第39話 林間学校②
息を切らしてハイキングを終え、キャンプ場に到着した。
引率の先生から休憩を告げられ、俺は日陰のベンチへ崩れ落ちるように腰を下ろした。
「お疲れ様。すごく疲れちゃったよね?」
結月がにっこり笑いながら、俺の隣にすっと腰を下ろした。
相変わらず気まずく感じてはいたが、平静を装って答えた。
「一年分の運動を一気にやらされた気分だよ。今年はもう、これ以上は無理」
「秋に球技大会あるよ? 営業終了するには早すぎるんじゃない?」
「いや、体育祭もやって球技大会もやるの? この学校、マジで最悪じゃん」
どっちか一つにしてくれよ。
せめて一年おきでもいいだろ
和花もベンチに来て、俺の隣に座った。
「私たちみたいなのは、ドッジボールなんてさっさと当たって退場するのがクラスのためなのよ」
「なんで俺まで巻き込むんだよ」
「じゃあ、一生懸命走り回る気?」
「いや俺は、仕方なく三分だけ駆り出されるくらいでいい」
「大して変わらないじゃない!」
結月がくすくす笑った。
「もう二人とも、普段から少しは運動しなよ。私もたくさんやってるわけじゃないけど、ジョギングくらいコツコツやるだけでも結構良くなるんだからね?」
「いや、北山さんは昔から体力バカだっただろ。おばさんが言ってたぞ? 娘じゃなくて息子を育ててるみたいだって」
「えー、別にそんなことないと思うけど。ただ少し活発なだけだし」
「少しじゃないだろ。鉄棒でぐるぐる回ってて、俺の歯を吹っ飛ばしたこともあるじゃないか」
「そ、それは元々グラグラしてた乳歯だったじゃない!」
よし、普通には話せてる。
まだ吐き気は残ってるけど、どうにか耐えられる。
慣らしの成果は、ちゃんと出てるみたいだ。
「お前らここにいたのか。あー、暑い〜」
高木が手で扇ぎながら、和花の隣に腰を下ろした。
すると、和花の顔がすぐに凍りついた。
見知らぬ他人を警戒する猫のように、和花は俺の腕にぎゅっとしがみつき、体を寄せてきた。
「……俺、やっぱり嫌われてるんじゃないか?」
「違う、違う。ただ人見知りしてるだけだよ」
「クラスメイトなのに人見知りってのも、なんかちょっと……」
高木が照れくさそうに後頭部を掻いた。
「和花、ちゃんと直接説明してやれ」
「あ、う、うん。ご、ごめんね、高木くん。わ、私、男の子を前にすると、ちょっと緊張しちゃうタイプだから」
「そうなんだ。でも深川は例外なのか?」
「え? そ、それは……」
和花はちらりとこちらを向き、俺の目をじっと見つめてきた。
そして、ほんのり頬を染めたまま、高木に向かって答えた。
「蓮はちょっと特別っていうか……」
「ヒューヒュー! お前だけ特別だってよ、深川」
「俺、実は和花から女扱いされてるみたいなんだ。これからはあたしのこと、深ちゃんって呼んでね」
「それやめてってば! マジでキモい!!」
和花が本気で嫌がっているあいだに、高木はいつの間にか結月の隣へ移っていた。
「でもさ、お前、案外女装したら似合うんじゃね? 線も細いし」
「あ、そうそう! 昔おばさんがそれで蓮に女の子の服着せたりしてたんだよ! おばさん、本当は娘が欲しかったから。その写真もあるはずだよ?」
「なんかそれ、いい商売になりそうだな。小森さんだけじゃなく、あの菅原先輩も高く買ってくれそうだ」
高木が大げさに舌なめずりをした。
いや、俺の黒歴史をなんでわざわざ掘り返すんだよ、結月は。
しかも、当の母さんでさえ、俺が成長して男らしくなってきたからとっくに諦めたというのに。
ところが、和花が隣ではっきり聞こえるほど生唾を飲み込んだ。
「い、いくらなら買えるの?」
「やっぱり小森さん、興味あるんだな」
「ち、違うわよ!? べ、別に蓮の女装写真とか、子供の頃の写真とか興味なんてないから!!」
今日も彼女の古典的なツンデレは、平常運転らしい。
◇
どうやら、俺みたいな脱落組は一人や二人じゃなかったらしい。
夕食作りは、予定より少し遅れて始まった。
野外炊事場へ全員で移動し、各自の作業に取り掛かる。
メニューはやはり、定番のカレーライスだ。
高木が各自の役割を再確認した。
「じゃあ、俺と北山さんが薪と火起こし担当で、小森さんと鈴木が材料の下ごしらえとカレー、深川と伊藤さんがご飯作りってことで」
「「了解」」
鈴木は高木が連れてきた友達で、強面な外見とは裏腹に普段から料理が趣味らしい。
……ただ、和花はもう完全に固まっている。
大丈夫だろうか。
変に緊張して、怪我でもしなければいいが。
「じゃあ、俺たちもやろっか、伊藤さん」
「……うん」
結月が連れてきた友達の伊藤さんは、俺に対しては終始無愛想だった。
結月とは楽しそうに話しているくせに、俺にだけは明らかな敵意を向けている。
たぶん、結月の話だけ聞いて俺を悪く思っているのだろう。
和花も最初はそうだったから。
