第29話 悪臭
菅原先輩の後ろに続いて門扉を通り抜けた。
このままポケットから鍵を取り出すのかと思ったが、先輩は不意に庭の隅へ歩み寄った。
そして、空の植木鉢を一つ持ち上げた。
「……先輩、まさか鍵を別に持ち歩いてないんですか?」
「うん、まあね。お父さんがよくなくすから。その都度合鍵を作るのも、バカにならないし」
なるほど。だから『悪夢』の放火犯は、いとも簡単に玄関を突破できたのか。
おそらく、父親がすぐに鍵をなくすのは、ギャンブルだけでなく酒にも溺れているからだ。
勝てば祝い酒、負ければ現実逃避のヤケ酒といったところだろう。
(後でデジタルロックでも取り付けてあげなきゃな)
鍵をなくしても開けられる、指紋認証式のやつだ。
たとえ放火犯じゃなくても、今のままじゃ防犯面があまりに無防備すぎる。
借金取りが、あの放火犯一人だけとも思えないしな。
窓のほうも何か対策を打っておいたほうがいいだろう。
「あ……。ちょっと待って。お父さん、もう帰ってきてるわ」
玄関のドアを開けた菅原先輩が、床に置かれた靴を見てそう言った。
彼女が先に中へ入ると、奥からかすかな話し声が聞こえてきた。
俺のことでも話しているのだろうか。
意外にも、先輩はすぐにまた玄関に戻ってきた。
「入って」
「あ、はい。お邪魔します」
正直なところ、足の踏み場もないゴミ山と、隅に張られたクモの巣を覚悟していた。
幸い、それは杞憂に終わったが。
ただ、うっすらと積もった埃が、部屋の輪郭を白く縁取っていた。
掃除をしていないわけじゃないのだろう。
だが、手が回らない時間の長さは、積もった埃にそのまま刻まれていた。
「お父さん、紹介するわ」
菅原先輩の後ろに続いてリビングに入った。
そこには、床に寝転んだまま紙パックの酒をあおっている中年男がいた。
一見すると、休日の昼酒を楽しむ平凡な父親だ。
だが、ソファもテレビも何もない殺風景なリビングの真ん中で、男の目はどこか虚ろだった。
焦点が合っておらず、何を見ているのかすら分からない。
「この人が前に話した深川くん。私を株式投資のアシストとして雇ってくれるっていう」
「あ、ああ!」
先輩のお父さんがふらつきながら床から立ち上がった。
俺に近づくにつれて、酒の匂いがさらに強く鼻を突いた。
彼は満面の笑みを浮かべたかと思うと、俺の両肩を掴んできた。
「ハンサムでさっぱりとした兄ちゃんだな! 君がバフェットくんか!」
「いえ、深川ですが……」
「若いのに冗談が通じねえな!とにかく、うちの娘をよろしく頼むよ。母親似でかなりの美人だろ?」
「あ、はい、こちらこそよろしくお願いします……」
菅原先輩のお父さんが、すごく親しげに俺の首に腕を回してきた。
そして、顔を近づけて表情を一変させた。
「他のことはともかく、給料を踏み倒すのだけは絶対に許さねえからな」
吐き出される酒臭い息に、俺は思わず顔をしかめた。
この男にとっては、娘の安否より、娘が運んでくる金のほうが大事なのか。
心底、不快だった。
彼が俺から腕を離すと、今度は自分の娘の両肩を掴み、俺の隣へと半ば強引に押しつけた。
「お似合いじゃねえか!バフェットくん、いっそ愛理を連れて暮らす気はねえか?」
「お父さん、酔いすぎよ。深川くんが私みたいな貧乏女を嫁にするわけないでしょ」
「じゃあ愛人ならどうだ、え?こんなに若くて有能な兄ちゃんなら、女くらい何人も囲って暮らすもんじゃねえか!」
ハハハ、と菅原先輩のお父さんが大笑いした。
自分の娘を愛人にしろだなんて、冗談でも口にしていい言葉か?
いや、もしかしたら本気なのかもしれない。
どうにかして娘を通じて俺の金を吸い取る気なのだ。
俺がショックで凍りついていると、彼が突然リビングを出て玄関へ向かった。
「俺みたいに年食った人間が空気読まずに居ちゃダメだよな! それじゃあ、あとは若い者同士で〜」
「お父さん、また仕事行くの?そんなに酔ってて大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫だ! このお父さん、まだ死んじゃいねえぞ! 今度こそ大きく稼いでくるからな!」
玄関のドアが開き、閉まる。
家には、俺と菅原先輩だけが残された。
先輩はまだ、父がギャンブルに溺れていることを知らない。
間違いなく、あの人は仕事じゃなくギャンブルに向かったのだろう。
優しい声で父親に、
「うん、仕事頑張ってね」
と声をかける彼女を見ていると、胸が痛んだ。
◇
「それじゃあカップ麺作ってくるから、ちょっと待ってて」
菅原先輩の部屋に来た。
リビングと同じだった。
本当に女子高生の部屋なのかと疑ってしまうほど、何もなかった。
クローゼットはおろかハンガーすらなく、制服や私服が床にただ転がっている。
いっそ刑務所のほうが、まだ人の温もりがあるんじゃないかと思えるほどだ。
(あ、ここだったんだ!あの『悪夢』の場所!)
