第37話 後夜祭
菅原先輩はもちろん、俺も和花もすぐにタクシーに乗って菅原家へ向かった。
すでに消防車が何台も到着しており、消火活動に当たっていた。
屋根瓦の隙間から黒煙が噴き出し、真っ赤な炎が古い木造の壁を這い上がると、やがて恐ろしい勢いで空へと燃え広がった。
「う、うち、大丈夫かな……?」
隣の家に住む和花もそわそわと足踏みをしていた。
『悪夢』で見たあの放火事件そのものなら、これはガソリンを撒かれて起きた火災に違いない。
小森家へと延焼する恐れも十分にあった。
「二人とも、家の中には誰もいないよな?」
「いない。さっき来る途中、杏奈にも連絡してみたんだけど、学校にいるって。お母さんもお父さんも会社だし」
「私の家にもいないわ。おばあちゃんは亡くなって久しいし、お父さんは、まあ……今、留置所にいるから」
少なくとも、身近な人たちの無事は確認できた。
これで、菅原先輩が顔に大火傷を負って絶望する――あの最悪の未来だけは避けられた。
あとは、この火災がこれ以上大きくならないことを祈るだけだ。
俺が深く安堵の息を漏らすと、菅原先輩は少し目を丸くした。
やがて背伸びをして、俺の耳元に唇を寄せた。
「蓮くんが救ってくれたのね」
思わず、息を呑んだ。
和花には直接警告していたが、菅原先輩には何も伝えていなかった。
それなのに、勘づいていた。
「ありがとう」
菅原先輩がそっと俺の腕に抱きつき、甘えるように頬を擦り寄せてきた。
「私、蓮くんがいなかったら……もう、生きていく気力なんてなかったと思う」
「……俺は特別なことは何もしてないですよ。ただお金を渡しただけです」
「蓮くんがくれたのはお金だけじゃないわ」
彼女は柔らかく微笑み、俺を見上げた。
「新しい生き方を与えてくれた」
この言葉に、どこまでの意味が込められているのか。
俺はあえて聞かなかった。
ただ小さく微笑んで返し、一緒に燃え盛る菅原家を見つめた。
彼女が小さく呟いた。
「なんだか、後夜祭のキャンプファイヤーみたいじゃない?」
「……いや先輩、それでも自分の家じゃないですか」
「この家には何の思い出もないもの。辛い記憶ばかりよ」
没落の末に、いやいや移り住んだ家だ。
だから彼女にとっては、むしろせいせいしているのかもしれない。
ただ、こうなると……。
(当分の間、先輩は俺の家に泊まるしかなくなるな)
果たして穏やかな日常を送れるだろうか。
少し不安になった。
◇
幸い、消防士たちの懸命な消火活動のおかげで、火の手は小森家までは及ばなかった。
その後、警察が捜査した結果、あの『悪夢』の通り、借金取りの犯行で間違いなかった。
ただ、新たに判明した事実が一つあった。
(まさか焼身自殺だったとは)
俺が未来を変えた影響なのか、それとも元々の『悪夢』でもそうだったのかは分からない。
夢の中では菅原先輩の火傷にばかり気をとられていて、放火犯の末路まで思いが及ばなかったのだ。
菅原先輩はその後しばらく、事後処理に追われて多忙を極めていた。
それでも、俺の米国株のモニタリング業務だけは、どうにか続けようとしていた。
そうしてあっという間に日々が流れ、七月中旬を過ぎた頃のことだった。
「あの放火犯、ただの腹いせだったと推測されてるみたい」
彼女が警察から聞いた捜査結果を要約して教えてくれた。
どうやらその借金取りは、地元メディアで英樹さんの逮捕を知り、これ以上金を取り返すのはもう無理だと見て、犯行に及んだらしい。
(だから『悪夢』では、無関係の娘にまでガソリンを撒いたのか)
とにかくその借金取りも英樹さんに騙された身だ。
腹が立つ気持ち自体は、理解できなくもなかった。
復讐心を抱くのも、無理はないとさえ思えた。
だが、同じ被害者も同然の先輩にまで危害を加えようとした点だけは、どうしても許せなかった。
「それはそうと、蓮くん」
当の先輩は、その話にさほど関心がないようだった。
俺が聞いたから教えてくれた、という感じに近かった。
「約束、守ってくれるよね? 私、今回の期末テスト本当に頑張ったんだから」
バイト漬けだった先輩は、一年の範囲すらあやふやなありさまだった。
そんな事情から俺が勉強を見てやることになり、合わせて彼女のご褒美も一つ設けることになった。
「分かりました。これからは愛理先輩って呼びますね」
「先輩も敬語も嫌。和花さんみたいに接して」
「いや、でも先輩なのに……」
「たかが1歳年上なだけよ。あーあ、1年早く生まれたことが本当に恨めしいわ」
彼女は大げさに眉を下げ、いかにも嘆いてみせた。
正直、学校で変な目で見られそうだが、仕方ない。
本当に彼女はこのご褒美のために、今回の期末テストの勉強を猛烈に頑張ったのだから。
「分かりました。いや、分かったよ、愛理。これでいい?」
「うん、いいわね。じゃあ次は私が敬語に変えれば——」
「いや、それは頼むからやめてくれ」
まだあの奴隷ヒロイン志望は諦めていないのか?
単にまだお父さん関連の事後処理が全部終わっていないせいだろうか……?
