第38話 林間学校①
明日の林間学校に向けて、北山結月は荷造りを進めていた。
もともと、見知らぬ土地へ行くこと自体は嫌いじゃない。
だから、今回の林間学校も心待ちにしていたイベントのはずだった。
蓮と別れるまでは。
(どうして、こんなことになっちゃったんだろう……)
できることなら、時間を巻き戻したい。
いや、巻き戻したところで、この結末は変えられただろうか。
フォトグラファーという夢のために写真部に残り続けている限り、何を言おうと、何をしようと、蓮の疑念が晴れることはなかっただろう。
結月はそう直感していた。
(夢と蓮、か……)
彼女は両方とも叶えたかった。
そう願うのは、高校生のカップルとしてごく当たり前のことのはずだった。
受験を控えた、どこにでもいる恋人同士と同じように。
蓮だって、それを否定したことはなかった。
(どちらか一つしか選べないなんて)
結月は菅原愛理の言葉を思い出した。
――夢が叶うといいわね。もっとも、隣に深川くんはいないだろうけど。
夢も蓮も大切だ。
どちらも幼い頃からずっと胸に抱き続けてきた思いだ。
なのに、今さら一つを捨てなきゃいけないなんて。
(こんなことになるなら、どうして応援してくれたの……)
蓮は小学生の頃からずっと、成績は常にトップクラスだった。
だから、より偏差値の高い高校へ進学できたはずだ。
だが、今の高校が写真部で有名だったため、蓮は結月のために志望校のランクを下げて受験してくれたのだ。
フォトグラファーの夢を絶対に叶えてほしい、という言葉と共に。
(いっそ最初から、夢なんて諦めろって言ってくれれば……!!)
もしかしたら、蓮が「夢を追うよりも、自分の隣で支えてほしい」と強く押し付けてきたら、そうしていたかもしれない。
写真部になんて入らず花嫁修業でもしろと言ってくれれば、そうしていたかもしれない。
そうしていれば、手作りのお弁当を持って「あーん」と差し出すのは、和花ではなく自分だったはずなのに。
結月は両手を小刻みに震わせながら、むせび泣いた。
「私、わかんないよ……。全然、わかんない……」
これからどうすればいいの?
蓮がいないまま写真部で活動を続けたところで、それに何の意味があるっていうの?
一番大切なものって何?
本当に夢が一番大切なの?
(私、そもそもなんでフォトグラファーになりたかったんだっけ)
結月は部屋の隅にある箱を一つ開けた。
箱の中には、これまで使ってきたカメラやレンズがしまわれていた。
思い出の写真が詰まったSDカードまで。
(……懐かしいな)
彼女は上から順にカメラの電源を入れていった。
ほとんどは、まだちゃんと動いた。
色々な写真が古い液晶画面に映し出された。
美しい景色、愛らしくも凛々しい動物たち、ふと見過ごしてしまいそうな小さな花、温かいご飯……。
その中で彼女の手が止まったのは、人物の写真だった。
(私、人ってほとんどお母さんと蓮しか撮ってなかったんだ)
高校に入学し、写真部に入ってからは、二人を被写体にすることがめっきり減ってしまった。
フォトグラファーとして成長するには、身内ではない誰かを撮ることが不可欠だと聞いていたからだ。
結月は次のカメラを手に取り、同じように写真を確認していった。
過去に遡るほど、自分の未熟さが嫌というほど見えてくる。
ホワイトバランス、ピント、露出、構図、光の向き――どこを取っても甘かった。
だけど――
(この時の私には、ちゃんと残したいものがあったんだな)
ゲーセンのクレーンゲームで成功して喜んでいる写真、好きな歌手が大きなスキャンダルに巻き込まれて落ち込んでいる写真、部屋に飛び込んできたスズメバチを退治しようと緊張している写真。
どれも蓮がモデルだった。
テクニックは拙くても、写真にはちゃんと芯が通っていた。
(そうか、私いつの間にか初心を忘れてたんだ……)
テクニック、ひいてはフォトグラファーという肩書きに囚われすぎるあまり、写真の本質から遠ざかっていた。
ブレていて粗くても、これらの写真からは感情が伝わってくる。
今、写真部で撮っている、技術だけが上達した写真とはまるで別物だった。
(このカメラは……)
箱の一番底にあるカメラを、結月は見つけた。
レンズ交換式ですらなく、センサーサイズも小さくて画質はザラザラ。
色合いも不自然なことこの上ない。
今となっては、スマホのカメラにすら劣る代物だ。
だけど――
(そうだ、蓮が買ってくれたカメラだった)
小学生の時、彼がお小遣いを貯めて誕生日にプレゼントしてくれた、結月の初めてのカメラ。
どうしてあの時、彼は誕生日プレゼントにカメラを選んだんだろう。
結月はじっくりと思い返し、やがてハッと目を見開いた。
(あの時お父さんがいなくなって……一緒に新しい思い出を作ろうって、蓮が……)
ある日突然、父は母と結月を残して家を出ていった。
優しい父だっただけに、結月には何が起きたのかも分からず、ただ泣き続けることしかできなかった。
そんな彼女を慰めるために、蓮は憂鬱な誕生日にカメラをプレゼントしてくれたのだ。
人はいなくなっても、写真は永遠に残るからって。
(私の夢も、蓮がくれたものだったんだ)
初めてフォトコンテストで入賞したのは、このカメラで撮った一枚だった。
テーマは日常の中の人物。
結月は蓮を撮って応募し、高い評価を得た。
