第2話 悪夢②
キラキラと輝くイルミネーションと、巨大なクリスマスツリーに彩られた夜の街。
店頭から溢れ出す陽気なクリスマスキャロルが、今の俺にはひどく耳障りに響いた。
荒い息を吐きながら、俺は雑踏を必死にかき分けて駆け抜けた。
「結月……結月っ!」
俺は半ば狂ったように、声を枯らして叫んだ。
やがて、俺の視界にラブホ街が飛び込んできた。
様々なカップルが行き交う雑踏の中――
「結月!」
俺の彼女が歩いていた。
だが、一人じゃない。
女友達でもない。
彼女が腕を組んでいる相手は、金髪で筋肉質の男だった。
「あ、蓮……」
「どういうことだよ……?今日は写真部の用事で無理って言ってたのに。写真部に聞いたら、そんな予定ないって……」
「ごめんね……」
結月は気まずそうに目を逸らし、どこか他人事みたいに言った。
「私、蓮よりもこの人――長澤先輩の方が好きになっちゃったの。だから、蓮とはもう付き合えない」
「そ、そんな……」
「じゃあ、私これから先輩と行くから。ばいばい、蓮」
俺はその場にへたり込んだ。
とめどなく涙を流し、「結月! 結月――ッ!」と叫んだ。
彼女は振り返りもしない。
むしろ金髪の男の腕にいっそう強くしがみつき、遠ざかっていった。
「どうして、どうして……!!」
俺はベッドから飛び起きた。
全身が冷たい寝汗でびっしょりと濡れていた。
荒い息を繰り返しながら、俺は周囲を見回した。
そこは冷たいアスファルトの上ではなく、見慣れた自分の部屋だった。
全部――夢だった。
(……まさかこれ、『悪夢』なのか)
これほど胸が締め付けられる夢は、初めてだった。
全財産を失う夢なんかより、ずっと痛い。
深呼吸しても、鼓動が収まらない。
その時、ドアの向こうから声が聞こえてきた。
「蓮? まだ寝てるの~?早く起きないとイタズラしちゃうよ?」
このふざけた口調は……。
俺はすぐにドアを開けた。
そこには制服姿の結月が、迎えに来ていた。
「まだ準備してないの? 早くしな――れ、蓮?」
俺は思わず彼女を強く抱きしめていた。
ああ、この温もり……。
これが現実だ。
あんな夢など、現実じゃない。
「どうしたの? 怖い夢でも見た?」
「あ、うん……。ごめん」
結月が戸惑うのが分かって、俺はゆっくり腕をほどこうとした。
それでも彼女は俺の頭を力強く抱き寄せ、撫でてくれた。
「よしよし、可哀想に。うちの蓮くん、そんなに怖かったんでちゅか?」
「ばぶー、もっとなぐさめて」
「うわぁ……。キモっ」
彼女は笑いながら、俺の顔を両手で挟んでチュッとキスをしてくれた。
この愛嬌も、二人だけのじゃれ合いも――今はまだ、俺のものだ。
だが、もし『悪夢』の通りになれば、あの長澤先輩という奴のものになってしまう。
(ただの悪い夢だと片付けるわけにはいかない)
俺が見る夢――とりわけ『悪夢』は特別だ。
それは、近い未来に必ず起こる現実の予兆。
だが、絶対的な『運命』でない限り、俺の行動で未来は変えられるはずだ。
「結月。10分……いや、5分でいい。真面目な話がある」
「急に?」
俺は頷いた。
そうだ、まずは一つずつ、やれることからやってみよう。
まだ俺が見た未来が確定したわけじゃないんだから。
俺は結月を部屋に招き入れ、ベッドに並んで腰掛けた。
「なあ結月。写真部に、この前停学から復帰したっていう先輩、いるよな?長澤先輩とかいう人」
「あ、うん。3年生の先輩。どうして知ってるの?」
心の片隅では、ただの夢であってほしいと願っていた。
しかし、もしこれが予知夢ではないのだとしたら、おかしい。
高木からは、その先輩の正確な名前までは聞いていなかった。
これは普通の夢であるはずがない。
「ちょっと、噂を聞いてさ。女性関係があまり良くないとか……」
「あ、もしかして私が浮気する夢でも見た?」
「まあ、似たようなもんだ」
結月がぷっと吹き出した。
「あー、もう、蓮ってばこういう時は本当に可愛いんだから!」
「いや、真面目に聞いてくれって……」
「私は蓮一筋だってば。そんなこと絶対ないから心配しないで! 言ったじゃん?小学校の頃から、ずっと蓮のことだけが好きなんだから。だから、そんな心配しなくていいよ」
「……そっか」
ざわついていた胸が、少し落ち着いた。
だが、続く言葉に俺は体を強張らせた。
「それにあの先輩、見かけによらずいい人だよ?」
「いい人……?」
「うん!私も噂を聞いてちょっと心配してたんだけど、部長もあの噂は誇張だって言ってたし。実際に話してみても、変にナンパしてくることもなくて、ごく普通だったよ?」
「本当に?」
