第41話 林間学校④
翌朝、ベッドに腰を下ろしたまま、俺はずっと考え込んでいた。
この『悪夢』にどう対処すべきか。
大きく伸びをしながら、高木が俺の顔を覗き込んできた。
「どうしたんだ? 朝からそんな深刻そうな顔して」
「……いや、別に」
「なんだよ、つまんねーの」
「お前のいびきをどうにかできないか考えてたんだよ。鼻に洗濯ばさみでも挟もうかと思ったけど、生憎見当たらなくてな」
「その発想が怖えよ!」
今回の『悪夢』は、ここ最近のものほど深刻ではなかった。
いや、本来はこの程度が普通だった。
結月の件にしろ、和花の件にしろ、愛理の件にしろ、異常だったのだ。
「なあ、高木。お前、伊藤さんと親しいか?」
「うーん……。別に親しくはないな。むしろ最近避けられてるっていうか」
「なんで?」
「お前と俺が同じグループだと思われてるみたいでさ」
「あ、俺のせいか……」
「別にお前のせいじゃないよ。伊藤さんはお前を庇う奴のことは、もれなく敵認定するからな。昨日伊藤さんを慰めようとした小森さんとも、ちょっとした口論になってたぜ?」
「……」
味方でなければ敵――という極端な思考回路なのだろうか。
だとしたら、今回の『悪夢』について、高木を頼るのは難しそうだし、和花の方も微妙だ。
当然、俺自身も同じ。
おそらく言葉を交わすことすら嫌がるだろう。
(こうなると、適任は一人しかいないな)
朝食を済ませ、うちの班の女性陣のそばへ歩み寄った。
和花と結月は和気あいあいとした雰囲気で話していた。
実際のところは分からないが、少なくとも傍目には仲が良さそうに見えた。
ただ、伊藤さんだけが二人と全く話をしようとしない。
「北山さん、ちょっと話があるんだけど」
「え? あ、うん!」
結月がどこか嬉しそうな表情で俺についてきた。
考えてみれば、別れてから俺の方から話しかけるのは、これが初めてか。
「どうしたの?」
「ひとつお願いがあってさ」
「お願い?」
「北山さん、もう俺の言葉信じるって言ったよな?」
「う、うん……」
結月が少し渋い顔をした。
まあ、無理もないか。
元カレに突然呼び出されたと思ったら、開口一番「俺のこと信じるだろ?」と来るんだから。
「実はさ、たぶん二日後……いや、もう明日か。伊藤さんがオリエンテーリング中に怪我するんだ」
「え? 怪我するって?」
今回の『悪夢』を軽いと判断した理由が、これだ。
結月の場合はNTR、和花の場合は死亡事故、愛理の場合は放火被害と自殺。
それに比べ、今回の伊藤さんは怪我で済む。
だからといって、擦り傷程度で済むような軽い怪我というわけでもない。
「前歯が二本折れる」
「え!? それって結構大事じゃない!?」
「だろ。だから今、北山さんに頼んでるんだ」
夢で見た限り、伊藤さんは同じ班の中で完全に孤立してしまっていた。
伊藤さん本人もオリエンテーリングに集中できていないようだった。
結月が恐る恐る尋ねた。
「でも、その……。蓮が見る未来って、変えられるの?」
「大抵は変わるよ。もちろん、流れを変えるための努力はしなきゃいけないけどな」
「流れを変えるための努力……。具体的に何をすればいいの?」
今回の『悪夢』の回避法は比較的簡単だろう。
とにかく転ばないようにしてやること。
伊藤さん本人にも意識を向けさせて、周りも注意して見てやる。
そのためには――
「伊藤さんとちゃんと仲直りしてほしい」
そもそも、伊藤さんが明日のオリエンテーリングで集中していないのも、一人で孤立しているのも、昨日結月と喧嘩したせいだ。
なら逆に、元通り二人が仲良く過ごせれば解決する。
「でも、あんなに蓮のこと悪く言ってたのに……?」
「俺は別に気にしないよ。いや、俺のことはさておき、少なくとも叩いたことはちゃんと謝らないとな」
「それは、そうだけど……」
結月が顔を少し横に向けた。
俺以上に伊藤さんの発言に腹を立てているようだった。
「まあ……難しそうなら他の人に頼むし」
喧嘩中とはいえ、伊藤さんは結月の友達だ。
だから結月が一番適任だと思った。
だが、肝心の本人が不満げで消極的なら意味がない。
よほどのことがない限り意志を曲げない——その頑固さを知っているだけに、無理に説得するより諦めた方が早かった。
「他の人って、誰……?」
「とりあえず和花からかな」
結月の友達でもあるし、同じ女子だ。
微妙だとしても、転びそうになった時、とっさに支える役としては俺よりはマシだろう。
もちろん和花の人見知りが激しすぎて難しそうなら、鈴木に頼むつもりだが。
鈴木は伊藤さんと特に親しい関係ではないが、かといって俺や高木のように伊藤さんから疎まれている間柄でもないし。
ところが結月が俺の言葉に目を丸くして、慌てて言った。
「わ、わかった! 私がやる。仲直りした後はどうすればいい?」
「明日のオリエンテーリングの中、伊藤さんのそばにピタリと付き添って転ばないようにしてやれ。転びそうになったら支える。でも、会話に夢中になりすぎず、ちゃんとオリエンテーリングにも集中できるように誘導してくれ」