(私、蓮から貰ったものがすごく多かったんだな……)
それなのに彼の切実な叫びを、ただの嫉妬や過剰反応だと決めつけてしまった。
一ヶ月もの間、彼が苦しんでいたことにすら、気づけなかった。
彼は自分を信じてくれていたのに、自分は彼を少しも信じられていなかった。
結月の頬を伝った涙が、旧型のデジカメへとひとつ、またひとつと落ちた。
「私、全部失っちゃった……」
お父さんも、友達も、夢も。
そして一番大切だった人までも。
◇◇
しばらくの間、結月は俺に近づいてこなかった。
もう、本当に俺との関係は諦めたんだと思っていた。
なのに、急に同じ班になりたいって言い出すなんて。
俺よりも先に高木が答えた。
「北山さん、こういうこと言うのもアレだけど、図々しすぎないか? ここには北山さんに傷つけられた人間が二人もいるんだぜ? いやがらせのつもりか?」
「べ、別にそんなんじゃ……。ただ私は……」
結月がうつむいた。
高木がここまで強い態度に出るのは珍しい。
たぶん俺が言いたいことを、悪役を買って出てまで代わりに言ってくれているのだろう。
ところが、和花が思いがけないことを口にした。
「わ、私は構わない。あの時のこと、全然気にしてないから」
いや、体育の時間に喧嘩して早退することになって、そのまま車に轢かれそうにまでなったのに。
それが結月のせいってわけじゃないけど……。
「それにあの時結月が言ったこと、今になって考えてみれば全く間違ってなかったと思うし」
「……!」
和花の言葉に結月が目を見開いた。
あの時、二人がどんなやり取りをしたのか、俺は詳しく知らない。
だから、結月がそこまで驚く理由も分からなかった。
高木が二人を黙って見守っていたが、やがて俺の方へ顔を向けた。
「それで深川、お前は? いいのか?」
正直、今でも結月の顔を見ると、長澤先輩に見せられた、『悪夢』の中の数多くの写真が脳裏に重なる。
吐き気さえこみ上げてくる。
たぶん彼女の存在自体が、俺の中でトラウマになったのだろう。
(……それでも俺も、ただ避け続けるわけにはいかないか)
和花は勇気を出した。
愛理もそうだ。
いつまでも結月に鎖のように縛られているわけにはいかない。
苦しいと感じても、前へ進まなきゃいけない。
「……俺も構わない」
俺の答えを聞いて、結月がパッと顔を輝かせた。
「ありがとう……!」
前へ進むと言っても、彼女とやり直す気なんて毛頭ない。
ただ、彼女の顔を見るだけで込み上げてくる吐き気に、少しずつ慣れていきたいだけだ。
せめて他の誰と同じように、ただのクラスメイトとして接せられるようになりたい。
でなければ俺は、この先ずっと、誰かを好きになるたび疑うことから始めてしまう。
高木がそっと俺に近づき、囁いた。
「お前、本当に大丈夫か。顔色、悪いぞ」
「大丈夫。その、一種の慣らしトレーニングだよ」
「お前は犬か……」
今度は交代するように、和花が耳元に口を近づけてきた。
「そ、その、もしキツかったら言って……? 私がちょっと結月を連れて別のところへ行ってるから」
もしかして和花が承諾したのは、俺のためだったのだろうか。
全く、このエセギャルはこういう時ばかりカッコつけて。
笑いながら彼女の両頬を指で摘んで引っ張った。
「なひふふのよぉ!?」
「職人手作りの餅がどれくらいよく伸びるか確認してるところだ」
「私のほっぺはお餅じゃないから!?」
やっぱり和花といると、気分が明るくなる。
◇
「「はぁっ……。はぁっ……」」
その後、高木の友達と結月の友達が一人ずつ合流し、六人になった。
そして俺たちはすぐに、ハイキングコースへと足を踏み入れた。
しばらくして、日頃から運動不足の俺と和花はすっかり息を切らしていた。
「な、なんでこんなに険しいのよ……!」
「ほんとにな……」
案の定、俺たちは遅れをとってしまった。
高木と結月が俺たちに合わせてくれた。
「お前、普段から少しは運動しろよ。たかがこれくらいで」
「う、うるさい、体動かすのは俺の専門じゃないんだよ」
「れ、蓮、大丈夫? 水飲む?」
「あ、うん……。ありがとう、北山さん」
伸ばしかけた手が、一瞬止まった。
それでも自分に言い聞かせるように手を伸ばし、結月の差し出した水筒を受け取った。
こうやって少しずつトラウマを克服していけばいいんじゃないだろうか。
水筒の蓋を開ける手が震えているのは、ハイキングで疲れたせいなのか、それともトラウマのせいなのか――俺には分からなかった。
数口飲んでいると、和花がじっと水筒を見つめてきた。
彼女も喉が渇いているのだろう。
「北山さん、和花にも飲ませていいか?」
「あ、う、うん。もちろん」
「ほら、和花」
「あ、ありがとう、結月」
和花は俺よりも喉が渇いていたのか、半分以上残っていた水筒の水をゴクゴクと飲み干した。
「程々に飲めよ。飲みすぎると余計にキツくなるぞ。それに、間接キスだ」
「ブフォッ――」
ゴホッ、ゴホッ、彼女が咳き込んだ。
「あんたね、こういう時にそんなこと言わないでよ! よ、余計に意識しちゃうじゃない!」
「へえ、俺と間接キスするの意識してんの?」
「ち、違うわよ!? あんたのつ、つ、唾なんて、野良犬以下だから!」
「俺、野良犬よりは綺麗だと思うんだけど」
和花と笑い合っていたせいで、俺はすぐには気づけなかった。
結月の友人が、こちらを冷ややかな目で見つめていたことに。




