第30話 生足派
俺の問いかけに、菅原先輩はビクッと肩を震わせた。
少し単刀直入すぎただろうか。
だが、こんな重要なことを俺の勝手な推測だけで終わらせてはいけないと思った。
「……そこまで酷いわけじゃないわ」
彼女は目を逸らし、呟くように答えた。
――つまり、暴力そのものはあるということだ。
「主にどんな時にそうなるんですか?」
「まあ……お父さんの仕事がうまくいかなかった時とか、お酒をひどく飲んだ時、かしら」
やはり躾目的ではない。
ただの八つ当たりだ。
先輩は仕事と表現したが、実際はギャンブルだろう。
(これをどうすべきか……)
おそらく俺が警察や児童相談所に通報したところで、今の彼女は父親を庇うだろう。
かと言って、無理やりこの家から連れ出せば、かえって俺が誘拐犯として警察沙汰になりかねない。
根本的な解決にはならなくとも、当分父親の暴力を防げる手立てはないものか。
今、彼が血眼になって求めているのはギャンブルの軍資金――つまり、金だ。
「先輩、まだ仕事は始まってませんけど、雇い主として一つ指示してもいいですか?」
「まあ……それは深川くんの権利だから」
「俺の家に仕事に来る時は、包帯もタイツも全部脱いできてください」
「え……?」
おそらく今、菅原先輩は父親の暴力に、まともな抵抗すらしていないはずだ。
ならば、抵抗するための口実を作ってやればいい。
彼女の父親も躊躇わざるを得ないような強力な名分を。
「俺、実は生足派なんです。せっかく働いてもらうなら、そこは俺の好みに合わせてほしくて」
「……深川くん、本当はものすごい変態だったりしないわよね?」
「男はみんな変態ですよ?」
俺は小さく笑って言った。
「綺麗な手足を俺に見せてください」
菅原先輩はきっと、包帯と黒タイツで父親につけられた痣を隠しているのだろう。
俺の家で働き始めれば、父親が彼女を殴って傷をつけた場合、俺の業務指示に背くことになる。
父親の立場からすれば、俺という金づるを失いたくない以上、娘に手を上げることへ、躊躇が生じるはずだ。
「俺の指示、ちゃんとお父さんにも伝えてくださいね?」
「……!」
彼女が目を丸くした。
もしかすると、俺の意図を読んだのかもしれない。
彼女がにっこりと笑って答えた。
「ええ、分かったわ。社長の好みに合わせなきゃね」
「先輩の手足は綺麗なのに、隠すのは人類の損失ですよ」
「なんだかだんだん深川くんの……なんというか、社長の好みに振り回される秘書になっていく気がするんだけど?」
「……」
職場でのセクハラで訴えられたりしないよな?
◇
カップ麺を食べ終えて、菅原先輩の家を出た。
このまま家に帰ろうかと思ったが、隣の小森家の前で立ち止まった。
(いっそ今頼んでみるか)
放火のような、菅原先輩の自宅で起きうる危機には、俺より和花のほうが早く駆けつけられるはずだ。
俺の家からでは遠すぎる。
スマホを取り出し、和花にラインを送った。
「今お前の家の前なんだけど、ちょっと話せる?」
10秒も経たずに返信が飛んできた。
「え? 今??すっごく急ぎの用??」
「すっごく急ぎってわけじゃないけど、ちょっと頼みたいことがあってさ。難しければ電話でもいいけど」
「難しいわけじゃないけど、ちょっと待って、10分だけ!いや、5分だけ待って!!」
「分かった」
別れてからそれほど時間も経っていないのに、また顔を合わせるとは思わなかったのだろう。
実は俺も、もう少しのんびりするつもりだった。
けれど、菅原先輩の父親の状態は想像以上に深刻で、気が急いていた。
一刻も早く彼女を救わなければという思いが強くなったのだ。
きっかり7分後、小森家の玄関のドアが開いた。
「ご、ごめん! 待った?」
「いや。俺のほうこそ急にごめん」
なぜか和花は息を切らしていた。
服も少し乱れている。
中に入ると、杏奈ちゃんが俺に挨拶をした。
そしてすぐに、和花が慌てていた理由が分かった。
「お姉ちゃん、急に髪をとかして化粧して、ブラ着けて服を着替えてって、もう家の中大騒ぎだったんですよ!」
「あ、杏奈、黙って!!」
和花が杏奈ちゃんの口を、慌てて手で塞ごうとした。
ああ、なるほど。
ただのんびりと残りの日曜日を過ごそうとしていたのに、急にお客さんがやって来たからか。
俺は冗談めかして言った。
「俺は別に、ボサボサの頭にすっぴん、ノーブラ、ダルダルの穴の空いた服でも全然構わなかったんだけど」
「私が嫌なの!! 何よりノーブラだけは!!」
「なんで?ギャルっぽいじゃん?」
「ギャルっぽいって言えば、何でも誤魔化せると思ってるわけ!?」
今度は改めて和花に案内され、彼女の部屋へ上がった。
机の上に積まれた教科書の山、ゲーセンで取ったらしいぬいぐるみがいくつか、食べかけのコンビニグミの袋、ベッド脇のスマホ充電ケーブル。
少し前までいた、殺風景な菅原先輩の部屋が頭に残っているせいか、どうしても二つの部屋を比べてしまう。
「なんだか和花の匂いがする部屋だな」
「え、え!? 私、ファブリーズ一生懸命かけたのに!?」
「俺が来るからって5分間頑張ったんだな」
「っ、騙したわね!」
和花がまたしても子供のように頬を膨らませた。
思わず笑みがこぼれた。
「それで、お願いって何なの」
「ああ、実は菅原先輩のことなんだ。ちょっと真面目な話」
「……もしかしてだけど。私の時みたいに、何か命に関わることなの?」
俺は口を開けたまま固まった。
未来予知に気づいているのか?
