第36話 憧れのヒロイン
俺はすぐに察した。
菅原先輩が不安を和らげようと、俺に依存しに来たのだと。
だが、彼女の切実な瞳を前にすると、冷たく突き放すことはできなかった。
何より、今日ここで突き放せば、彼女が取り返しのつかないことになりかねない。
そんな恐れがあった。
(当分俺に依存することになったとしても、自殺だけは……)
菅原先輩が俺に求めているのは、恋人としての役割ではない。
彼女を守り、常に味方でいて、心を支える存在。
言い換えれば、本来なら父親である英樹が果たすべき役割だ。
「分かりました。今日だけですよ」
「うん……。ありがとう」
「念のため言っておきますが、他の人には言わないでくださいね」
「分かったわ」
当然だが、変な真似をするつもりはなかった。
だが、思春期の男女が同じ部屋で寝ること自体がおかしい。
万が一そんな噂が学校で広まれば、俺はともかく、菅原先輩は『金をもらって体を売った』なんて、女子として致命的なレッテルを貼られかねない。
「先輩、ところで髪は乾かしましたか?」
「……怖くて、ただタオルで拭いてすぐ来たの」
「早く乾かしてください。せっかくの綺麗な髪が傷んだら、もったいないですから」
「それって、深川くんにとってもそのほうがいいの?」
「もちろんです。だから早くドライヤーで乾かしてください。怖いなら、この部屋でやっていいですから」
「分かったわ」
菅原先輩が素早く洗面台からドライヤーを持ってきた。
よほど一人でいたくないらしい。
心が弱っている今は仕方ないとしても、もともとかなり甘えん坊な性格なのだろうか。
出会った当初の彼女からは、想像もつかない姿だ。
俺は冗談めかして言った。
「俺の右腕が無事なら、直接乾かしてあげられたんですけどね」
「深川くん、手や脚だけじゃなくて、女の子の髪も好きなの?」
「なんというか、男の髪とはちょっと違うじゃないですか。気のせいかもしれませんけど」
「ふーん……」
彼女がドライヤーの電源を入れながら言葉を継いだ。
「言ったでしょ? 私に何してもいいって。髪も触りたければいくらでも触っていいわよ」
こうもストレートに来られると、どう対処すべきか戸惑ってしまう。
こんな時ばかりは、和花の古典的なツンデレが懐かしくさえ思える。
「ところで先輩、一緒に寝るって、単にこの部屋で一緒に寝るだけって意味ですよね?」
「念のため言っておくけど、深川くんのベッドで一緒に寝るって意味だからね。まさか深川くんは床に布団敷いて寝る、なんて言うつもりじゃないわよね?」
「……」
バレた。
余計なことを聞いて、藪蛇になったか。
(まあ……俺のベッドは広いほうだし)
結月のために新調しただけあって、二人で寝ても窮屈じゃないサイズを選んでいた。
そうだ、この前のホテルの時のように、ただの添い寝だと思えばいい。
添い寝からして少しおかしい気もするが……。
先にベッドへ上がり、横になった。
俺も今日は、知らないうちにずいぶん疲れていたらしい。
今にも目が閉じそうだった。
「深川くん、深川くんは胸派? それともお尻派?」
「本当に唐突ですね。まあ、それぞれにいいところはありますけど……。俺は女の子のスタイルは骨盤が命だと思っているので」
「へえ、そうなんだ。ちなみに私は胸もお尻も自信あるわよ。もちろん骨盤もね」
「自慢ですか?」
「アピールよ」
今夜、俺はまともに熟睡できるのだろうか。
なんだか菅原先輩が、すっかり狼じみてきた。
やがて、ドライヤーの音が止んだ。
彼女は片付けを済ませると、壁のスイッチをひと押しして電気を消した。
そして、当然のように俺のベッドへするりと滑り込んできた。
「深川くん、このベッド何? すごくいいんだけど」
「100万円のマットレスですよ」
「へえ……。え? 100万円? 10万円じゃなくて?」
「はい」
彼女が目を丸くして、マットレスを手でぎゅっぎゅっと押した。
『星の王子さま』にある通り、大人というのは数字が好きな生き物らしい。
まだ大人とは呼べない俺たちも、確実にその階段を上っているということか。
「やっぱり深川くんは、いろんな意味で普通じゃないわね」
「俺はどこにでもいる、ごく普通の高校生ですけど?」
「他の人はともかく、深川くんからそれを聞くと、日本の平均年収のニュースを見ている気分だわ」
「……」
いやまあ、予知能力があるから、俺自身も自分がごく普通だとは思っていないが……。
確かに彼女の立場からすれば、最初の出会いからして奇妙だったのだから、そう思うのも無理はなかった。
「私、やっぱり普通じゃない人が好きなのかも」
「そうですか?」
菅原先輩もベッドに横たわった。
顔を俺の方へ向けた彼女が、小さな声で言葉を継いだ。
「それでね、ネット小説を読んでる時も、本当に普通な男主人公より、少し変わった主人公のほうが好きだったの」
「まあ、正直ラノベの主人公が本当に普通なケースは稀ですけどね」
元々普通だったとしても、異世界に行ってチートを一つ手にした瞬間、普通ではなくなるのだから。
ラノベだけでなく、スター・ウォーズのような海外映画にも当てはまることだ。
菅原先輩がさりげなく俺の方へ体をすり寄せてきた。
俺は寝返りを打つふりをして、左側に体を向けた。
だが、逃がさないとばかりに、彼女は俺の背中をぎゅっと抱きしめ、上半身を密着させてきた。
