第4話 運命
翌日、俺は三年の教室へ向かい、写真部の部長を踊り場に呼び出した。
黒髪のポニーテールがよく似合う、どこか冷たい印象の少女だった。
部長は思いがけない訪問者を前に、きょとんと目を丸くする。
「あんた、確か……結月の彼氏、だよね?」
「はい。深川蓮です」
「それで、私に何の用?」
あの『悪夢』だけは、どうしても回避しなければならない。
そのためなら、プライドだろうが何だろうが、すべて捨てる覚悟があった。
――だから俺は、迷わず土下座した。
「お願いします、部長。この夏合宿、中止にしてください」
「えっ……ふ、深川くん?ちょっと、やめてよ」
「合宿そのものが中止にできないなら、せめて結月だけでも不参加にさせてください。お金ならいくらでも出しますから……」
「とりあえず立って。理由くらい聞かせてくれる?」
土下座から始めたのには、理由があった。
部長に真剣に話を聞いてもらえる雰囲気を作りたかったのだ。
普通に話しただけでは、俺の必死さは伝わらない。
「その……変に聞こえるかもしれませんが、不安なんです。二人きりじゃないとしても、長澤先輩と結月が一緒に旅行に行くのが……」
「あー、そういうことね。分かるわ。私だってそう思うだろうし」
意外と話が通じるのか?
俺は一縷の望みに賭けた。
「合宿自体の中止は難しい。……でも、日程は短くしてみる。二泊を一泊に。あと、男女は宿を分ける。完全に」
「こういうのはどうでしょう。男子部員と女子部員で、合宿を別々に行うっていうのは」
「うーん……。それも悪くないけど、費用がね……」
「足りない費用なら、俺が全額出します。こう見えて、貯金には余裕があるので」
「そう? それならいっか。分かった。その方向で進めてみるわ」
「ありがとうございます」
ここが落としどころだろう。
正直なところ、頭から突っぱねられるものと覚悟していた。
「もう一つ、お願いがあります」
「分かってる。長澤が結月に手を出さないように、私にも協力しろってことでしょ?」
察しがいい。
「はい。お礼は何でもしますので、どうか……」
「お礼なんていいわよ。結月は私にとっても可愛い後輩だから。結月みたいに真剣に写真と向き合ってて、実際にその実力も備わってるし。ゆくゆくは部長の座を譲ってもいいかなって思ってるくらいだから」
結月は俺が思っていた以上に、写真部の中で高く評価されているようだった。
写真の腕前は知っていたが、着実に実績も積んでいたのだろう。
「結月が無駄に男関係のゴタゴタで頭を悩ませて、才能を潰さないようにしてあげるのが、先輩としての務めじゃない?」
「部長……。本当に、何から何までありがとうございます!」
想像以上の成果だ。
その夜、俺はすがすがしい気持ちで眠りについた。
だが――悪夢は、再び訪れた。
展開は昨日と同じだ。
卒業式の日、写真部の部室。
長澤先輩がライカのカメラを片手に、俺へ何枚もの写真を見せつけてくる。
「いやあ、お前、部長に土下座までしたんだって? まじでウケるわ。部長も俺がずっと借りてた女だってこと、知らなかっただろ?そもそも、部長のせいで停学食らったってのによ」
カメラの液晶画面には、昨日よりもさらに多彩な写真が追加されていた。
そこに写っていたのは、結月と部長が、長澤先輩とただならぬ関係にあると分かる写真ばかりだった。
親しい先輩後輩という言葉では済まされない距離感。
俺が決して見たくなかった表情。
「二人同時にねだってくるの、まじでヤバかったぜ」
追加された写真以外は、昨日見た夢とまったく同じ展開だった。
俺は悔しさに歯を食いしばりながら、それでも身体の奥に残る嫌な熱を消せずにいた。
(道理で、あんなに協力的すぎると思ったんだ)
たぶん部長は長澤先輩を独占したくて、結月を牽制するつもりで手伝うと言ったのだろう。
だが長澤先輩はそれを余裕で突破し、3人揃って楽しむという領域にまで達していたのだ。
俺は歯を食いしばり、どうにか涙をこらえて次の手を考えた。
(そうだ、今度は男の味方を作ろう)
2年生の教室へ向かい、一人の男子部員を踊り場に呼び出した。
彼に白羽の矢を立てたのは、同じく写真部内に彼女がいたからだ。
俺は2年の男子部員に、長澤先輩、さらには部長との関係にまで踏み込んで話した。
「道理で二人の雰囲気が妙だと思ったよ……。何か他に根拠はないの?」
「もしかして、部室にライカのカメラってありませんか?」
「あるある」
「それで長澤先輩は、自分の女たちの写真を撮る趣味があるんです」
2年の男子部員は目を丸くした。
「だから、僕にそのライカのカメラには触るなって、部長がやけに怒ったんだな!」
「先輩、俺と協力して長澤先輩の魔の手から逃れましょう。このままだと俺も先輩も、悲惨な目に遭いますよ」
「確かにそうだな。分かった、僕にできることなら何でもするよ」
その後、2年の男子部員と毎日のように会っては作戦を練った。
最優先の目標は、長澤先輩を写真部から遠ざけること。
可能であれば、いっそこの学校に来させないようにすること。
しかし、ちょうど1週間後。
俺は再び『悪夢』を見た。
「急に1、2年の女子どもが俺を避けるから何かと思ったじゃねえか。まさかお前が裏で動いてたとはな。やるじゃん。ま、余裕だったけどな」
