第35話 直面した真実②
トントン、トントン。
菅原先輩の父親が、神経質にテーブルを叩いた。
すると、ディーラーが彼にカードを一枚手渡した。
「くそっ!」
彼の手札は合計16点。
さらに引けばバーストは必至。
かといって、このままでは勝てる数字でもない。
一言で言えば、詰んでいる。
菅原先輩が唇をわなわなと震わせながら叫んだ。
「お父さん、ここで一体何を……!!」
俺は咄嗟に手で彼女の口を塞いだ。
ここは闇カジノのど真ん中だ。
むやみに視線を集めていいことなどない。
「俺に任せてください」
菅原先輩がゆっくりと頷いた。
彼女が俺の腕をしっかり掴んだのを確かめ、俺はテーブルの方へと踏み込んだ。
カードを睨みつけ、ひたすら考え込んでいる先輩の父親の肩を、トントンと叩いた。
彼は険しい顔で勢いよく振り向いた。
「なんだ、お前は! 今こっちは忙しいのが見えねえのか!?」
「すみません。お久しぶりです。ご挨拶に伺いました」
「あぁ? お前、俺を誰だと――。え? あ、愛理? それにバフェットくん……?」
実の娘の顔さえ、ひと目でわからないのか。
どれだけギャンブルに取り憑かれているのだろうか。
「その勝負を切り上げたら、少し外で話しませんか?」
「……」
先輩の父親が渋い顔で、再びディーラーの方へ向き直った。
そして手を振り、スタンドの合図を出した。
ディーラーの手札は合計21点。
どう足掻いても、勝機はなかった。
彼が席を立ち、外へ出た。
雑居ビルの一角、三人の間にしばし沈黙が流れた。
「正直に話してください、英樹さん。あなたは娘が稼いできたお金を、さっきみたいにギャンブルに使ったんでしょ?」
「ほ、本当なの、お父さん……?」
「ち、違う! 今日はただ、たまたま、そ、そうだ! 取引先を接待するために来たんだ! 俺だって来たくて来たわけじゃねえ!」
「その取引先の方々、紹介していただけますよね? 接待するなら一緒に来られたんですよね?」
「うっ……。このガキが、大人の言うことに口答えしやがって……!!」
以前は俺を婿扱いしていたくせに、今は手のひらを返した態度だ。
俺は気にせず、探偵が中間報告書に添付した行動記録を、一つ一つ読み上げた。
彼はここだけでなく、違法雀荘も含め、いくつもの闇の賭場を渡り歩いている。
「それに愛理先輩には事業の借金だと言っていましたが、実際は違いますよね? 知人たちも騙して、ギャンブルに使うお金を借りたんでしょう。後になってそれを知った知人たちが、早く返せと騒いでいるじゃないですか」
「お前、一体何なんだ! なんでこんなところまでやって来て邪魔しやがるんだ!!」
「俺は特に英樹さんの邪魔をするつもりはありません。ただ――」
眉間を寄せ、言葉を継いだ。
「愛理先輩を救いたい、それだけです」
彼女を放火事件に巻き込ませないために。
ひいては、自ら命を絶つ未来を選ばせないために。
先輩の父親――菅原英樹が唾を飛ばしながら叫んだ。
「ふざけるな!! 俺が勝ってこそ、愛理も幸せになるんだ! これが俺の生業なんだよ!」
「問題なのは、仕事ではなくギャンブルで金を得ようとしていることです。愛理先輩は身を粉にして働いた。その血と汗の結晶を、借金返済には一銭も回さず、湯水のようにギャンブルへ注ぎ込んだのは、他でもないあなただ」
俺の言葉を聞いた菅原先輩が、へたりとその場に座り込んだ。
深紅のドレスに、大粒の涙が次々とこぼれ落ちていく。
血を吐くような努力の結晶が、すべてカジノのチップに変わって泡のように消えたのだと、彼女はようやく思い知ったのだろう。
「お父さん、どうしてこんなことができるの……。私、お父さんのためにたくさんのことを諦めてきたのに。本当にたくさんのことを……。なのに、なのに……!!」
「黙れ!! 今まで苦労して育ててやっただろうが。なら、父親が苦しい時は助けてやるのが子どもの道理ってもんだろ!! 男にたぶらかされて、自分の親に向かってなんて口の利き方しやがる!!」
「英樹さん、本当に見苦しいですね。いい歳をして、自分の娘にたかるつもりですか」
「こ、このガキが……!!」
とうとう菅原英樹が俺の胸ぐらを掴んだ。
だが、その手は長年、トランプや麻雀牌ばかり握ってきたのだろう。
細い腕に込められた力は、拍子抜けするほど弱々しかった。
息苦しいどころか、いとも簡単に振り払うことができた。
「今のは立派な暴行罪ですよ。警察を呼びましょうか? もちろん、英樹さんがただで済むとは思えませんが」
「うっ……」
彼が力なく両腕を下ろし、うなだれた。
菅原先輩がそんな彼に、すすり泣く声で問いただした。
「お父さん、本当なの? 本当なの!? これまで私が稼いできたお金、全部ギャンブルに使い果たしたの!? 何とか答えてよ!!」
英樹さんは、もはや弁解のしようもないのか、口を固く結んだ。
その沈黙を肯定と受け取ったのか、彼女はさらに涙を溢れさせた。
彼女の頬を伝う涙の筋に、心が痛んだ。
