第42話 林間学校⑤
幸い、伊藤さんの歯が折れることもなく、無事に林間学校を終えた。
他の班の男子生徒が派手に転倒する場面こそあったものの、擦り傷ひとつ負わなかった。
学校へ戻るバスの中。
隣の席の和花が尋ねてきた。
「もうすぐ夏休みじゃない。あんた、何するの?」
「宿題」
「それ、普通は夏休みの予定とは言わないから!?」
「他には、まあ……。ゲームを普段より長くやるとか? アニメや漫画をイッキ見するとか?」
「普段と全然変わらないじゃない!!」
まあ、俺の趣味はどこまでもインドア寄りだからな。
「そういうお前こそ、何か特別な予定でもあるのか?」
「え? あ、ううん……」
和花が言葉を濁した。
もっとも、和花自身も根はインドア寄りだ。
ギャルらしくあろうと外に出る努力はしているが、そう簡単に変われるものでもない。
和花は指先をもじもじと絡ませながら口を開いた。
「せっかく友達もできたし、今年の夏休みは、その……。友達らしいこと、やってみたくて……」
「あ、なんだ。俺と愛理も一緒に夏休みを過ごそうってことか」
「え? あ、うん、そうね、先輩も……」
和花は、愛理の名前が出た瞬間、少しきょとんとした顔をした。
当然、和花の友達といえば愛理も含まれると思っていたが、まだ少し距離感があるのだろうか。
同級生ではなく先輩だから、というのもあるかもしれない。
「でも、友達同士でやりたいことって言っても、何があるんだ?」
「海とか?」
「山の次は海か」
「い、いいじゃん! 夏らしくて」
まあ、定番中の定番といったところか。
和花がごくりと喉を鳴らした。
「それに、かき氷にイカ焼き、焼きそば、浜焼き……」
「それが本命かよ」
思わず笑いがこぼれた。
海でしか味わえない、あの美味しさが分からないわけじゃないが。
考えてみれば、俺もここしばらく海水浴なんて行ってなかったし。
結月と付き合っていた頃は、高校受験が重なってそんな余裕もなかった。
「俺、それなら水着を一着買わないとな。子どもの頃着てたやつは、どう見てもサイズが合わないだろうし」
「あ、私も買わなきゃ」
「和花はエロビキニで決定な」
「なんで私の水着をあんたが決めるのよ!?」
「俺が見たいから」
「超堂々としてる!!」
それにしても、愛理も一緒に海へ行くなら、彼女の水着姿も拝めるってことか。
もともとモデルみたいな体型だが、この間聞いたスリーサイズ通りなら、相当……。
「海、いいな。絶対行こう」
「今、なんか別のこと考えてたでしょ!?」
「べ、別にお前のビキニなんて考えてないからな!」
「なんで急にツンデレ!? そして普通にキモい!!」
正直に口にしただけなのに、なぜかツンデレ扱いである。
これが、和花がいつも味わっている感覚か。
小さく笑っていると、彼女が急に顔を赤らめながら、小さな声で尋ねてきた。
「そ、そんなに見たいの? 私のビキニ姿……」
「いやまあ、強要するわけじゃないけど。単純に似合いそうだからさ。スタイルいいし」
「そ、そう? ふーん……。じゃあ、今度、一緒に買いに行く?」
「ああ。どうせ俺も買わなきゃいけないからな」
なんだか今年の夏休みは、和花のやりたいことリストを消化するためにあちこち連れ回されそうだ。
水着のついでに、この機会に夏服もいくつか買っておこう。
とはいえ、こんなことならもっと早く買っておくべきだった。
この時期になると、少し良さげなものはすでに売り切れていたりするからな……。
「あ、愛理にも聞いてみないと。一緒に買いに行くかって」
愛理の父親の件が一段落した後、俺はすぐに彼女へ給料を支払った。
もう彼女が父親の借金を返す理由はないのだから、完全に彼女だけのお金だ。
これからは極端な節約生活から抜け出し、自分のためにお金を使っていけるはずだ。
ところが、和花が拗ねたようにぷくっと頬を膨らませた。
「今私と話してるのに、先輩のことばかり言って」
「別にそういうわけじゃないけど……」
和花が、一昨日俺が彼女にしたように、俺の頬を両手で挟んでむにゅっと引っ張った。
「少なくとも私と一緒にいる時は、他の人のこと考えないで!」
「え、じゃあ和花のビキニ姿の妄想はしてもいいのか?」
「あ、いや、それは……」
彼女はそっと視線を逸らしながら、言葉を続けた。
「他の女の子はダメだけど……私なら構わない。そういうのまで受け止めてあげられるのは、私だけなんだからね。他の女の子なら、とっくに通報されてるわよ?」
今日の和花は、いつものツンデレとは少しだけ色合いが違っていた。
◇
バスを降り、和花と別れの挨拶を交わして、一人で家路についていた時のことだった。
「ま、待って!」
背後から、聞き慣れた声が飛んできた。
「蓮、話があるの」
「話?」
結月だった。
彼女はコクリと頷いて答えた。
「私に詳しく教えてほしいの」
「何を?」
「……私が長澤先輩と浮気するっていう未来のこと」
なぜそれを今さら。
──ああ、そうか。
伊藤さんの件で、俺の予知能力について確信を持ったのだろう。