「私、ネット小説を読んでて、一番憧れたヒロインがどんなのか知ってる?」
「……さあ」
男性向けのハーレム物を読んで、女の子が憧れるようなヒロインなんてどんなのがいるだろうか。
到底思い浮かばない。
決して、パジャマ越しに背中へ押しつけられた、豊かで柔らかな感触のせいではない。
「奴隷のヒロインよ」
「え?」
「優しくて有能で、少し変わったご主人様に出会って、ご主人様のことだけを盲目的に愛していればいい、そんな奴隷ヒロインになりたかったの」
そういえば、学校の非常階段で話してくれたことがあったな。
ハーレムのヒロインを全員養ってくれる小説が好きだって。
「良くない? 何の心配もなく、ただご主人様だけを愛していれば、それ以上に可愛がってもらえて、何不自由なく暮らせるなんて。羨ましいとさえ思ったわ」
「……そうだったんですね」
今日の一件に限った話ではない。
それほどまでに、彼女の心は疲弊しきっていたのだろう。
彼女は頑丈な防壁を求めていたのだ。
おそらく本来の彼女が、自ら逆境を切り抜けていくタイプではないということもあったのだろう。
「だからなんだけど、深川くん……」
彼女が俺の耳元へ唇を近づけた。
吐息が、いやに艶っぽく耳元をくすぐってくる。
「私の、ご主人様になってくれる?」
平日はずっと彼女が隣の部屋にいたせいで、気を抜く暇もなかった。
おまけに今日は、緊張の連続だった。
二人きりの部屋でこんな誘惑を受ければ、冷静な判断を失いそうになる。
――だが、堪えなければならない。
(これは、俺のことが好きだからじゃないんだから)
俺を逃げ場にしようとしているだけだ。
これを受け入れた瞬間、菅原先輩はずっと俺の存在だけを生き甲斐にしてしまうだろう。
それは彼女にとっても、俺にとっても良くない。
「……先輩、すみませんが、俺は当分彼女を作るつもりはありませんから」
「彼女じゃなくて奴隷よ。彼女は彼女で別に作ってもいいわ。それに私、そもそも深川くんを独占するつもりなんてないから」
「俺、結構ハードなプレイが好きなんですけど?」
「奴隷だからやっぱりSM? それとも放置? どっちでもいいわよ」
「俺がなんで元カノと別れたか知ってます? 妊娠させようとしたからですよ?」
「それが何? その元カノがおかしいわね。むしろ喜ぶべきじゃないの?」
「……」
話が通じない……。
案外、強敵だ。
「先輩、それは今日あまりにも色んなことがあって、心が混乱してるだけですよ」
「違うわ、本気よ」
「じゃあ、今回の件が落ち着いてからもそう思うなら、その時は前向きに検討します」
「それ、やらないってことじゃない?」
「違います。そうですね……これはテストです。先輩がどれだけ本気かを見るための。もし本当に本気なら、心が弱っている今じゃなくて、落ち着いたあとでも同じように思うはずでしょう?」
「……確かに一理あるわね」
頭ごなしに拒絶するより、こうして今は保留にしておく方がいいだろう。
ただ嫌だと言えば、今の彼女の立場では、俺にまで拒絶されたように感じるだろうから。
「分かったわ。そのテスト、受け入れる。その代わり、私が本気だって分かったら、その時は絶対に受け入れてよね」
「はい、もちろんです」
俺は心の中で、子どもの頃に読んだリンカーンの偉人伝を思い浮かべながら眠りについた。
◇
その後はとんとん拍子だった。
翌日、すぐに専門の弁護士を訪ねて依頼し、刑事告訴と親権喪失の申立て手続きを並行して進めることにした。
菅原先輩が積極的に主張するようになった上、探偵を通じて得た証拠も有効に活用できそうだ。
6月が過ぎ、7月になった。
病院からもうギプスを外していいと言われ、右腕が自由の身となった。
それに伴って、和花の任務も自然と終わった。
「あ、ニュース見ましたよ。先輩のお父さん、逮捕されたそうですね」
昼休みの非常階段。
俺と和花、菅原先輩は相変わらずここでよく集まっている。
菅原先輩はもう、俺に15分で1万円を要求したりしない。
いや、むしろ自ら拒否した。
和花の言葉に、菅原先輩が頷いた。
「地元のニュースにまで報道されるなんてね。まあ、全部蓮くんが頑張ってくれたおかげだけど。弁護士費用も蓮くんが全額出してくれたし」
「ところで先輩、もう逮捕もされたんだから、蓮の家にこれ以上お世話にならなくてもいいんじゃないですか?」
「もう家に帰っても私一人しかいないもの。蓮くんの家にいて、いつでもご奉仕できる方が好きなの」
「ご、ご奉仕!? というか、すごく自然に蓮を名前で呼ぶようになってませんか!?」
「私は和花さんみたいにツンデレじゃないから。蓮くんの奴隷ヒロイン志望として、本当はご主人様って呼ぼうと思ったんだけど、却下されちゃったわ」
「ど、奴隷!? ご主人様!? れ、蓮! これどういうことよ!!」
……そうやって俺の胸ぐらを掴んで睨まれても、俺は最善を尽くしただけなんだが。
それどころか、俺の家の家事を全部引き受けようとするものだから、母さんも少し困っているくらいだ。
しかし、その時だった。
「こんなところにいたのか、菅原!」
突然、男性教師が駆け込んできた。
彼は2年4組、つまり菅原先輩の担任だ。
「連絡が入った!今、お前の家、大変だって!」
「私の家ですか?」
教師が慌てふためきながら叫んだ。
「どうやらお前の家、火事らしいぞ!!」