いや、気づいていたとしても不思議じゃない。
何度も交通事故について忠告したうえ、実際に身をもって経験しているのだから。
「まあ……そうだな。先輩には内緒にしてくれ。どうせ信じないだろうけど」
「だからあんた、あんなに急に先輩に近づいたんだ。……正直ちょっと複雑な気分」
「ん? なんで?」
和花がそう感じる理由があるのか?
本気で分からず首を傾げると、和花は頭を激しく横に振って腕を振り回した。
「ち、違うわよ!そ、その……また私の時みたいに危ないことするんじゃないかって思って!ほら、某赤髪の海賊みたいに、今度は折れるどころか腕が千切れるんじゃないかって!」
「ああ、なんだ。今回は大丈夫だよ」
放火も自殺も、交通事故と違って、俺が身を挺して防げる類のものじゃないし。
「ねえ、一つ気になってることがあるんだけど」
「何?」
「私の時もそうだけど、どうしてそんなに他の人を救うことに必死なの?」
単に寝覚めが悪いから、と答えれば納得しないだろう。
もう少し具体的に説明したほうがよさそうだった。
「和花は、車に轢かれた動物の死骸を直接見たことあるか?」
「ううん……。蓮は見たことあるの?」
「ああ。小学生の時だったかな。ある大きなトラックが、俺の目の前で野良猫を轢いていったんだ。俺がすぐにその野良猫を抱えて動物病院に行ったんだけど、即死だったって言われてさ」
もちろん、その大型トラックもわざと野良猫を殺すつもりはなかったはずだ。
どちらが悪いのかと問われれば、急にトラックの死角へ飛び出した野良猫の方なのだろう。
だが、当時の幼い俺にそんな理屈が理解できるはずもなかった。
「それで俺、しばらく本当に眠れなかったんだ。ベッドに横になると、ずっとループ再生されるんだよ。あの野良猫が死ぬ姿が」
「そうなんだ……」
「単に俺のメンタルが弱いだけさ。普通の人は、まあ可哀想に思うことはあっても、それで何日も引きずったりしないからな」
何もできなかった無力感。
受け入れるしかない不条理。
単に死んだという結果よりも、その二つが幼い俺の胸を締め付けた。
だからだろうか、俺に予知能力が備わったのは。
「要するに、寝覚めが悪いからやってるだけなんだよ。睡眠時間は大事だろ?」
「なんかすごく真面目な話だったのに、拍子抜けする結論なんだけど!?」
「本来そういうもんだろ。別に俺はヒーローごっこをするつもりはないからな」
そうだ、極めて個人的な理由だ。
俺の精神衛生のために。
到底俺の手には負えない未来なら、結月の時のように諦めることもある。
「まあ、とにかく分かった。それで、お願いって?」
「日が沈んでから……正確には22時以降かな。菅原先輩の家の周りを、怪しいやつがうろついてないか、この部屋の窓から見張っててほしいんだ」
「え?22時から何時まで見ればいいの? 私も寝なきゃいけないし」
「まあ、寝る前まででいいよ」
22時と指定した理由は簡単だ。
法律上、高校生のバイトは22時までしかできない。
そして菅原先輩は元々、放課後すぐにバイトに行くのが日常だし、『悪夢』でも放火犯が夜にガソリンを撒いたと語っていた。
つまり、22時を過ぎてバイトから帰り、家で寝静まった頃に起きた出来事である確率が極めて高い。
「平日の夜は近いうちに家に帰らなくなるはずだから、週末の夜を中心に見てくれればいいよ」
できる限り昨日のように先輩が実家に泊まらないよう努力するつもりだが、毎回そうするのは難しいだろう。
それでも週末なら、和花も平日よりは少し遅く寝るはずだ。
和花が頷きながら尋ねた。
「でも、もし本当に怪しい人を見たらどうするの?」
「怪しいってレベルじゃなくて、明らかに犯罪行為だと思ったら、すぐに110番して。そこまでじゃなければ、俺に電話してくれればいい」
「分かった。上手くできるか少し自信ないけど……。他でもないあんたのお願いだから!あんたのお願いだから聞いてあげるのよ! か、勘違いしないでよね!!」
「う、うん。ありがとう」
これもツンデレなのだろうか、少し戸惑った。




