第52話 海①
赤髪のアイドルがライブ中に落雷に遭う『悪夢』を見てから、一週間が経った。
今日は約束通り、海へ行く日だ。
朝早くに目を覚まし、前日に用意しておいた荷物を手に、一階へ降りた。
「遅い!」
リビングのソファに座っていた和花がガバッと立ち上がった。
あまりにも自然すぎて、ここが小森家かと思ったほどだ。
「いや、お前らが早すぎるだけだろ。約束の時間の30分前だぞ」
「うっ……。だって楽しみなんだもん。まともに眠れなかったくらい……」
「小学生かよ」
「仕方ないじゃない! 海、一度も見たことないんだから」
「……え?」
俺は自分の耳を疑った。
「お前、実は帰国子女か?」
「違うわよ! だってうちの両親、二人とも仕事で忙しくて家族旅行なんて行ったことないし……。それに一緒に遊びに行く友達もいなかったから」
和花の家庭も、一見普通そうに見えて、実際は思いのほか歪んでいた。
それに事実上、親代わりとして幼い妹の面倒まで背負わされていたのだ。
こいつもこいつで、いろいろ苦労してきたんだろう。
「私も実は、日本の海は見たことないの」
愛理が冷たい麦茶をすっと差し出しながら、俺と和花の会話に割り込んできた。
「日本の海は? じゃあ、海外の海は見たことあるの?」
「そうね、確か8歳くらいの時かしら。お父さんのヨーロッパ出張について行ったことがあって、そのときにクロアチアの海を見たわ。それが、私にとって最初で最後の海になったの」
「……」
重い……。
この二人は、本当に普通とは縁遠い場所で生きてきたのだと、あらためて思った。
かくいう俺自身も、決して普通とは言えないけど。
「じゃあ、つまり二人とも日本の海は初めてってことだな」
「そうね。蓮くんとの初体験ってわけよ」
「日本の海って言葉を省かないでくれるか」
もっとも、俺だって海へ遊びに行くのはかなり久しぶりなんだけど。
和花は俺に歩み寄ると、両手を後ろに回したまま、もじもじと身体を揺らした。
「何か言いたいことない?」
「言いたいこと?」
なんだ、急に。
一瞬戸惑ったが、彼女の服装を見てすぐにピンときた。
「クロップドじゃない服に挑戦したんだな! 偉いぞ、和花!」
大げさに頭を撫でてやった。
和花は今日、体をふわりと包むラベンダー色の半袖ブラウスを、白いテニススカートの中にすっきりとタックインしていた。
清楚でありながらも活発な雰囲気を醸し出すコーデだった。
「いや、私がいつもクロップドばっかり着てると思ってたわけ!? 褒めるポイントがおかしいでしょ!」
「だって、俺に見せた私服はクロップドだけだったろ」
「そんなことな……くはないわね。確かにあんたには……」
「だろ? 俺はお前が、ギャルはクロップドでしょ、って認識でわざとこだわってるのかと思ってたよ」
「うっ……」
和花が全く反論できなかった。
どうやら図星らしい。
「と、とにかく! 似合ってる?」
「ああ。お前の雰囲気に合ってると思う。むしろ普段の私服と違って新鮮だしな」
「そ、そう? ならよかった。あ、勘違いしないでよね! 別にあんたのためにわざわざ気を使って着たわけじゃないから!! これも私が普段から着てるスタイルだから!」
今日も和花のツンデレムーブは通常運転のようだ。
愛理が和花の背後へそっと近づいた。
「和花さん、ここタグ切ってないよ」
「先輩、またその手には乗りませんからね」
「いや、今回は本当にあるよ」
「え!? ほ、本当だ!?」
和花は慌ててハサミを手に取って、部屋へ駆け込んでいった。
その慌てぶりが妙に可愛くて、俺は思わず吹き出した。
今度は和花と入れ替わるように、愛理が俺の前へ近づいてきた。
「蓮くん、私の服も褒めて。頭も撫でて」
「めちゃくちゃ直球だな……」