菅原先輩が顔に大火傷を負った、二つ目の夢。
屋内だということまでは分かっていたが、場所までは特定できていなかった。
だが今、ついに分かった。
未来の彼女が火傷を負って嗚咽していたのは、ほかでもない、炎に呑まれた自分の家だった。
(そうか、先輩はまさにここで災難に遭ったんだ)
彼女が悪いわけでもないのに、ただあの男の娘だという理由だけで。
何としてでも、あの最悪の未来だけは回避しなければならない。
改めて決意を固めた、その時だった。
「はい、これ」
菅原先輩がカップ麺二つと割り箸を持って部屋に戻ってきた。
俺は自分の分のカップ麺と割り箸を受け取り、彼女と向かい合うように床へ座った。
彼女がスープを先に一口飲んで言った。
「美味しい。なんか、本当に久しぶりな気がするわ」
「そうですか?」
「うん。だって高いじゃない。深川くんが最近1万円ずつくれるから、少し贅沢してるのよ?」
贅沢、か……。
つまり菅原先輩は、自分にとっては贅沢でしかないものを、俺のために出してくれたのか。
そう思うと、彼女の誠意がひしひしと伝わってきた。
「ありがたくいただきます」
俺も彼女に倣ってスープから飲んだ。
彼女がほんの少しだけ微笑んだ。
その微笑みは、先ほど父親に向けた表情とどこか似ていた。
「先輩、少し失礼な質問かもしれませんが……」
「何?」
「先輩は、お父さんについてどう思ってるんですか?」
最優先は放火事件を防ぐことだ。
だが同時に、父親の実態を彼女に知らせ、そこから引き離すことも同じくらい急務だった。
そのためには、菅原先輩の考えを知っておく必要があった。
そうしてこそ、どのように助けるべきか、具体的な計画を立てられる。
「……そうね。最近は毎日お酒を飲んで、ともすれば家に帰ってもこないけど……。でも昔は優しかったの。海外出張から帰ってくると、いつも私へのプレゼントも山のように買ってきてくれたし」
「そんな方がどうして?」
「事業が失敗したのよ。私はよく分からないけど、昔はお父さん、結構上手くいってたみたい。大企業の一次ベンダーって言ってたかな。シリコンバレーの企業とも協力して」
「それはかなり大きく事業をされてたんですね」
「でも、政治家のスキャンダルに巻き込まれちゃったの。お父さん曰く、自分たちがトカゲの尻尾切りにされたんだって」
そういえば、小学校の頃だったか中学校の頃だったか、有力政治家の企業癒着でマスコミが騒いでいた時期があった。
まさかそれが菅原先輩と繋がっているとは思わなかった。
「正直、今のお父さんは……。ちょっと見ていてつらいのはあるわね。深川くんも気になって、聞いてくれたんでしょ?」
「まあ……。こんなこと言うのもアレですが、少し普通ではないと感じました」
「そうでしょうね。……でも、お父さんもお父さんなりに努力してるし。それに、唯一の家族だから」
俺は彼女の言葉に思わず目を見開いた。
唯一の家族?
そういえば、一つ違和感があった。
今まで彼女から聞いた話にも、この家のどこにも、母親の気配は欠片もなかった。
『悪夢』の中でさえも。
「その……。唯一っていうのは……?」
「あ、言ってなかったっけ。うちのお母さん、お父さんの事業が失敗してすぐ逃げたの。連絡先も知らないわ。どこにいるのか、何をしているのか、生きているのか、全部」
「あ……そうだったんですね」
すべてが腑に落ちた。
菅原先輩のお父さんの立場からすれば、不当に会社が潰れ、妻もそばを離れた。
そんな苦しい状況の中で、何かをきっかけにギャンブルに手を出し、酒にも溺れるようになったのだろう。
(待てよ、それじゃあまさか……)
ふと、学校で彼女が左腕に包帯を巻き、夏服の時でも黒いタイツを穿いていることを思い出した。
あらゆる面で節約していることを考えれば、中二病の見栄で包帯や黒タイツを身につけているわけではないだろう。
包帯と黒タイツ。その二つの共通点は――何かを隠すのに都合がいいということだ。
「先輩、失礼なのは承知ですが、それでも正直に答えてください」
俺は唾を飲み込みながら、恐る恐る尋ねた。
「お父さんに……時々、殴られたりしてるんですか……?」