米を適当に研いで水を入れた。
「これくらいでいいかな?」
正直、飯を炊くのなんてほとんどやったことがない。
だから伊藤さんに聞いた。
彼女は露骨にため息をついてから、答えた。
「いや、多すぎ。ちょっと捨てて」
「分かった」
和花はうまくやっているだろうか。
そっと視線を向けて確認すると、彼女は一生懸命まな板に向かい、手際よく包丁を振るっていた。
……案の定というか、鈴木と会話するどころか、顔を合わせようともしていなかった。
和花も鈴木も、料理の腕は抜群だった。
二人とも会話ひとつないのに、黙々と手だけは止まらない。
その光景が、俺には妙に不思議だった。
「ごめん、待たせたね!」
結月が細かく割った薪を持って、かまどにやってきた。
慣れた手つきで新聞紙を軽く丸め、かまどの中へ放り込んで火をつけた。
俺のそばまで来ると、結月は照れくさそうに両手を背中に回し、もじもじと話しかけてきた。
「どう? 私、上手でしょ?」
「あ、ああ。頼もしいな」
時々カメラを持って旅行やキャンプに行っているらしく、かなり手慣れた様子だ。
旅行、か……。
思わず、写真部の夏合宿を思い出してしまった。
一瞬でこみ上げてくる吐き気を、どうにか堪えた。
「は、早く飯盒火にかけなきゃ。もう、のせていい?」
「あ、う、うん……」
飯盒をかまどの上に素早くのせた。
そして無理に笑って、伊藤さんに尋ねた。
「このまま30分くらい待てばいいのかな?」
「……炊き上がるちょっと前に火から下ろして、10分くらい蒸らさないと」
「あ、そうだったな」
俺があまりにも露骨に避けようとしたからか、結月はその場に立ったまま、少し顔を伏せた。
——少し連想しただけで、すぐにトラウマが蘇る。
心の傷とは、これほど頑固なものか。
同じ痛みを抱えている愛理と向き合う時は、特に気をつけなければならないと思った。
「北山さん! 悪いんだけど、薪運ぶのちょっと手伝ってくれないか!」
「あ、うん、ごめん!」
高木に呼ばれ、結月は素早くかまどの前から離れていった。
俺の様子に気づいてくれたのか。それとも、ただの偶然か。
どちらにせよ、高木のおかげで助かった。
ふぅ、と安堵の息をついた、そのとき。
「ねえ、深川くん」
突然、伊藤さんが声をかけてきた。
「なに?」
「結月のこと、もしかして都合のいい女だと思ってる?」
「……は?」
一体なんだ、藪から棒に。
「結月の好意はちゃっかり受け取っといて、だからってちゃんとお返しするわけでもないし。何それ。結月の愛情を人質にして、おいしいとこだけ持っていく気?」
「伊藤さん、何か誤解があるみたいなんだけど……」
「何の誤解? さっきだってそうじゃん。あんたに飲んでって渡したお水を、他の子にもあげるなんて。結月が可哀想だと思わないわけ?」
和花のとき以上に、頑なだった。
伊藤さんの中で、俺はすでに悪い奴だと結論づけられている。
これでは俺が何を言っても、全く聞く耳を持たないだろう。
「あのさ、伊藤さん。俺と北山さんはもう別れた仲なんだ」
「それだって、あんたが一方的に振ったんじゃん……! 結月、何も悪いことしてないのに!」
和花もそうだし、伊藤さんも友達想いなタイプなのだろうか。
……ここまでくると、結月は女子の間で何か魔性の魅力でもあるのか?
「深川くん、あんた結月のこと利用してるでしょ! ありえない理由で振っといて、他の女子とイチャイチャして、それなのに結月の愛情は受け入れないとか!」
「俺はずっと北山さんを避けてたんだぞ? あっちから近づいてきてるんだ。今日だって、北山さんが同じ班になりたいって言ったの知ってるだろ」
「嘘! 楽しんでるくせに。自分のこと好きな子がすがりついてくるから、すっごく気分いいんでしょ? 自分の思い通りに女の子が動いてくれるのがいいんでしょ!?」
話が通じない。
どうしたものか。
伊藤さんの声はますます大きくなっていく——いつの間にか、他の班の視線が俺たちに集まっていた。
「それで伊藤さん、俺にどうしろって言うんだ?」
「ちゃんと反省して結月とやり直す気ないなら、もう一切関わらないでよ! いっそ結月を解放してあげて!! 結月だってあんた以外にもっといい男と結ばれるんだから!!」
「……分かった。これからは一切関わらないよ」
まあ、これでいいか。
伊藤さんが結月を説得してくれるなら、俺にとっても好都合だ。
そう思っていた矢先、背後から太い薪がガラガラと崩れ落ちる音がした。
振り向くと、結月が抱えていた薪をすべて地面に落とし、呆然と立っていた。
「ゆ、結月……」
伊藤さんが驚いた表情で結月を見つめた。
目が合った結月は、そのまま一直線に伊藤さんへ歩み寄る。
そして止める間もなく、乾いた音が響いた。
パァンッ——
結月が、伊藤さんの頬を思い切り張り飛ばした。