「私、回りくどいの嫌いなの。バイト中、言いたいことをはっきり言わずに遠回しに伝えてきて、こっちが汲み取れないと怒る人を何度も見てきたから」
「……」
なぜだろう。学年が違うだけの、同じ高校生のはずなのに。まるで社会人を相手にしているようだった。
バイトの経験差ってやつだろうか。
「それで、どう? まさかとは思うけど、可愛くないとか、似合わないとか言うの?」
「いや、いや、まさか」
肩からずり落ちそうな、アイボリーのシースルーカーディガン。
その下では、細い肩紐に支えられた水色のスリップワンピースが、豊かな胸元を惜しげもなく強調し、深い谷間を描いていた。
さらに、腰元のリボンからふわりと広がる裾が、なめらかな太ももをいっそう引き立てていた。
「全体的に清楚でありながら、ちゃんと自分のスタイルの長所を活かしてるな。でも結構露出があるけど、大丈夫か?」
「うちの社長は生足も胸も好きだから、たっぷり見てもらうつもりで選んだの。もちろん、いつでも触っていいわよ」
「お、おう……」
和花のツンデレと愛理の直球。
なんというか、サウナと水風呂を交互に行き来しているような気分だ。
言われた通り、愛理の頭をそっと撫でた。
和花より背が高い分、少し腕を持ち上げる必要があった。
「なるほど、和花さんがどうして蓮くんに撫でられるのが好きなのか分かったわ」
「だ、誰が好きだって言ったんですか!」
タグを全部切ってきたのか、和花が再びリビングに戻ってきてツッコミを入れた。
「あら、好きじゃないなら嫌いなの? 蓮くんに私が言っておこうか? 和花さんが頭撫でられるの嫌がってるから、やめなさいって」
「き、嫌いだなんて言ってないじゃないですか! 私の言葉をねじ曲げないでください!」
「じゃあ、素直に好きって言えばいいのに」
「うっ……」
和花の顔が真っ赤になった。
その一方で俺は、手のひらに伝わる愛理の髪の感触に、やっぱり髪質って人それぞれなんだな、と妙なことを考えていた。
たぶん男だって違うんだろうけど、わざわざ野郎の髪で確かめる気にはなれない。
「な、なんか私より先輩のほうを長く撫でてない?」
「あら、ヤキモチ?」
「ち、違いますから! そ、その……。少し、ほんの少し気になったというか……」
「蓮くん、早く自分も私と同じくらい撫でてほしいって」
「ち、違……くはない」
和花が俺に一歩近づいてきて、頭を少し下げた。
俺が手を乗せやすい、絶妙な角度で。
さっき撫でたばかりなのに、またしてほしいのか。
まあ、減るもんでもないし構わないが。
俺は愛理の頭にあった手を移そうとした。
「ダメよ、蓮くん。私、まだ十分楽しんでないわ」
「いや、でも……」
「手は二つあるじゃない? ギプスもとっくに外れたし」
「……」
仕方なく反対の手を上げて、和花の頭に乗せた。
右手で愛理をなでなで。左手で和花をなでなで。
二人が俺の手の感触に目を細めるのを見ていると、なんとも言えない気分になった。
◇
二時間近く列車に揺られ、目的地に到着した。
今回は3泊4日の日程なので、まずは宿に荷物を預けることにする。
選んだのは、海水浴場まで歩いてすぐの旅館だ。
「その……。とりあえずお前らの言う通り、一部屋だけ取ったけど……」
俺は当然、女子用と俺が使う男子用を別々に予約するつもりだった。
だが、愛理はもちろん、和花まで「無駄に費用がかさむ」と反対した。
足りない分――いや、いっそ今回の旅行代全部を俺が持つと言ってみたけど、「そういうわけにはいかない」と突っぱねられ、結局三人で同じ部屋に泊まることになってしまった。
「本当に大丈夫なのか?」
「またそれ! そんなに私たちと一緒に寝るのが嫌なの?」
「いや、そういうわけじゃなくて……」
「蓮くん、私たちはもう全部経験済みじゃない」
「あの時はホテルの手違いで、本当にどうしようもなかったから……」