「しかもね、何がいちばん意外だったと思う?学校の前の野良猫にエサあげてたんだよ。 もう、ほんとびっくり! 漫画みたいって、みんなで散々からかったんだから」
俺はすぐに察した。
長澤先輩は、結月たち女子の警戒心を解くために無害を装っているのだ。
俺は彼女の肩をガッと掴んで叫んだ。
「結月、頼む。その先輩とは関わらないでくれ」
「蓮、どうしたの? 私の話、聞いてた? あの先輩はそういうのじゃないってば。私には興味もなさそうだったよ」
「違う、そういうことじゃないんだ。それ全部、お前を奪おうとする手口なんだよ!」
だが、結月は深いため息とともに首を横に振った。
「蓮、変な夢を見てヤキモチを焼くのも不安になるのも分かるよ。でも、蓮は私の夢が何なのか知ってるでしょ?」
「……フォトグラファーだろ」
「だから、私は写真部の活動は辞められないの。部活をしていれば、当然部の先輩とも自然に顔を合わせることになるし、『一切関わるな』なんて無理だよ」
彼女の言うことは正論だった。
彼女が部活を通して関わる男をいちいち疑っていてはキリがない。
そもそも、それは病的な束縛だ。
だが、俺の夢は病気じゃない。
俺以外のすべての男と会うなと言っているわけでもない。
長澤先輩だけは避けてほしい、ただそれだけのお願いなのだ。
「あ、そうだ!」
結月が名案を思いついたようにポンと手を打った。
「蓮も直接、長澤先輩に会ってみてよ。そうすれば、私の言ってる意味が分かると思うから」
「いや、そういうんじゃなくて――」
俺が反論しようとした時。
「二人とも!早く降りてきてご飯食べなさい!!」
母さんが一階から大声で呼んだ。
結月がニコッと笑いながら、俺の手を握った。
すぐそばにいるはずなのに、普段よりも遠く感じる。
この日はいつも以上に、朝飯が喉を通らなかった。
◇
放課後、結月に連れられるまま、写真部の部室へ向かった。
そこには、金髪の筋肉質な巨漢の3年生が、パイプ椅子に腰を下ろして本を読んでいた。
――間違いない。
夢で結月を奪い去った、あの長澤先輩だ。
「ん? なんだ、そいつは?」
「紹介しますね、先輩。私の彼氏の蓮です!」
「彼氏?」
「はい!あ、蓮、こちらが長澤先輩だよ」
本を机に置き、長澤先輩が立ち上がった。
そして、俺の方へゆっくりと近づいてきた。
俺も決して背が低い方じゃないのに、見上げるほどの巨漢だった。
低く見積もっても185センチは超えているだろう。
「すげえ優しそうな顔してんな。いい彼氏じゃねえか、北山」
「でしょ? すっごく優しいんです!」
「へえ……。いつから付き合ってるんだ?」
「中学の時からですよ! 蓮から告白してくれたんです。あの時、すっごく顔を真っ赤にして、声も手も足も震わせてて」
ハハハ、と長澤先輩が声を上げて笑った。
「いやあ、初々しいねえ。お互い初恋ってやつか?」
「はい!実は元々幼馴染なんですよ。幼稚園の頃からの付き合いなんです」
「なるほど。相当仲がいいんだろうな」
彼は口の端をゆっくりと吊り上げた。
「お互いを全く疑わないくらいにな」
その言葉に、俺は全身に鳥肌が立った。
言葉だけを切り取れば、それだけ深い信頼で結ばれた仲だ、という意味に過ぎない。
だが、その言葉の本当の意味は――仮に結月が彼と隠れて浮気をしていても、俺は微塵も疑わないだろう、ということだ。
(そうだ、あの悪夢はあくまでクリスマスに俺にバレたっていうだけだ)
実際にいつからそういう関係になったのかは分からない。
夏休みの時かもしれないし、来月かもしれないし、来週かもしれない。
もしかすると、すでに……。
俺は頭を振って雑念を追い払い、口を開いた。
「深川蓮です。長澤先輩のあまり良くない噂を耳にして……それが気になって」
「まあ、噂が悪いのは確かにな」
「先輩は……人の彼女を奪ったりするような人じゃないですよね?」
長澤先輩は笑みを浮かべて答えた。
「ああ、俺はちょっと熱しやすく冷めやすいだけさ。わざわざ奪いに行ったりはしない」
◇
果たして、今日の行動で最悪の未来を回避できただろうか。
ひとまず、結月に俺の言葉を信じてもらえなくてもいい。
真剣に伝えた分だけ、何かは残ったはずだ。
長澤先輩も、俺が警戒していることに気づいただろうし。
「じゃあ、また明日ね」
チュッ。
家まで送ってくれたお礼に、結月が小さくキスをくれた。
俺はそのまま自分の部屋に戻り、ベッドに横たわった。
その夜は証券アプリを確認する気力もなく、そのまま眠りに落ちた。
どうか何も夢を見ませんように――そう願いながら。
だが、その願いはあっけなく砕け散った。
結月が、あの夢よりもはるかに凄惨な姿で――長澤先輩に完全に寝取られている光景。
そんな最悪の『悪夢』を、俺は見てしまった。




