第44話 スタートライン①
愛理はきっと、一方的に与えられるだけの関係が嫌なのだろう。
俺としてはモニタリング業務だけで十分だと思っていた。
だがどうやら、それ自体が俺の彼女への気遣いだと見抜かれてしまったらしい。
誰がどう見ても、俺だけが得をするようなお願いじゃなきゃいけないんだ。
「……少しだけ、ぎゅっとさせてください!」
「もちろん。こっちから行こうか?」
「いやいや、そのままで」
あまりにもあっさり頷かれて、驚いたのはむしろこっちだった。
愛理がさらに俺の方へと身を寄せてきた。
思わず、ごくりと喉が鳴った。
(よし、俺も覚悟を決めよう)
ここまで来て逃げ出すわけにはいかない。
「こうやって男の子とこんなに近い距離になるのは初めてだけど……。意外と悪くないかも」
「そう?」
「蓮くんが相手だからかもしれないわね。そうね、蓮くんとこうしているのが少し嬉しいのかも」
愛理の言葉に、ごくりと唾を飲み込む。
彼女は俺のことが好きなのだろうか。
それとも俺に依存したくて、ただ見捨てられたくないからだろうか。
俺はこれまで、結月以外の女の子をまともに知らなかったから、ただ戸惑うことしかできなかった。
「蓮くん、ちゃんと楽しんでる?」
「ああ、めっちゃ」
「即答ね。だんだん遠慮も薄くなってきたし。よかった」
はっ、いつの間にか緊張がほどけて、彼女との距離にも慣れ始めている。
本能というのは恐ろしいものだと改めて痛感した。
「蓮くんは、私がなんとも思っていない男の子に、こんなことすると思う?」
「いや、そうじゃないけど、正直言って愛理の本当の気持ちがよく分からないからさ」
今のままじゃ、まるで俺が彼女を金で買ったみたいじゃないか。
彼女の父親のように、道具として扱うつもりはない。
むしろ彼女自身は、俺に道具として扱われることを望んでいるようにも見えるが……。
「じゃあ私、この際だからはっきり言っておくね。私、蓮くんのこと恋愛的に好きよ」
「……え?」
「蓮くんが言ってたわよね? ずっとそばにいてほしくて、見るだけで自然と笑顔になれるのが恋だって」
愛理が微笑みを浮かべながら言葉を継いだ。
「初めてそう感じた相手があんたなの、蓮くん。おめでとう、見た目はいいけどちょっと面倒な女の初恋の相手になったわね」
「いや、そ、それは……」
まさかこの状況でいきなり告白されるとは思わず、言葉に詰まってしまった。
いや、思考が停止した。
「ほ、本当に……?」
「本当よ。少し考えてみてよ。蓮くんは私の人生を根底から変えてくれた。好きにならない方が逆におかしいと思わない?」
「単に俺が父親や家族の代わりって感じじゃなくて……?」
「違うわ、私もそこまで馬鹿じゃない。実はクールなふりしてたけど、さっき北山さんと蓮くんが二人きりになった時、嫉妬もしたの。家族なら、そんな気持ちにはならないでしょ」
どうやら、嘘ではなさそうだった。
好意を前提に置けば、彼女のこれまでの行動がすべて腑に落ちた。
「お、俺は……」
「別に蓮くんを困らせるつもりはないわ。ただ理解してほしいだけ。むしろ今は答えないでほしいの」
愛理のことが好きか嫌いかと言われれば、間違いなく好きな方だろう。
だがそれが恋愛的な意味なのか——彼女にしたいかと聞かれれば、正直分からない。
そもそも、結月の件がまだ心のしこりとして残っている以上、新しい恋愛に踏み出す気分にもなれなかった。
「代わりに条件があるの」
「条件?」
「こうして、週に最低三回は私に何かを求めて。蓮くんはもう知ってるでしょ? 好きな人に何かをしてあげたいって気持ちは」
恋人に喜んでほしいという、ある意味での自己満足。
俺のためになることが、すなわち愛理のためになるのだと、彼女は主張しているようだった。
どんな気持ちなのかよく分かるから、全く反論できなかった。
「……分かった。今日みたいに、週三回、俺が満足するためだけのことを求めるよ」
「ありがとう」
愛理が俺の唇にそっと指を当てた。
「いつかは、ここにも私の初めてをあげる。ううん——」
彼女がもう一度、今度は反対の頬に小さくキスをして言葉を継いだ。
「私の初恋の人に、私の初めてを全部あげる。大好きよ、蓮くん」
◇◇
小森和花は部屋のベッドに寝転がって、枕を胸にぎゅっと抱きしめた。
今回の林間学校はこれまでのものと全く違っていた。
もちろん途中で伊藤さん関連のトラブルはあったが、最後には悪くない形で締めくくられた。
(これが青春ってやつなんだ!)