「私たちと寝るのが嫌じゃないなら黙って!」
「……はい」
旅館で水着に着替え、ラッシュガードを羽織った。
三人並んで海水浴場へと向かって歩いた。
やがて、目の前に青い海が姿を現した。
「「おお……」」
俺たち三人は、そろって感嘆の声を漏らした。
白い砂浜に穏やかな青い波が静かに寄せては返す。
潮風に混じった塩の匂いが、やさしく頬をなでていく。
「わあ、綺麗!」
「遠くまで来た甲斐があったわね。やっぱり蓮くんは見る目があるわ」
「いや、単にここが元々有名な場所だからさ」
海水浴場へ足を踏み入れた。
サンダルがふかふかの砂に沈み込む感覚。
本当に久しぶりの海辺だった。
「和花さん、海に来たら『海だ!』って叫ぶのが海水浴の礼儀よ」
「え? そ、そうなんですか? こんなに人が多いところで??」
「愛理、和花に変な知識を吹き込まないでくれ」
「面白そうだったから」
「先輩!?」
「それにしても、すごい人の数だな」
「本当ね。あんたがおすすめしてくれた漫画じゃ、こういう時はお金持ちキャラがプライベートビーチに連れて行ってくれて、誰もいなかったのに」
「蓮くんくらいならプライベートビーチ、いけるんじゃない?」
「漫画は漫画だよ、愛理……」
適当な空きスペースを見つけ、レンタルしたパラソルとビーチベッド、マットを設置した。
人の多さに、もう場所が残っていないのではないかと焦ったが、幸い時間が早かったおかげでなんとか確保できた。
愛理が真っ先にラッシュガードを脱いだ。
「じゃあ、日焼け止め塗ろうか。ほら蓮くん、塗って」
「……自分でやれよ」
「背中とかは手が届かないから」
「じゃあ同性の和花に頼めよ」
「和花さんも蓮くんに塗ってもらうほうがいいでしょ?」
「え? ここで急に私に振る!?」
「私が塗るのがいい? 蓮くんが塗るのがいい?」
「そ、それは……」
和花がもじもじしながら、ラッシュガードのファスナーを下ろした。
そして俺に日焼け止めを渡してきた。
「れ、蓮がいい……」
「じゃあ決まりね。蓮くん、私たち二人とも日焼け止めお願い。私たちが塗り終わったら、次は私たちが蓮くんに塗ってあげるから」
おかしいな。旅行の計画はほとんど俺が立てたはずなのに、主導権は完全に握られている気がする。
やがて二人は、この前モールで買ったビキニ姿のまま、マットの上にうつ伏せになった。
二枚のマットのあいだへ来いとでも言うように、こちらへ視線を送ってくる。
俺は受け取った日焼け止めを手のひらに絞り出すと、温めもせずにそのまま二人の腰にぴたりと当てた。
「「ひゃっ!」」
二人の体が大きくビクッと震えた。
「も、もう! 冷たいじゃない! ちょっとは温めてよ!」
「和花さん、これ蓮くんわざとやったのよ。私たちのこの反応を見たくて」
「え、え? ま、まあ蓮って、密かに変態だから……」
「なんでそういう結論になるんだよ」
ちょっとしたいたずらのつもりだったのに。
その後はできるだけ丁寧に、妙な気分にならないよう日焼け止めを塗ることだけに集中した。
二人とも肌の質感は微妙に違うが、どちらも驚くほど色白だった。
ずっと耳が赤いままの和花が言った。
「バッグに、日焼け止めがちゃんと塗れてるか確認できるUVカメラがあるから。それを見ながらやると楽よ」
「そんなのもあるのか?」
感心しながら和花のバッグを開けた。
そのとき、不意に通りすがりの会話が耳に飛び込んできた。
「なあ、聞いた? ここで地雷ちゃんシンドロームのゲリラライブやるんだって」
「地雷ちゃんシンドローム?」
「ほら、最近ティックトックで流行ってるやつあるじゃん。彼氏の家の前に地雷埋めるって歌詞の」
「ああ、あれね」
あまりの驚きに、危うく和花のUVカメラを落としそうになった。




