよ」
俺は彼女の両手首を掴み、強く頭上へ押さえつけた。
「毎回、毎回……ッ!どうして俺にだけダメなんだよ!お前の彼氏は俺じゃなかったのかよ!?」
「ち、違うよ!蓮が私の彼氏だよ!わ、わかった!そ、それならできることはするから――」
「いや、今日は曖昧にしたくない」
「え?待って、蓮、何考えてるの!?」
結月が驚愕の表情を浮かべた。
「俺との子どものことは、そんなに嫌なのか?」
「そ、そういうことじゃなくて!早すぎるでしょ!!」
「責任を取るって言っても?」
「まだ私、夢も叶えてないし、今そんなこと決められないよ!お願い、今日はやめて!!」
彼女はとうとう泣き出してしまった。
その泣き声で、ようやく俺の頭が冷め始めた。
……ここまで嫌がるのか。
「俺じゃダメで、長澤先輩ならいいってことか」
「え……?」
「……今まで楽しかったよ。じゃあな」
「れ、蓮?」
テーブルにタクシー代として紙幣を数枚、無言で置いた。
そして、そのままラブホを後にした。
この日、俺ははっきりと確信した。
俺は決して、長澤先輩のようにはなれない。
結月は、あの男のものになる。
それが彼女の『運命』なのだ。
(ちゃんと、別れないとな)
帰宅した俺は、結月と撮った写真や思い出の品を、すべてゴミ箱へと放り込んだ。