「思ったよりちょっと難しそうだけど……。一回頑張ってみる! 他でもない蓮からのお願いだもん」
彼女がにっこりと微笑んだ。
俺の胸中は複雑だった。
伊藤さんのためというより、どこか俺のためだけに引き受けてくれたような気がした。
(人間関係の優先順位が本当に徹底してるよな)
おそらくそのせいで、あの『悪夢』でも俺より長澤先輩の方が上位だった——だから冷徹に俺を切り捨てたのだろう。
今の結月にとっては、伊藤さんより俺の方が優先順位が高い。
それゆえに、俺の頼みもあっさり引き受けたのだ。
伊藤さんの歯が折れるかどうかなんて、彼女にとっては二の次でしかない。
「私、蓮の言葉なら全部信じるから! 蓮の言いなりに何でもする!」
幼馴染で、元カノでもある彼女の笑顔が、ぞっとするほど恐ろしく見えた。
◇◇
「ごめんね、私のために代わりに怒ってくれたのに、あんなことして……」
結月はすぐさま伊藤の手をぎゅっと握り、謝った。
そして、蓮をどれほど大切に思っているか、なぜ関係を修復しようとしているのかを、順序立てて説明した。
「それほど深川くんが結月にとって大切だったなんて知らなくて……。私の方こそごめん」
「ううん。先に話しておけばよかった」
結月が伊藤の頬を撫でながら言葉を継いだ。
「すごく痛かったよね……?」
伊藤が首を横に振った。
「これからは私も深川くんとまた上手くいくように手伝うね」
「うん、ありがとう。やっぱり優しいね」
二人が互いを見つめ合って微笑んだ。
傍目には心温まるような光景。
しかし、結月の内心は全く別の方角を向いていた。
(誰があんたみたいなの、二度と友達だなんて思うわけないじゃない)
彼女は心の中で、伊藤を和花と同じ箱に押し込めた。
いや——せっかく修復の兆しが見えてきた蓮との関係を、あと一歩でぶち壊されるところだった。
その一点においては、和花より悪質だとすら思っていた。
ただ蓮が頼んだから、仕方なく仲直りして友達のふりをしているに過ぎない。
(今はどうにかして蓮の信用を取り戻さなきゃ)
結局のところ、今回の一件は、写真部と長澤先輩に関する蓮の言葉を軽く流したことに端を発していた。
だとしたら、結月がやるべきことは一つしかない。
無条件に彼の言葉を肯定し、従うこと。
彼に未来が見えるという言葉を、本心から信じていようがいまいが。
(未だに私が浮気するなんて納得はいかないけど……)
お母さんから聞いた、小学生の頃のあの話や、お父さんの件——どれも、蓮に何か特別な力があることを示唆していた。
単なる勘の良さというレベルを、はるかに超えていた。
実際、伊藤についてだけでも、極めて具体的な状況を口にしていた。
(なんで私が、よりによって長澤先輩と浮気することになるのよ)
結月は自分が浮気をするという未来が到底想像もできなかった。
やけに蓮が夏合宿に執着していたのも、そこで何か起きるからなのだろうか。
もっとも、それも蓮の力が本物だと認めた上でしか成り立たない考えだった。
(とにかく今は信じるしかない)
蓮が和花のところに行くのは見たくなかった。
どうにかして今回の林間学校で、蓮との距離を少しでも縮めなければ。
そう固く決意しながら、結月は林間学校の二日目を終えた。
翌日、朝食を済ませてすぐにプログラムが始まった。
班ごとに集まっている中、蓮が目を大きく見開いて呟いた。
「そうか、霧雨だったんだ」
明け方に降った霧雨のせいで、地面はまだうっすらと湿っていた。
引率の教師陣も進行に問題はないと判断したのか、予定通りオリエンテーリングは決行された。
結月自身も、その時点ではさして気にしていなかった。
蓮が結月に近づいて囁いた。
「伊藤さんをちゃんと見ててやって。常にそばにいて」
「わかった」
本当は蓮のそばにいたいのに……。
結月はそんな自分の気持ちをぐっと堪え、仕方なく伊藤さんに近づいた。
みんなで移動している途中、下り坂に差し掛かった。
通るしかないルートだ。
伊藤が明るく笑いながら言った。
「私、これ昔から得意なの。だから私に任せて――」
ところがその瞬間だった。
伊藤が勢いよく踏み出した足が、地面でツルッと滑った。
「きゃああっ!」
伊藤の短い悲鳴が班員たちの耳を打った。
結月ははっと目を見開いた。
次の瞬間には、前のめりになった伊藤の体を咄嗟に受け止めていた。
「だ、大丈夫!?」
「う、うん……。びっくりしたぁ。思ったより滑るね、ここ」
「霧雨が降って滑りやすくなってるみたい。気をつけて」
「ごめん」
もし少しでも距離があれば、結月は伊藤を受け止められなかっただろう。
そのままなら、勢いをついた伊藤は顔から地面に突っ込んでいたかもしれない。
(本当に歯が折れてもおかしくなかった……)
結月は生唾を飲み込んだ。
蓮が教えてくれた通りだった。
ということは――
(蓮は、本当に未来を見ることができるの……?)
それじゃあ、長澤先輩と浮気する未来も、本当だってこと……?
結月の唇が、微かに震えた。