またしても、卒業式の日の写真部の部室で、長澤先輩がライカのカメラを片手に写真を見せつけてきた。
三人は、俺が想像していた最悪の形で長澤先輩のそばにいた。
乱れた服装、近すぎる距離、こちらを裏切るような表情。
その2年の女子部員は、協力してくれた男子部員の彼女だった。
その上、今回は動画まであった。
動画の中で、結月は撮影を嫌がっていた。けれど長澤先輩が冷たく突き放すと、彼女は追い詰められたように言葉を変えた。
俺ではなく、先輩を選ぶ。
そう口にしてしまった瞬間、動画の向こうの結月は、俺の知っている結月ではなくなっていた。
俺はまたしても写真部の床にへたり込んだまま、目が覚めた。
穿き替えることなど、もはや日常と化していた。
一方で俺は、長澤先輩が見せてきた動画から、ある事実に気づいた。
(嫌がることさえ、あいつは従わせる材料に変えている)
結月は動画の中で、はっきりと拒んでいた。
それなのに、最後には逆らえなくなっていた。
けれど、まだそうなる前には——
(無理やり襲ったんだ)
結月はそこまで力が強い方ではない。
男である俺すらも簡単に持ち上げてしまう長澤先輩に、素手で抵抗できるはずがない。
数日かけて知り合いのツテを頼って、女子でも扱える護身用の道具を手に入れた。
そして朝、結月に渡した。
「これ何……? スタンガン……?」
「うん、護身用だよ。もし無理やり誰かに襲われたりしたら、躊躇わずに使ってくれ」
「あ、うん、ありがとう」
結月は少し戸惑っていたが、これで長澤先輩も彼女を無理やり襲うことはできないはずだ。
どう使えばいいのかも、念入りに教えておいた。
しかし、その夜も俺は『悪夢』を見た。
卒業式の日の写真部部室。
展開はこれまでとまったく同じだった。
「……一つ聞きたいんですが、結月がスタンガンを使いませんでしたか?」
「スタンガン? 何言ってんの?」
「先輩が襲った時に、結月がスタンガンで抵抗しなかったのかって聞いてるんです!」
俺の怒鳴り声に、長澤先輩は呆れたように鼻で笑った。
「おいお前まさか、俺が力ずくでどうにかしたとでも思ってたのか? そんなことしてたら、俺はここにはいられねえよ。これ全部、お互いに納得した上でのことだぜ?」
「うっ……」
「前にもお前みたいな奴がいたな。警察に訴えたやつがいたんだよ。だが、無理やりだったと示す証拠は一つもないって結論になった。その後は、こっちが逆に訴えてやったけどな」
目を覚ました俺は、すぐに長澤先輩の言葉をノートに書き留めた。
彼の手口をまとめると、結局のところ結月は自ら望んで先輩に抱かれたということになる。
(そんなはずがない)
きっと何か弱みを握られるか、何かあったに違いない。
巧妙に警察の捜査網をすり抜けたんだ。
そう確信した俺は、出し惜しみすることなく金を注ぎ込み、長澤先輩の尻尾を掴むべく、複数の私立探偵を雇った。
しかし2週間後、探偵たちは口を揃えて俺にこう言った。
「中間報告になりますが、ターゲットに犯罪の嫌疑を抱かせるような状況は一切見当たりません。特に性生活に関して、確かに乱れているようですが、すべて合意の上での行為と思われます。率直に申し上げますと、これ以上の調査は時間的にも費用的にも無駄かと存じますが……」
俺は探偵の言葉に返事すらできず、そのままスマホを落としてしまった。
結月が最初から自ら望んで長澤先輩に身を委ねる——そんな未来に、涙が溢れ出した。
それでもどうにか立ち上がり、次の作戦を考えて実行に移した。
高木を通じて、探偵から掴んだ乱れた性生活を噂として流した。
過去に俺と同じく彼女を奪われた被害者たちを訪ね、協力を仰いだ。
いっそ、俺自身が写真部へ直接入部することまで試みた。
だが——
「蓮、私、妊娠したの」
今回の悪夢は写真部の部室ではなかった。
俺の部屋だった。
結月が妊娠検査薬を手にしていた。
その検査薬には、くっきりと二本線が浮かび上がっていた。
「蓮の子だよ。その……。まだ早いかもしれないけど、私、この子を産みたいな。蓮、私たち結婚して幸せに——」
「ふざけんな」
「……え?」
俺は結月を睨みつけた。
「その子、長澤先輩の子だろ? 俺たちは、ずっと気をつけてきたじゃねえか」
「ち、違うよ! 絶対なんてないって言うし……」
「俺が知らないとでも思ってんのか? 長澤先輩とは、一線を何度も越えてたんだろ。ご丁寧に証拠も残してただろ? 部室にあるあのライカのカメラで」
「そ、それをどうして……!」
結月が「はっ……!」と息を呑み、自分の口を両手で塞いだ。
俺は両拳をきつく握りしめ、叫んだ。
「どうしてこんなことができるんだよ! 俺が何か悪いことでもしたのか!?」
「ご、ごめんなさい!」
「先輩の子なら先輩のところへ行って責任取ってくれって言えよ、なんで俺のところへ来てふざけたこと抜かしてんだよ? ああ!?」
結月は泣きじゃくりながら、震える声で呟いた。
「だ、だって……先輩が、こうしなきゃもう私を選ばないって……」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かがプツリと切れた。
ああ、そうか。
俺は悟った。
(これは『運命』なんだ)
俺がどれほど足掻こうとも、決して逃れられない絶対的な絶望なのだと。




