第40話 林間学校③
結月が歯を食いしばり、伊藤さんを睨みつけた。
「謝って!!」
両手を小刻みに震わせながら、伊藤さんが後ずさりした。
俺の知る限り、結月がこれほどまでに怒りを露わにするのは、珍しいことだった。
だから、伊藤さんが戸惑うのも無理はない。
「わ、私はただ結月のために……」
「私の頑張りを全部台無しにしておいて、私のために!? あんたも和花と同じよ!! 私のためって言いながら、全然私のためになってないじゃない!!」
二人とも目尻に涙を浮かべていた。
水を打ったように静まり返っていた野外炊事場に、少しずつざわめきが戻り始めた。
皆が囁いているのは、もちろん伊藤さんと結月のことだった。
引率の先生も、何事かと俺たちの方へ近づいてきた。
「北山さん、ちょっとあっちへ行こう。な?」
俺は結月の肩にそっと手を添え、その場から外へと連れ出した。
そして立ち去り際、和花に向けて顎で伊藤さんを示した。
察したのか、和花は小さく頷くと伊藤さんに駆け寄り、「大丈夫……?」と声をかけた。
俺たちはキャンプ場のベンチに並んで腰を下ろした。
「……ごめん。私のせいで雰囲気ぶち壊しちゃったよね」
「まあ、お前、昔から俺のことになると感情的になりやすかったからな」
「はは、そうだね」
今でこそ運動が苦手な程度で済んでいるが、昔の俺はもっと病弱だった。
性格も今よりずっと気が弱かったし。
だから、結月が何度も俺を庇ってくれたり、俺に厳しい忠告をしてくれたりした。
「蓮、いくつか聞いてもいい?」
「まあ、俺が答えられる範囲なら」
長澤先輩のことを思い出したくなくて、俺は結月の横顔を見ないよう、ただ前だけを見ていた。
「最近、蓮の家に菅原先輩がよく出入りしてるみたいだけど……」
「ああ」
「……そっか。何の用事で来てるの?」
「ただ俺の株式投資をちょっと手伝ってもらってるだけだよ」
「本当にそれだけ?」
俺は頷いた。
本当なら、元カノにいちいち事情を説明する義理はない。
だが、これは俺というより菅原先輩のためだ。
俺が下手に隠し立てをして、先輩に変な噂が立ったら困るからな。
「本当に付き合ってるわけじゃないの?」
「……まあ、信じられないなら仕方ないけど」
客観的に見れば、週に五日も夜に来て朝帰りしているなんて、どう考えても普通じゃない。
かといって、もう父親がらみのことはほぼ片付いたから雇用関係を解消しようと言うのも、無責任すぎるし。
俺の言葉に、結月は肩をビクッと震わせた。
「ち、違う! し、信じるよ! 私、蓮の言葉なら全部信じる!」
「お、おう……」
彼女がすがるように俺の腕を掴んだ。
「ごめんね……」
「いやまあ、謝る必要はないよ」
もう完全に赤の他人だと思っているからか、俺を信じられないと言われても特に何の感情も湧かない。
いや、元カレ相手ならむしろそれが正しいとも思える。
それに今の彼女の立場からすれば、俺は伊藤さんの言う通り『ありえない理由で振った』男だからな。
「じゃあ蓮、好きな人はできたの……?」
「さあね、恋愛対象としてはいないな。今は特に誰かと付き合いたいとも思わないし」
「そ、そっか」
結月の口元が、微かに緩んだ。
無理に喜びを押し殺しているのだろう。
付き合いの長い俺には、その変化が嫌でも分かった。
「私ね、昨日、蓮が誕生日にプレゼントしてくれたデジカメを引っ張り出してみたの」
「ああ、あの小学生の時にあげたやつ?」
「うん。あれ、うちのお父さんのことで蓮がわざわざ気を使ってくれたんでしょ?」
「そうだな」
「今なら分かるよ。蓮はうちのお父さんが家を出て行くことをあらかじめ知ってたんでしょ? たぶん、その理由まで」
「……」
結月の言う通りだった。
俺は彼女の父親が妻と娘を捨てるという事実を予知していた。
だが、その未来は、今の俺でもきっと避けられなかった。
結局、どんな形であれ、彼女の父親は彼女の前からいなくなっていただろう。
「あの真面目で優しかったおじさんが、若い女と浮気したあげく、子どもの頃に夢見ていた探検家になると言って海外へ行く。そんな話、俺だってすぐには信じられなかった」
俺がその『悪夢』を見た時にはすでに浮気をしていたから、北山夫婦の破局は止められるものではなかった。
夢の中で結月の父親は、日々大手企業に勤めながら、心が摩耗していく自分が嫌だと言っていた。
その気持ちは分からなくもない。
けれど、あの決断だけは今でも擁護できない。
「え……?」
結月が目を丸くした。
まるで、今初めて知ったかのように。
まさか……。
「知らなかったのか?」