えへへへっ、と変な笑い声を漏らしながら和花が左右に転げ回った。
ゴロゴロと転がるスピードがだんだん速くなったかと思うと――
ドンッ!
勢い余って壁に頭をぶつけた。
「い、痛っ……!」
夢ではないことを図らずも確認した。
少し赤くなったおでこをさすりながらも、和花の口元は緩んだままだった。
これからもこんな日常が続くのだろう。
彼女はそう信じて疑わなかった。
だが、その確信はすぐに砕け散ってしまった。
ピリリリン——
すべては、その一本の電話から始まった。
和花はスマホの画面を覗き込んだ。
(先輩?)
急にどうしたんだろう?
和花は首を傾げながら愛理の電話に出た。
「今ちょっと会える?」
「え? 今ですか?」
「話があるの。蓮くんのことで」
ある男の子の名前を聞いた瞬間、和花は弾かれたように上半身を起こした。
良い意味でも悪い意味でも、彼女の日常を大きくひっくり返した男の子。
今の彼女にとって最も大きな存在だった。
「どこに行けばいいですか?」
「駅のスタバに」
「分かりました」
時間を決め、和花が外出の準備を始めた。
彼女にとって愛理は、先輩ではあるが間違いなく友達のような人だ。
意外と共通点が多かったりもする。
(……蓮のことを気にしているという点まで)
愛理の不憫な事情は和花も知っている。
けれど最近、蓮が愛理の名前を口にするたび、得体の知れない感情が胸の奥でざわりと波立つ。
愛理が蓮のことを知っていくたび、和花の胸の奥では名づけようのない不安が静かに育っていった。
「お姉ちゃん、お出かけ?」
あらかた準備を終えて部屋の外に出ると、妹の杏奈が尋ねてきた。
和花は頷きながら答えた。
「ちょっとね。急に人に会う約束ができちゃって」
「うわあ、お姉ちゃんすごい。急に呼び出されるなんて、それ完全に陽キャの領域じゃん」
「でしょ、でしょ?」
「でも、なんでこれから喧嘩でもしに行くみたいな顔してるの?」
「え? わ、私そんな顔してた?」
「うん、すっごく怖い顔」
和花自身、そのことに気づいていなかった。
友達みたいな先輩に会いに行くだけなのに、なぜか奥歯を強く噛み締めている自分がいた。
「もしかして、あのおじさん関連なの?」
「うっ……。どうしてそれを」
「お姉ちゃん、あのおじさんのことになると見たことない表情するから」
確かに、蓮と親しくなってから自分でも知らなかった自分の一面を、次々と見せられているような気がした。
和花はそれらにどう名前をつければいいのかさえ分からなかった。
「まあ、お姉ちゃんあのおじさんのこと好きだもんね」
「ち、違うから!? わ、私がどうしてあいつなんかを!」
「お姉ちゃん、もうそろそろ認めてよ。もう聞き飽きたよ、そのレパートリーも」
「レパートリーって、失礼ね!」
確かに少し、意識しているのかもしれない。
だが、それに『恋』という名前をつけてしまっていいのだろうか。
蓮に意地悪くからかわれるたび、普段以上にむきになってしまうこの気持ちにも。
「お姉ちゃん、ずっとそんなんじゃおじさん取られちゃうよ?」
「と、取られるって……。私は別に……」
「その先輩って人に取られても、お姉ちゃん本当に平気なの?」
杏奈の言葉に、和花の心臓はどくんと大きく跳ねた。
思わず、涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「え、え……っ? ご、ごめんお姉ちゃん。私、言い過ぎちゃった……?」
慌てた杏奈がオロオロしながら和花にティッシュを持ってきた。
和花は涙をゴシゴシと乱暴に拭った。
「う、ううん。私、泣いてない。泣いてるわけじゃないの。ただ、目にゴミが入っただけ。じゃあ杏奈、ちょっと留守番してて。すぐ戻ってくるから」
「お、お姉ちゃん……?」
和花は逃げるように玄関のドアを開けた。
頭の中が真っ白だった。
なぜ涙が出るのか、自分でも分からなかった。
まるで、自分の中に知らない誰かが住み着いてしまったようだった。
気がつけばいつもより早く、駅に着いていた。
スタバの中に入ると、先に席を取って座っている愛理の姿が見えた。
「先に頼んでおいたわ。和花さんはホットのカフェラテ、トールサイズで合ってるわよね?」
「あ、はい……。ありがとうございます。いくらですか?」
「私が出すわ。私が急に呼び出したんだから」
和花は愛理の向かいに座った。
しばらくの間、二人の間にコーヒーをすする音だけが流れた。
沈黙を破ったのは、愛理だった。
「私、蓮くんに告白したわ」
「え……?」
和花の手から滑ったマグカップが、ガタンッと鈍い音を立ててテーブルにぶつかった。