だが、あの『悪夢』を回避するためには、避けては通れない痛みだった。
膝をつき、先輩にハンカチを差し出した。
彼女はハンカチを受け取ったものの、手に力が入らないのか、床に落としかけた。
俺は黙って、ハンカチで彼女の目元をそっと拭ってやった。
「おい、そこのお前ら。何してるんだ」
その時、防火扉の前で見かけた、あの野太い声の男が俺たちに近づいてきた。
俺はすぐに菅原先輩の腕を自分の首に回させ、体を支えた。
「あ、すみませーん。俺たち、このおじさんとちょっと揉めちゃって。それじゃ、失礼しまーす」
菅原英樹を見つめながら言葉を継いだ。
「おじさん、恥を知りなよ」
◇
足元のおぼつかない菅原先輩を支えながら歩き続けるのも限界があった。
大通りに出て、タクシーを拾った。
泣き止んだ彼女が、低く呟いた。
「……ごめん、深川くん。迷惑かけたわね」
「いえ、これくらい。むしろ俺のせいで随分驚かれたでしょう? すみません」
「ううん……。正直すごくショックだったけど、深川くんがいなかったら、私ずっとお父さんに騙されていたはずだもの」
いや、いずれは露見したはずだ。
だが、『悪夢』の通りなら、そのきっかけは放火事件だった。
違いがあるとすれば、俺が意図して見せたということくらいだ。
そして彼女も、その違いをもう分かっている。
「深川くん、私これからどうすればいいのかな」
菅原先輩が俺の肩に寄りかかった。
「心にぽっかり大きな穴が空いた気分。私、本当に独りぼっちになっちゃった」
「何で独りぼっちなんですか。俺がいるじゃないですか」
「深川くんは、ずっと私のそばにいてくれるの……?」
「もちろんです。言ったじゃないですか? 俺が少なくとも大学を卒業するまで、先輩をずっと雇い続けるって」
最初は彼女が事件に巻き込まれないようにするための口実だったが、実際、彼女の存在は俺の投資活動や学業の両立において予想以上に役立っていた。
だから、単なる気休めの嘘ではない。
「私、ちゃんと深川くんの役に立ってる?」
「はい。むしろ俺の方からもっとお願いしたいくらいです」
「そうなんだ……。よかった」
菅原先輩が小さく微笑んだ。
「私、もう深川くんを信じていい?」
「はい。お父さんのためにしてきた努力を、俺に向けてください。俺は悪徳な雇い主なんで、がっつりこき使いますからね」
もちろん、彼女が俺に依存しすぎるのも良くない。
だが今は何よりも、彼女が受けたショックを落ち着かせるのが優先だ。
ゆっくりと時間をかけて、彼女が自分の足で立てるよう、そっと背中を押してやらなければ、と思った。
「先輩、今夜はどうしますか? ホテルを取りましょうか?」
このまま菅原先輩を彼女の家に帰すのは危険だろう。
そもそも彼女を父親から隔離するための作戦だったのだから。
「……深川くんの家がいい」
「分かりました」
母さんに事情だけ手短に話して、今は菅原先輩の仕事場になっている隣の部屋で休んでもらおう。
今日はさすがに、彼女も心身ともに限界だろう。
今後のことは、ひとまず眠ってから落ち着いて話し合えばいい。
家の前に到着し、タクシーから降りた。
まだ菅原先輩は足に力が入らないのか、ふらついていた。
「俺に捕まってください」
「……ごめん」
「できれば『ごめん』じゃなくて、『ありがとう』って言ってくれたほうが嬉しいんですけど」
「ありがとう……」
彼女を支えながら玄関のドアを開け、家の中に入った。
俺たちの姿を見て、母さんが驚いたように目を丸くした。
「な、何かあったの?」
「後で説明するよ。母さん、悪いんだけどお風呂のお湯張ってくれる? 先輩、ひとまず温かいお風呂に入るのはどうですか?」
「……うん。ありがとう」
菅原先輩がお風呂に入っている間、俺は2階へ上がり、俺の隣の部屋に布団をきれいに敷いた。
そして、あらかじめ用意しておいたアロマキャンドルを、そっとサイドテーブルに置いた。
心を落ち着かせ、深い眠りへと誘うのに効果的だと聞いていた。
その後、俺は先輩がお風呂から上がるのを自分の部屋で待った。
ノートを開き、今日の出来事を日記のように書き留め、これからやるべきことをもう一度確認した。
「深川くん」
そうしているうちに、菅原先輩が予想より早くお風呂から上がり、俺の部屋にやって来た。
ところが彼女は、ためらいなく俺のそばへ歩み寄ると、そのまま強く抱きしめてきた。
「お願い。私、今日だけは一人でいたくない」
「せ、先輩?」
「湯船に一人で浸かっている間……すごく怖かった。世界中に私一人だけ、取り残されたみたいで……」
体を温めて落ち着かせようとしたのに、それがかえって裏目に出てしまったらしい。
菅原先輩にとって、父親という存在は、俺が思っていた以上に大きかったのだ。
「私に何してもいいわ。だから、そばにいさせて」
「先輩……」
彼女は全身を震わせ、言葉を続けた。
「一人で寝たくないの。……お願い、一緒に寝て」