今はそう信じるしかなかった。
「でもさ、愛理」
「なに?」
「……そろそろ自分の部屋に行ってくれないか? 俺、着替えたいんだけど」
「そのまま着替えちゃってもいいのに。いっそ私が着替えさせてあげよっか?」
「どこの異世界モノの王族だよ」
「じゃあ、お互い脱がせ合うとかは?」
「もはや着替えですらないだろ」
彼女がくすくす笑いながら俺の部屋を出て行った。
「私もこれから着替えるから、いくらでも覗いていいわよ?」
「覗きません」
「襲ってもいいわよ?」
「襲いません」
菅原先輩が新しい家を見つけるまで、俺の理性との戦いが続きそうだった。
◇
二日後の朝。
今日はいつもの教室ではなく、観光バスの座席に座っていた。
隣の席の和花が大きなため息をついた。
「あーあ、林間学校嫌だな……」
「なんで?」
「体力的にもキツいし、親しくない子たちとくっついて気まずい雰囲気でいるのも疲れるし、そもそも外で遊ぶのあんまり好きじゃないし……」
見た目に反して、相変わらずインドア全開だ。
まあ俺も、体育祭と同じで、林間学校がそこまで好きなわけじゃない。
「でも、今回は俺がいるから大丈夫じゃないか?」
「え? あ、う、うん!」
あくまで友達としての意味で言ったのに、和花は急に顔を赤くした。
そして膝の上に両手を置き、モジモジと足を擦り合わせた。
「蓮と一緒なら、何だって楽しいから……」
「あ、うん、そうなんだ。光栄だな」
「か、勘違いしないでよ! その……。と、とにかく勘違いしないでよね!」
一体何を?
もはや対象を見失ったツンデレムーブに、思わず笑ってしまった。
「あ、そういえば杏奈を預かってくれてありがとう」
「いや、いいよ。俺よりお母さんと愛理が面倒見てくれるわけだし」
うちの学校の林間学校は2泊3日だ。
そのため、不在の間、まだ幼い妹の面倒を代わりに見てくれる人が必要だったようだ。
どうせ杏奈も普段からうちによく来ていたし、気兼ねなく過ごせるだろうと思って、預かることにした。
……うちの母さんがすごく喜んでいた。
「蓮もいつの間にか自然に先輩を名前で呼ぶようになってたよね。しかもタメ口で」
和花が拗ねたように頬を膨らませた。
「いやそれが、今回の期末テストのご褒美みたいなことになってさ」
「え? まさか、先輩の勉強見てあげたの?」
「ある程度はね。もちろん2年の内容が全部わかるわけじゃないけど、愛理は元々1年の内容も分かってなかったから」
「ず、ずるい! なんで私にはしてくれなかったの!?」
これがずるいことなのか?
俺はキョトンとした。
「だって頼まれなかったからさ。愛理は手伝ってって言ってきたんだよ」
……お礼は体でするから、という条件を提示されたことは、あえて口には出さなかった。
「そ、そうなの!? じゃあ、私も勉強教えてって言ったら教えてくれるの!?」
「まあ、そうだね。愛理も入れて三人で勉強会って感じにはなるだろうけど」
「べ、勉強会! 私のバケットリストに入ってるやつ!」
和花が目を輝かせた。
そのバケットリストには一体いくつあるのだろうか。
実際、勉強会なんてたいてい雑談に流れて、思ったほど勉強にならないとも言うけれど……。
俺もやったことがあるわけではないので言葉を濁した。
「次の中間テストの時、勉強会する?」
「う、うん! こ、光栄に思いなさいよね! 私の初体験をあんたにあげるんだから!」
「いや、勉強会って言葉を省略するなよ」
変な意味になるだろ。
◇
午後、目的地に着くと、俺たちはぞろぞろとバスを降りた。
そして簡単にオリエンテーションを聞いた後、教師が叫んだ。
「さあ、今から6人1組で集まれ!」
いや、なんでうちの学校はあらかじめ班を決めておかないんだ。
ほんと、こういうところがうちの学校らしい。
和花が俺の袖を引っ張った。
「わ、私と同じ班になるよね……?」
「当然だろ。俺も友達少ないし」
「そ、そうだよね!? よ、よかったぁ……」
彼女が本気で安堵したように、長いため息をついた。
まさか俺が彼女を見捨てて、他のやつらと班を組むとでも思っていたのか。
俺は冗談めかして言った。
「俺と同じ班になれてよかっただろ?」
「べ、別に! む、むしろ蓮のほうこそよかったじゃない!」
「え、もしかして俺、迷惑だった? 他の班に行ったほうがいい?」
「あ、ご、ごめん! 私が言いすぎた! このままでいて! お、お願い!!」
和花が俺の手を両手で握り、すがりついてきた。
いや、ここまで激しく反応するとは。
軽くからかっただけのつもりが、少しやりすぎたらしい。
俺は彼女の頭に手を置き、ポンポンと軽く叩いた。
「泣くなよ。俺はどこにも行かないから」
「べ、別に泣いてないし!」
この鼻をすする音は何だろう。
その可愛らしい強がりに、思わず微笑んでいると——
「よお、空いてるか?」
高木が俺たちの方へ近づいてきた。
「実はたった今売り切れたところだ」
「嘘つけ!」
もちろん受け入れるつもりだった。
ただ、和花と高木はそこまで親しくないから、和花は大丈夫だろうか。
そう心配して、顔を彼女の方へ向けた。
「……」
案の定、固まっていた。
小さな子どもみたいに、和花は俺の腕をぎゅっと掴んだまま後ずさった。
「和花も大丈夫だってさ」
「いや、俺、完全に引かれてるみたいなんだけど!?」
「これは言うなれば和花語だよ」
「小森さん、独自の言語体系まで構築したのか!?」
この機会に、和花にも俺以外の男子とちゃんと話す練習をしてもらったほうがいいかもしれない。
高木は基本的に陽キャ気質で空気も読めるし、他人への配慮もできるから。
「あの……」
そのときだった。
近づいてくる足音と共に、聞き慣れた声が割り込んできた。
「私も、入れてもらっていいかな……?」
結月だった。