「知らなかった……。じゃあお父さんは、夢のために家族を捨てたってこと……?」
「少なくとも俺の知る限りではね。俺が間違っているかもしれないから、正確なことはおばさんに聞いてみて」
確か昔、おばさんが「私からよく言っておくわ」と言っていたはずだが……。
おそらく伝えにくい内容だからとずるずる先延ばしにしているうちに、今日まで来てしまったのだろう。
それに、結月はお父さんのことを心から慕っていたからな。
これは俺が軽率だった。
「悪い。俺が余計なこと言ったな」
「う、ううん。言ってくれなかったら、私ずっと知らなかったかもしれないし」
結月がしばらく無言でうつむいた。
こういう時くらい、一人の人間として慰めるべきなのかもしれない。
……俺の失言でもあるし。
だが俺が口を開こうとした瞬間、彼女がぽつりと言った。
「私、昔からお父さんにすごく似てるって言われてたの」
「性格がそうだよな」
外見はおばさんにそっくりだ。
「私もお父さんみたいに夢ばかり追いかけて、肝心なものが見えてなかったんだ……」
涙声で紡がれる結月の言葉を、俺はあえて深く受け止めないようにした。
彼女は顔を上げ、真っ直ぐに俺を見据えた。
それでも俺は視線を合わせず、前だけを見ていた。
「蓮、私、写真部辞めようかな」
その言葉に、俺は一瞬驚いて目を見開いた。
そして思わず彼女の横顔を見た。
「なんで急に?」
「私、やっと気づいたんだ。蓮がいなきゃ何の意味もないって……」
「いや、でも今まで積み上げてきたものがあるだろ」
何度も賞を取ってきたんだから、実績だって十分あるはずだ。
「最近いくら写真を撮っても前みたいに楽しくないの。ここ数週間はずっと写真部に行ってなかったし……。これじゃ私、何のために頑張ってたのか分からなくなっちゃった」
「ただお前自身のために頑張ったんだろ。今は気持ちが混乱してるだけだよ。時間が解決してくれるさ」
俺はわざと他人事のように話した。
正直に言って、結月が写真部を辞めたところで、すでに冷めきってしまった俺の気持ちが戻ることはないだろう。
それに写真部から抜けたとしても、すでに長澤先輩と関わってしまった以上、あの『悪夢』は避けられないと考えている。
(今更回避できたとも思いたくないし)
別れたから寝取られずに済んだ?
笑わせる。
別れないために、あんなに必死で努力したというのに。
今の状況なら、いっそ結月がこのまま長澤先輩に落ちてくれた方が、まだマシだとさえ思う。
「蓮、私まだ蓮のことが好き」
「……この前言っただろ。俺のことは諦めろって」
「そんなの思い通りにならないよ。ねえ蓮、せめて幼馴染の関係に戻れないかな……?」
だから結月と二人きりでいるのは嫌だったのに……。
伊藤さんマジで、余計なことしてくれたな。
「そっちの方がもっと辛いはずだぞ、絶対に」
「ち、違うよ! 私は蓮をこのまま失う方がもっと辛い……」
「じゃあ想像してみろよ。俺に新しく彼女ができたとする。ただの幼馴染として、純粋に祝ってやれるか?」
「そ、それは……」
結月が口を噤んだ。
「結局北山さんだけが惨めになるだけだ。世の中には俺よりもっとかっこよくて優しい男はたくさんいる。新しく好きな人ができたら、なんで俺なんかのことを好きだったんだろう、って後悔するかもしれないぞ」
「違う、それは絶対にない! いくらもっとかっこよくて優しい人がいても、それは蓮じゃないでしょ。どれだけ蓮よりかっこよくて優しい人がいたって、そんな人はいらない。私は、ただ蓮が……」
彼女がそっと俺の手の甲に手を重ねた。
俺はその瞬間、あの『悪夢』を思い出してしまった。
――蓮、私、妊娠したの。蓮の子だよ。
「うっ!」
強烈な吐き気が込み上げ、空いている方の手で口元を覆った。
手がガタガタと震える。
胃液の不快な酸味が、喉の奥までせり上がってくる。
「れ、蓮?」
「……ごめん」
俺はどうしていいか分からず、席を立ってトイレに向かった。
それからしばらく、腹の中のものを吐き続けた。
◇
どうにか夕食作りを終えた。
和花が作ってくれたカレーは食べたかった。
けれど、どうしても食欲が湧かず、口にできなかった。
「おい、大丈夫か?」
二段ベッドが並ぶ宿舎の一室。
高所恐怖症で一階に陣取った高木が俺に尋ねた。
「まあ、生きてはいる」
「大丈夫じゃないんじゃねえか……」
「慣らしトレーニング、簡単じゃないな」
「いやだからお前は犬かよ」
冗談を交わしながら心を落ち着かせた。
やがて消灯時間を迎え、俺は浅い眠りについた。
この時、俺はまったく予想していなかった。
まさかこの林間学校の宿舎で、『悪夢』を見ることになるなんて。