「まあ、別に構わないけど。ただ、俺に分かるのは結果だけだからな? 途中の経緯までは知らないぞ」
「うん、大丈夫。私は蓮が何を見たのかが知りたいから」
「口で説明するより、記録を見せたほうが早いよな。今から時間あるか?」
「うん、時間なら全然構わないけど……」
「じゃあ、俺の家に行こう」
結月の目が丸くなった。
「い、行ってもいいの? 蓮の家……?」
「家に記録があるからな。念のために言っておくが、変な意味じゃないからな」
「う、うん。分かってる」
だが、彼女の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
俺は複雑な思いを抱えたまま、再び歩き始めた。
部活のせいで、付き合っていた頃でさえ一緒に帰ることなんてそう頻繁にはなかったのに。
(今の時間なら、愛理は部屋で寝ている頃か)
愛理は平日の放課後になると、帰ってすぐ眠るのが習慣になっていた。
そして米国株市場が開く直前に起きて、俺が任せた業務をこなす。
ときどき、当の俺より株の運用に熱が入っているようにさえ見える。
お互い無言のまま歩いていると、すぐに俺の家に着いた。
家に入ると、母さんが結月を見て目を丸くした。
「その……。久しぶりね、結月ちゃん」
「あ、はい。少しお邪魔します」
「ええ、どうぞ……」
母さんは戸惑っている様子だったが、俺の顔をちらりと見て、そのまま中へ通してくれた。
こういう時は、母さんの察しが良くて助かったと言うべきか。
2階へ上がり、俺の部屋のドアを開けた。
誰もいないはずの俺の部屋に、制服姿の女の子がいた。
しかも、俺のベッドにうつ伏せになったまま。
「え……? 菅原先輩、だよね……?」
「あ、ああ。たまに俺が遅くなったり、愛理が早く終わったりすると先に戻ってきて、いつもこうやって俺のベッドで寝てるんだ」
「ど、どういうこと? なんで菅原先輩が蓮の家で寝てるの……? それに、どうして『愛理』って……」
「実は愛理の家が火事になって、今はうちに暮らしてるんだ。呼び捨てにしてるのは、本人がそうしてほしいって強く言ったからだ」
結月はショックを受けたように、呆然と立ち尽くした。
色々と誤解を招きそうだということは俺も分かっているが、特に嘘はついていない。
付き合っている関係じゃないってことは、すでに林間学校の時に何度も言ったし。
ベッドのそばへ近づき、愛理の肩を軽く叩いた。
「ここじゃなくて、ちゃんと自分の部屋で寝ろって言ったのに、なんでまたここで寝てるんだよ。起きろ」
彼女が目をこすりながら上半身を起こした。
そして俺と結月を一度ちらりと見た。
「今日は元カノがいるから、胸揉んで起こしてくれないの?」
「む、胸……!?」
「俺がいつそんなこと……」
「それに、いつものようにおはようのチュウもしてくれないし」
「え? え??」
「捏造するなよ……」
結月の前だから、わざとこんなことを言っているのだろうか。
混乱している結月を見て、愛理が微かに微笑んだ。
「もう、蓮くんは自分の奴隷に優しすぎるんだから。もっと乱暴に扱ってくれてもいいのに」
「ど、奴隷!?」
「まだ違うだろ……」
「『まだ』なんでしょ? 私、諦めるつもりないわよ」
愛理がベッドから足を下ろし、立ち上がった。
そして、まるで結月に見せつけるかのように俺に抱きついてきた。
自分の匂いをつけようとするペットのように、俺の胸元に頬を擦り寄せる。
「今日は私が夕飯作るね」
「大丈夫か? 後で仕事する時、疲れないか?」
「大丈夫。十分寝たから。何よりも……」
愛理が結月の方へ顔を向けながら言葉を続けた。
「お客さんをもてなしてあげなきゃいけないからね」
「くっ……!」
結月が両手をきつく握りしめた。
今日は妙に、愛理が挑発的だ。
愛理は俺に回していた両腕をほどき、ドアの方へと向かった。
「それじゃあ夕飯の準備してるから。二人でゆっくり話してね」
「あ、ああ。ありがとう」
「どういたしまして」
にっこり笑って、愛理が部屋を出て行った。
俺と結月だけが残された部屋に、気まずい沈黙が下りた。
かつてこの部屋で過ごした時間が、遠い昔のことのように感じられた。
「……本当に、付き合ってるわけじゃないんだよね?」
「違うよ。ただ愛理はちょっと……。色々と事情があって寂しがり屋なんだ。俺のことが好きなわけじゃないって、本人の口からはっきり言ってたし」
「そう……?」
結月はどこか腑に落ちないような表情を浮かべた。
まあ、無理に彼女を納得させるつもりはない。
変な噂さえ広めなければ、それでいい。
俺は机の引き出しからノートを数冊取り出した。
「ほら、これだよ。俺が未来で見たものを記録したやつ」
「う、うん……」
結月がノートを受け取った。
大きく息を呑み、一枚一枚ページをめくっていく。
文字を追うにつれて、彼女の口は少しずつ開いていった。
「え……? わ、私がこんなことするの……?」
俺は頷きながら答えた。
「それが、お前が未来で俺にすることだよ」




